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母子叙情(ぼしじょじょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 8:12:25 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 かの女が、いよいよ巴里(パリ)へむす子を一人置いて主人逸作と帰国するとき、必死の気持が、かの女に一つの計画をたてさせた。かの女は、むす子と相談して、むす子が親と訣(わか)れてから住む部屋の内部の装置を決めにかかった。むす子が住むべき新しいアパートは、巴里の新興の盛り場、モンパルナスから歩いて十五分ほどの、閑静なところに在った。
 そこは旧い貧民街を蚕食(さんしょく)して、モダンな住宅が処々に建ちかかっているという土地柄だった。
 かの女はむす子の棲(す)むアパートの近所を見て歩いた。むす子が、起きてから珈琲を沸すのが面倒な朝や、夜更けて帰りしなに立ち寄るかも知れない小さい箱のようなレストランや、時には自炊もするであろう時の八百屋、パン屋、雑貨食料品店などをむす子に案内して貰って、一々立ち寄ってみた。ある時はとぼとぼと、ある時は威勢よく、また、かなりだらしない風で、親に貰った小遣いをズボンの内ポケットにがちゃがちゃさせながら、これ等の店へ買いに入る様子を、眼の前のむす子と、自分のいない後のむす子とを思い較(くら)べながら、かの女はそれ等の店で用もない少しの買物をした。それ等の店の者は、みな大様(おおよう)で親切だった。
「割合に、みんな、よくして呉(く)れるらしいわね」
「僕あ、すぐ、この辺を牛耳(ぎゅうじ)っちゃうよ」
「いくら馴染(なじ)みになっても決して借を拵(こしら)えちゃいけませんよ、嫌がられますよ」
 それからアパートへ引返して、昇降機が、一週間のうちには運転し始めることを確め、階段を上って部屋へ行った。
 しっとりと落着きながら、ほのぼのと明るい感じの住居だった。画学生の生活らしく、画室の中に、食卓やベッドが持ち込まれていて、その本部屋の外に可愛(かわい)らしい台所と風呂がついていた。
「ほんとうに、いい住居、あんた一人じゃあ、勿体(もったい)ないようねえ」
 かの女はそういいながら、うっかりしたことを云い過ぎたと、むす子の顔をみると、むす子は歯牙(しが)にかけず、晴々と笑っていて、「いいものを見せましょうか」と、台所から一挺(いっちょう)日本の木鋏(きばさみ)を持ち出した。
「夏になったらこれで、じょきんじょきんやるんだね。植木鉢を買って来て」
「まあ、どこからそんなものを。お見せよ」
「友達のフランス人が蚤(のみ)の市で見付けて来て、自慢そうに僕に呉れたんだよ。おかしな奴さ」
 かの女は、そのキラキラする鋏の刃を見て、むす子が親に訣れた後のなにか青年期の鬱屈(うっくつ)を晴らす為にじょきじょき鳴らす刃物かとも思い、ちょっとの間ぎょっとしたが、さりげない様子で根気よくむす子に室内の家具の配置を定めさせた。浴室の境の壁際に寝台を、それと反対の室の隅にピアノを据えて、それとあまり遠くなく、珈琲を飲むテーブルを置く。しまいに、茶道具の置き場所まで、こまかく気を配った。
 それは、むす子の生活に便利なよう、母親としての心遣いには相違なかったが、しかし、肝腎(かんじん)な目的は、かの女自身の心覚えのためだった。かの女は日本へ帰って、むす子の姿を想(おも)い出すのに、むす子が日々の暮しをする部屋と道具の模様や、場取りを、しっかり心に留めて置きたかった。それらの道具の一つ一つに体の位置を定めて暮しているむす子の室内姿を鮮明に想い出せるよう、記憶に取り込むのであった。むす子も、むす子の父親も、かの女の突然なものものしい劃策(かくさく)の幼稚さに呆(あき)れ乍(なが)ら、また名案であるかのように感心もした。
 それからまた、遠く離れて居れば、むす子の健康が、一番心配だとしきりに案じるかの女を安心させるため、むす子はかの女達が、英国や独逸(ドイツ)へ行って居る間に出来た友人で、巴里でも有名なある外科病院の青年医を両親に見せることにした。かの女達は、むす子を頼んで置くその青年医を一夕(いっせき)、レストランへ招待した。かの女達は、魚料理で有名なレストランへ先に行っていた。むす子があとから連れて来た青年は、むす子より丈が三倍もありそうな、そして、髪も頬(ほお)も眼もいろ艶(つや)の好いラテン系の美丈夫だった。かの女はこんな出来上った美丈夫が、むす子の友達だなんて信じて好いのかと思った。むす子を片手で掴(つか)んで振り廻(まわ)しそうにも思えた。「なに、ぼんやりしてんの、お母さん。」むす子は美男子に見惚(みほ)れて居るような場合、何にも考慮に入れない母親の稚純性を知って居て、くすり[#「くすり」に傍点]と笑った。美青年も何かしら好意らしく笑った。美青年の笑顔は、まるで子供だった。そして彼女は安心した。柄こそ大きくても青年は医科大学を出たばかりで二十五歳の助手だった。そうは云っても二十歳ばかりの異国画学生のむす子が、よくこんなしっかりした青年を友人に獲得したものだと一向にだらしのないような自分のむす子のどこかにひそむ何かの伎倆(ぎりょう)がたのもしく思われた。かの女の小柄なむす子――細くて鋭い眼と眼とが離れ、ほそ面のしまった顔に立派過ぎる鼻と口、だが笑う眉(まゆ)がちょっぴり下ると親の身としては何かこの子に足らぬ性分があるのではないかと、不憫(ふびん)で可愛(かわ)ゆさが増すのだった。
 よく語り、よく喰(た)べたが、食事をしながらの青年は決して人ずれがして居なかった。この青年の親達はどんな人か、どんな育ちかと、かの女は女性にありがちな通俗的な思案にふけって居るうちに、自分のむす子が赤子のとき、あんまりかの女達が若い親だったことを思い出した。若くもあり、性来子を育てる親らしい技巧を持ち合せて居ない自分達を親に持ったむす子の赤児の時のみじめさを想い出した。そういう自分達の、まして、まだ親らしい自覚も芽(め)ぐまないうちに親になって途方にくれて居るなかで、いつか成人して仕舞ったむす子の生命力の強さに驚かれる。感謝のような気持がその生命力に向って起る。だが、その生命力はまた子の成長後かの女の愛慾との応酬にあまり迫って執拗(しつよう)だ。かの女は、持って居たフォークの先で、何か執拗なものを追い払うような手つきをした。自分の命の傍に、いつも執拗に佇(たたず)んで居る複数の影のようなものを一瞬感じたとき、かの女の現実の眼のなかへいつものむす子の細い鋭い眼が飛び込んで来て、「なにぼんやりしてんの」と薄笑いした。青年もかの女を見て「ママン泣いて居る?」と薄笑いし乍らむす子に聞いた。


「あなたんとこの息子さんを、モンパルナスのキャフェでよく見かけますよ」と、薄い旅費で行脚的に世界一周を企て巴里まで来て、まだ虚勢とひがみを捨て切らない或る老教育家が、かの女等の親子批判にいどみ込んで来た。むす子が親の金でモンパルナスに出掛けて行ってるのを知らないのかという口調だった。かの女達はよく知っていた。知り過ぎていた。というよりも、夜にでもなったらモンパルナスのキャフェへでも出掛けて行き分相応愉快に過しなさいという気持で、一人置いて行く子のアパートを、モンパルナスからあまり遠くない地点に選んでやったくらいだ。巴里の味はモンパルナスのキャフェにあるとさえ云われて居るところをむす子から封じて、巴里へ置いて行く意義はない。

  若くして親には別れ外(と)つ国の
  雪降る街を歩むかあはれ。

 一人巴里に置かれることが、むす子の願い、親の心柄であるとは云え、二十歳そこそこで親に別れ、ひと日暮れ果ててキャフェへさえ行かれない子にして置けるだろうか。かの女自身のむす子と別れて後の淋しい生活を想像して見ても、むす子が行く華やかなモンパルナスのキャフェの夜の時間を想(おも)うことが、むしろ、かの女の慰安でさえある。むす子は純芸術家だ、画家だ、なにも修身の先生にでもするのじゃなし……かの女にこういう考えもあった。
 東京銀座のレストラン・モナミのテーブルに倚(よ)りかかって、巴里(パリ)のモンパルナスのキャフェをまざまざと想い浮べることは、店の設備の上からも、客種の違いからも、随分無理な心理の働かせ方なのだが、かの女のロマン性にかかるとそれが易々と出来た。
 ふだんから、かの女は地球上の土地を、自分の気持の親疎によって、実際の位置と違った地理に置き換えていた。つまり感情的にかの女独得の世界地図が出来ていた。その奇抜さ加減にときどき逸作も、かの女自身すら驚嘆することがあった。アメリカは、ほとんど沙漠の中の蛮地のように遠く思え、欧洲はすぐ神戸の先に在るように親しげな話し振りをかの女はした。だから、四年前一家を挙げて欧洲へ遊学に出掛ける朝も、一ばん気軽な気持で船に乗ったのはかの女だった。かの女は和装で吾妻下駄(あずまげた)をからから桟橋に打ち鳴らしながら、まるで二三日の旅に親類へでも行くような安易さだった。
 かの女はまた情熱のしこる時は物事の認識が極度に変った。主観の思い詰める方向へ環境はするする手繰られて行った。
 身体に一本の太い棒が通ったように、むす子のことを思い詰めて、その想い以外のものは、自分の肉体でも、周囲の事情でも、全くかの女から存在を無視されてしまうときに、むす子のいる巴里は手を出したら掴(つか)めそうに思える。それほど近く感じられる雰囲気の中に、いべき筈(はず)のむす子がいない。眼つきらしいもの、微笑らしいもの、癖、声、青年らしい手、きれぎれにかの女の胸に閃(ひらめ)きはするが、かの女の愛感に馴染(なじ)まれたそれ等のものが、全部として触れられず、抱え取れない、その口惜しさや悲しさが身悶(みもだ)えさせる。ふとここでかの女の理性の足を失った魂のあこがれが、巴里の賑(にぎ)やかさという連想から銀座へでも行ったらむす子に会えそうな気を彼女にさせる。さすがに彼女も一二度はまさかと思い返してみるけれども、今度は、あこがれだけがずんずん募って行って、せめてあこがれを納得させるだけでも銀座へ踏み出してむす子の俤(おもかげ)を探さなければ居たたまれないほど強い力が込み上げて来る。で、ある時はむしろ、かの女の方から進んで銀座へ出たがるので、そんなとき逸作はかの女の気が晴れて来たのかと悦(よろこ)んでいる。かの女は夢とも現実とも別目(けじめ)のつかないこういう気持に牽(ひ)かれて、モナミへ入り、テーブルに倚りかかって、うつらうつらむす子と行った巴里のキャフェを想い耽(ふけ)る。


 モンパルナスのキャフェ・ド・ラ・クーポールの天井(てんじょう)や壁から折り返して来るモダンなシャンデリヤの白い光線は、仄(ほの)かにもまた強烈だった。立て籠(こ)めた莨(たばこ)の煙は上から照り澱(よど)められ、ちょうど人の立って歩けるぐらいの高さで、大広間の空気を上下の層に分っている。
 上層は昼のように明るく、床に近い下層の一面の灰紫色の黄昏(たそがれ)のような圏内は、五人或は八人ずつの食卓を仕切る胸ほどの低い靠(もた)れ框(がまち)で区切られている。凡(あら)ゆる人間の姿態と、あらゆる色彩の閃きと、また凡ゆる国籍の違った言葉の抑揚とが、框の区切りの中にぎっしり詰っている。出どころの判らない匂(にお)いと笑いと唄(うた)とを引き切るように掻(か)き分けて、物売りと、分別顔のギャルソンが皿を運んだり斡旋(あっせん)したりしている。
「しまった、お母さん、いい場所を先に取られちゃった」
 かの女をモンパルナスのキャフェ・ド・ラ・クーポールに導いて入ったむす子は、ダブル鈕(ボタン)の上着のポケットから内輪に手を出し、ちょっと指してそういった。
 そこは靠れ壁の枡目(ますめ)の幾側かに取り囲まれ、花の芯(しん)にも当る位置にあった。硝子(ガラス)と青銅で作られた小さい噴水の塔は、メカニズムの様式を、色変りのネオンで裏から照り透す仕掛けになっている。噴水は三四段の棚に噴き滴って落ち、最後の水受け盤の中には東洋の金魚が小鱒と一しょに泳いでいた。
「いいの、いいの、こんやは、こっちが晩(おそ)いのだから」    
 かの女は、ちっとも気にしない声でそういった。そして別の場所を探すよう、やや撫肩(なでがた)ながら厚味のあるむす子の肩の肉を押した。
 噴水のネオンの光線の加減のためか、水盤を取り巻いて、食卓を控えた靠れ壁の人々の姿はハッキリ[#「ハッキリ」に傍点]しなかった。しかし、向うは、もう気がついたらしく、西洋人の訛(なま)ったアクセントで呼びかけるのが聞えた。
「イチロ、イチロ」
「イチロ」
 息子の名を呼びかけるそれらは女の声もあるし、男の声もあった。クックという忍び笑いを入れて囁(ささや)くように呼ぶ声は、揶揄(からか)い交りではあるが、決して悪意のあるものではなかった。
「まあ、誰」
 かの女は首を低めて、むす子の肩からネオンの陰を覗(のぞ)き込んだ。むす子はそれに答えないで吃(ども)った。
「ああ、あいつ等が占領しているのか、だいぶ豊かと見えるな」
 そして、声のする噴水のかげの隅に向って、のびのびした挨拶(あいさつ)の手を挙げていった。
「子供等よ、騒ぐでないぞ、森の菌霊(こびと)が臼(うす)搗(つ)くときぞ」
 むす子は、おかしさが口の端から洩(も)れるのをそのまま、子供等に対する家長らしい厳しい作り声をあっさり唇に偽装して、相手の群に発音し終ると、くるりと元の方向に踏み直って歩き出した。
「やったな、やったな」という声や、またも、「イチロ、イチロ」という叫び声が爆笑と混って聴えた。五六人、西洋人らしい無造作な立ち上り方をして拍手した。
 靠れ壁の隅に無精らしく曲げた背中をもたせて笑ってばかり居る若い娘と、立ち上った群の中に、もう一人長身の若い娘が、お出額(でこ)の捲髪(カール)を光線の中に振り上げ振り上げ、智慧(ちえ)のない恰好(かっこう)で夢中に拍手しているのを、かの女は第一にはっきり見て取った。かの女はちょっと彼等に微笑しながら目礼したけれど、妙な一種の怯(おび)えが、むす子を彼等から保護するような態度を、かの女にさせた。かの女は思わず息子の身近くに寄り添った。そのくせかの女はまたすぐあとから、彼等に好感を覚えてのろのろと彼等の方を見返した。
「おかあさん、何してるんです、どうせあいつら、あとで僕たちの席へ遊びに来ますよ」
「あんた、とても、大胆ね、こんな人中で、よく平気であんな冗談云えるのね」
 そういいながら、かの女は却(かえ)って頼母(たのも)しそうにむす子の顔をつくづく瞠入(みい)った。
 むす子のこんなことすら頼母しがるお嬢さん育ちの甘味の去らない母親を、むす子はふだんいじらしいとは思いながら、一層歯痒(はが)ゆがっていた。自分達は、もっと世間に対して積極的な平気にならなければならない。
「また癖が」、むす子はかの女の自分に感心するいつもの眼色を不快そうに外ずして向うをむきながら、かの女の手をぐっと握り取った。
「怯えなくとも好い……何でもないです。誰でも同じ人間です」
「すると、あの中の女たちは、やっぱり遊び女」
「遊び女もいますし、芸術家もいます。中には、ひどい悪党もいます」
 むす子は母親の眼の前に現実を突きつけるように意地悪く云い放ちながら、握った手では母親の怯えの脉(みゃく)をみていた。かの女には独りで異国に残るむす子の悲壮な覚悟が伝わって来て身慄(みぶる)いが出た。かの女は自分に勇気をつけるように、進んでむす子の腕を組みかけながらいった。
「ほんとに誰でも同じ人間ね。さあみんなと遊ぼう」
 この夜は謝肉祭の前夜なので、一層込んでいた。人々に見られながらテーブルの間の通路を、母子は部屋中歩き廻(まわ)った。
 通り過ぎる左右の靠(もた)れ壁(かべ)から、むす子に目礼するものや、声をかけるものがかなりあった。美髯(びぜん)を貯え、ネクタイピンを閃(ひらめ)かした老年の紳士が立ち上って来て礼儀正しく、むす子に低声で何か真面目(まじめ)な打合せをすると、むす子は一ぱしの分別盛りの男のように、熟考して簡潔に返事を与えた。老紳士は易々として退いて行った。その間かの女は、むす子がふだんこういう人と交際(つきあ)うならお小遣が足りなくはあるまいか、詰めた生活をして恥を掻(か)くようなことはあるまいか、胸の中でむす子が貰う学資金の使い分けを見積りしていた。しかし、それよりも、むす子に向って次の靠れ壁から声をかけた一人の若い娘に考えは捉(とら)えられた。その娘は病気らしく、美しい顔が萎(しな)びていて僅(わず)かに片笑いだけした。
「ジュジュウ! 病気悪いか」
 娘はまた片笑いしただけだったが、かの女は、むす子がその娘に対する挨拶(あいさつ)に、ただの男らしい同情だけ響くのを敏く聞き取って、その女は遊び女に違いないにしろ、もっとむす子は優しく云ってやればいいのに、と思った。
「イチロ。空いたところがある」
 鳶色(とびいろ)の髪をフランス刈りにしたマネージャーが、人を突きのけるようにして、かの女等親子を導いて、いま食卓の卓布の上からギャルソンが、しきりにパン屑(くず)をはたき落している大テーブルへ連れて行った。そこでマネージャーは無言でぱっと両手を肩のところで拡(ひろ)げ、首をかしげて、今夜は忙しくて忙しくてという身振りをする。ギャルソンは新しい卓布を重ねて、花瓶の位置をかの女の方向へ置き直した。かの女はしばらく、薄紅色のカーネーションの花弁に、銀灰色の影のこまかく刻み入ってるのを眺め入った。
 小広いテーブルに重ねられた清潔な卓布は、シャンデリヤを射反(いかえ)して、人を眠くする雪明りのような刺戟(しげき)を眼に与える。その上に几帳面(きちょうめん)に並べられている銀の食器や陶器皿や、折り畳んだナフキンは、いよいよ寒白く光って、催眠術者の使う疑念の道具の小鏡のように、かの女の瞳(ひとみ)をしつこく追う。
「ああ、わたし、眠くなった。疲れた」かの女はこういって、体を休ましたい気持にも、ちょっとなったが、むす子と一緒と思えば、それを押し除(の)けて生々した張合いのある精神が背骨を伝って、ぐいぐい堕気を扱(しご)き上げるので、かの女は胸を張ったちゃんとした姿勢で、むす子と向い合った。そして眩(まぶ)しい瞳を花瓶の花の塊やパンの上に落着けた。
 焦茶色で絞り手拭(てぬぐい)の形をしているパンは、フランス独得の流儀で、皿にのせず、畳んだナフキンの上にじかに置いてあった。それが却(かえ)ってうまそうに見えた。
 かの女はときどき眼を挙げて、花を距(へだ)てたむす子の顔を見た。ギャルソンに註文を誂(あつら)えた後のむす子は画家らしい虚心で、批評的の眼差(まなざ)しで、柱の柱頭に近いところに描いてある新古典派風の絵を見上げていた。鳶色に薄桃色をさした小づくりの顔は、内部の逞(たくま)しい若い生命に火照(ほて)ってあたたかく潤っていた。情熱を大事に蔵(しま)ってでもいるように、またむす子は、両手を上着のポケットに揃(そろ)えて差し込んでいた。
 新古典派風の絵のある柱の根で、角を劃切られたこの靠れ壁は、少し永く落着く定連客が占めるのを好む場席であった。隅近くではあったが、それだけ中央の喧騒(けんそう)から遠去かり、別世界の感があった。中央の喧騒を批評的に見渡して自分たちの場席を顧みると、頼母(たのも)しい寂しい孤独感に捉えられた。
 かの女は、むす子が眼をやっている間近の柱の絵を見上げて、それから無意識的にその次の柱、また次の柱と、喧騒の群の上に抽(ぬき)んでて近くシャンデリヤに照らされている柱の上部の絵を、眼の届くまで眺めて行った。その絵はまちまちの画風であった。女が描いたように描いた表現派風の絵もあった。ここへ来る古い定連の画家に頼んで勝手に描いて貰ったこれ等の絵は、統一もなく、巧(うま)いのも拙(つたな)いのもあった。かの女はむす子に案内されて画商街へモダンの画を見に通った幾日かを思い起した。それらは、むす子が素性のいい恋人と逢うのに立ち会うように楽しかった。
 かの女の眼が引返してむす子に戻り、今更しみじみ不思議な世界でわが子と会った気持になっていると、かの女はむす子の育った大人らしさを急に掻き乱し度(た)くなる衝動に駆られた。
「よして頂戴(ちょうだい)よ、大人になってさ。お願いだから、もとの子供になりなさいよ」
 かの女は胸でこう云って無精にむす子に手をかけ度い気持を堪えていると、一種の甘い寂しい憎しみが起る。むす子の上ポケットの鳶色のハンケチにかの女の眼が注がれる。「まあ、なんというお巧者な子だろう。憎らしい。忘れないでハンケチなど詰めて」ふと気がつくと、むす子もいつか絵を見ていた眼を空虚にして、心で何か噛(か)み躙(にじ)っているらしい。
 かの女の眼とむす子の眼とが、瞠合(みあ)った。二人は悲しもうか笑おうかの境まで眼を瞠合ったまま感情に引きずられて行ったが、つい笑って仕舞った。二人は激しく笑った。
「どうして笑うのよ」
「おかあさん、どうして笑うんです」
「あんたがいつか言ったこと想(おも)い出したからよ」
「どんなことです」
「あんた、いつか、こういったわね。僕、おかあさんにそっくりな小さい妹を一人得られたら、ぐいぐい引張り廻して僕の思う通りにリードしてやるって、あれをよ」
「ふんそんなことか。けど僕やめにしますよ。なにしろ、おかあさんという人はスローモーションで、どうにも振り廻しにくいですからねえ」
 むす子は唇をちょっと噛んで、面白そうに、かの女を額越しにちょっと見た。
「ついでにおかあさんに云っときますがね、いくら僕が寂しかろうといって、むやみに、お嫁さんの候補者なんか送りつけたりするのはご免(めん)蒙(こうむ)りますよ。やり兼ねないからね。いくらお母さんの世話でも、全くこれだけは断りますよ」それからはじめて手を出して卓の上へ組み合せて、
「僕、おかあさんに対する感情の負担だけでも当分一人前はたっぷりあるのだからなあ」むす子は言葉尻(ことばじり)を独り言のようにいってのけた。
 むす子が面と向ってこういう真実の述懐を吐くとき、かの女には却ってむす子から、形の上の子供子供した点だけが強く印象づけられた。
「そんなに、おかあさんの方ばかり気にしないで、ご自分が幸福(しあわせ)になるよう、しっかりなさいよ。ほんとうですよ」
 こういって、はじめてかの女は母親の位を取り戻した。
 ギャルソンがスープを運んで来た。星がうるんで見える初夏の夕空のような浅い浅黄色の汁の上へギャルソンはパラパラと焦したパン片を匙(さじ)で撒(ま)いて行った。
「香ばしくておいしい。掻餅(かきもち)のようね」とかの女はいった。
 むす子はかの女の喰(た)べ方を監督しながら自分も喰べていった。
「パパ、今晩は、トレ・コンタンでしょう。支那めしが喰べられて」
「久し振りに日本の方と会って大いに談じてますよ」
「パパもいいが独逸(ドイツ)の話だけはして呉(く)れないといいなあ、ベルリンのことを平気でペルリン、ペルリンというんだもの、傍で気がさしちまう」
「おなかじゃベルリンと承知してて、あれ口先だけの癖よ」
 母子は逸作への愛に盛り上って愉快に笑った。
 かの女とむす子は静かに食事を進まして行った。外国の食事の習慣に慣らされて、食事中は込み入った話をしない癖がついている二人は、滑かにあっさり話を交した。
 かの女は最初巴里(パリ)につき、それから主人の用務でイギリスへしばらく滞在するため巴里を出立するとき、むす子に言葉を慣らすため一人で残して置いたのであるが、かの女はむす子の慰めになるかも知れないと、上海(シャンハイ)の船つきで買い入れたカナリヤの鳥籠をもむす子に残していった。むす子はそのカナリヤの餌を貰うのに寄宿の家のものに何といったらいいのか困り果てたという話は、かの女がむす子から度々聞いた経験談だが、観察の角度を代えていままた話されると、相変らず面白かった。
 むす子が、だいぶ経験も積んで、巴里郊外の高等学校の予備校の寄宿舎に、たった一人日本人として寄宿した経験談も出た。むす子はそこでフランスの学生と同等に地理や歴史を学んだ。
「画描きだって、こっちに長くいるなら、それそうとう常識的な基礎知識は必要ですからねえ」
 いくらか、かの女の性質の飛躍し勝ちなロマン性に薬を利かしたという気味も含めて、
むす子は落着いて語った。 
「あんたには、そういう順序を立てた考え深いところもあるのね。そういうところは、あたし敵(かな)わないと思うわ」
 かの女は言葉通り尊敬の意を態度にも現わし、居住いを直すようにしていった。しかし、こういう母親を見るのはむす子には可哀(かわい)そうな気がした。それで、その気分を押し散らすようにしてむす子はいった。 
「なに、僕だって、おかあさんと同じ性分なんです。そしておかあさんだってずいぶん考え深い方でなくはありませんさ。けれどもおかあさんは女ですから、それを感情の範囲内だけで働かして行けばすみますが、僕は男ですからそうは行きません。そうとう意志を強くして、具体的の事実の上にしっかり手綱を引き締めて行かなければ、そこが違うんでしょうねえ」
 けれども、一たんむす子へ萌(きざ)した尊敬の念は、あとから湧(わ)き起るさまざまの感傷をも混えて、昇り詰めるところまで昇り詰めなければ承知出来なかった。かの女は感心に堪え兼ねた瞳(ひとみ)を、黒く盛り上らせてつくづくいった。 
「なるほど一郎さんは男だったのねえ。男ってものは辛(つら)いものねえ。しかし、男ってものは矢張り偉いのねえ」
 これには流石(さすが)にむす子の鋭い小さい眼も眩(まぶ)しく瞬いて、「こりゃどうもそう真面目(まじめ)に来られちゃ挨拶(あいさつ)に困りますねえ」
と、冗談らしく云って、この問題の討議打切りを宣告した。
 かの女が、ほのかに匂(にお)っているオレンジに塗られたブランデーの揮発性に、けへんけへん噎(む)せながら、デザートのスザンヌを小さいフォークで喰(た)べていると、むす子がのそっと立ち上って握手をして迎える気配がした。かの女が振り向くと、さっきの片頬(かたほお)だけで笑う娘が靠(もた)れ框(がまち)の外に来ていた。
「お邪魔じゃなくって」 
「いいでしょう、おかあさん、この女(ひと)」 
「いいですとも。さあここがいい」かの女は自分の席の傍を指した。かの女に握手をして素直にかの女の隣に坐(すわ)った娘は、 
「お姉さま?」とむす子に訊(き)いた。 
「ママン」むす子は簡単に答えて、その娘が気だるげにかの女に対して観察の眼を働かしている間に、むす子は母親に日本語で話した。 
「この女はね。よく捨てられる女なんですよ。面白いでしょう」
 今度はかの女の方が好奇の目を瞠(みは)って娘を観察していると、娘はむす子に訊いた。 
「あなた、ママンに何てあたしを紹介したのです?」 
「よく捨てられる女って」
 それを聞くと娘は、やや興を覚えた張合いのある顔になっていった。
「それは、まだ真実を語っていない。もう一度、ママンに紹介しなさい。よく男を捨てる女って」
 そして、彼女はうれしそうに笑った。神秘的に悧巧(りこう)そうな影を、額から下にヴェールのように持っているこの若い娘が、そうやって笑うとき、口の中に未だ発育しない小さい歯が二三枚覗(のぞ)かれた。その歯はもう永遠に発育しないらしく、小さいままでひねこびた感じを与えた。
 むす子は笑いながら娘の抗議を母親に取次いでこういった。 
「こんなこといってますがね。この女は決して一ぺんでも自分から男を捨てた事はないんですよ。惚(ほ)れた男はみんなきっと事情が出来て巴里から引上げなくちゃならなくなるんです」 
「どうしてなんだろう」 
「どうしてですかね」
 むす子は、ただしばしば男に訣(わか)れねばならなくなる運命の女であるというところに、あっさり興味を持っているようだった。
 ジュジュと仲間呼びされるその娘は、だんだんむす子の母に興味を感じて来た。娘は持前のフランス語に、やや通用出来る英語を混えて、かの女と直接話すようになった。娘は相当知識的で、かの女に日本の女性の事を訊くにつけても、「ゲイシャ、それからヨシハラ、そんなもの以外にちゃんとした女がたくさんあるんでしょう」といったり、「日本の女は形式的には男から冷淡にされるけれども、内容的にはたいへん愛されるんだそうですね」といったりした。
 娘は「猫のお湯屋」の絵草紙を見たことがあって、「あれがもし、日本の女たちの入る風呂の習慣としたら、同性たちと一緒に話したり慰め合ったりしながら湯に入れて、こんな便利な風呂の入り方はない」と羨(うらや)ましそうにいった。
 時計は午前二時を過ぎた。攪(か)き廻(まわ)されて濃くなった部屋の空気は、サフランの花を踏み躙(にじ)ったような一種の甘い妖(あや)しい匂いに充(み)ち、肉体を気だるくさす代りに精神をしばしば不安に突き抜くほど鋭く閃(ひらめ)かせた。人と人との言葉は警句ばかりとなり、それも談話としてはほんの形式だけで、意味は身振りや表情でとっくの先に通じてしまう。廻転(かいてん)ドアの客の出入りも少くなり、その代り、詰めに詰め込んだという座席の客は、いずれもこの悪魔的の感興の時間に殉ずる一種の覚悟と横着とを唇の辺にたたえ、その気分の影響は、広間全体をどっしりと重いものに見せて来た。根のいいロシア人の即席似顔画描きが、隣のキャフェ・ル・ドームを流した後らしく、入って来て、客の気分を見計いながら、鉛筆の先と愛想笑いで頼み手を誘惑しているが、誰も相手にしない。 

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