――マダム。僕はね。料理にしますとあまりに巴里の特別料理を食べ過ぎました。それでね。普通の定食料理が恋しくなったんです。」
夫人の調子は案の定、今口に出した思い付きの一言に煽られてそれ者らしい飛躍を帯びて来た。
――じゃ。お祭りに出た女中さんでも引っかけ、世間並の若い衆になりたいとでもおっしゃるの。」
――まさかね。でも今あなたの仰しゃった世間並には何とかして帰り度いのです。この儘じゃ全く僕は粋な片輪者ですからね。」
新吉のしんみりした物淋しさがあまり自然に感じられたので夫人の飛躍の調子がもとの地味にも落ち著けず、中途のところで鋭い鈍い浪を打った。
――何にしても四年間金鎖草の花を分けて眺めさしてあげたあたしの好意に対しても万事打ち開けるものよ。いつでもいゝからね。」
そんなさばけたもの言いをしながら夫人はぐっと神経質になって、新吉が帰ろうと立上りかけるときに門番がわざ/\此所まで届けて来た日本からの手紙を見ると、差出人は誰だかとくどく訊いた。新吉はそれが国元の妻からのものだと、はっきり答えた。
新吉は部屋へ帰ると畳込みになって昼はソファの代りをする隅のベッドの上被いのアラビヤ模様の中へ仰向けにごろりと寝た。ベッシェール夫人のところで火をつけた二本目の煙草を挟んだ左の手に右の手を手伝わせて妻からの手紙の封筒を切った。いつもの通り用事だけが書いてあった。それは市会議員の選挙に関するもので、その人選は新吉の実家も中に含んで魚市場全体の利害に影響があった。 新吉の留守中両親も歿くなったあとの店を一人で預って、営業を続けている妻のおみちに取っては永い間離れていてこころの繋りさえもう覚束なく思える新吉でもやっぱり頼みにせずにはいられなかった。彼女はそれで故国の事情にはうとくなっている夫から明確な指図は得られないのを承知でしじゅう用件だけ報じて来た。うっかり感情的のことを書いて、西洋へ行ってひらけた人になっている夫に蔑まれはしないかという惧れもあった。彼女は手紙の文体を新吉の返事に似通わせてだん/\冷たく事務的にすることに努めた。新吉もその方を悦んで兎も角彼女の手紙に一通り目を通すことだけはした。 しかし今度の手紙には新吉に見逃されぬものがあった。それは文面の終いの方に同じ淡々とした書き方ではあるがこういうことが書いてあった。
わたくし、此頃髪の前鬢を櫛で梳きますと毛並の割れの中に白いものが二筋三筋ぐらいずつ光って鏡にうつります。わたくしは何とも思いません。然し強いて人に見せるものでもなし、成るだけ櫛でふせて置くようにしております。
新吉はめずらしく手紙の此の部分だけを偏執狂のように読み返えし読み返すのをやめなかった。おみちはいつまでも稚な顔の抜け切らぬ顔立ちの娘であった。それ故にこそ親が貰って呉れた妻ではあったが日本に居るときの新吉は随分とおみちを愛した。新吉は一人息子であったので妹というものゝ親しみは始めから諦めていた。ところがおみちをめとって思いがけなくも妻と共に妹を得た。洋行前に新吉はおみちに実家から肩揚げのついた着物を取寄させてしじゅう着させたものだった。東京の下町の稲荷祭にあやめ団子を黒塗の盆に盛って運ぶ彼女の姿が真実、妹という感じで新吉には眺められた。 巴里に馴染むにつけて新吉は故国の妻の平凡なおさな顔が物足らなく思い出されて来た。 特色に貪慾な巴里。彼女は朝から晩まで血眼になって、特性! 特性! と呼んでいる。 妖婦、毒婦、嬌婦、瞋婦――あらゆる型の女を鞭打ってその発達を極度まで追詰める。 ミスタンゲット、――ダミヤ、――ジョセフィン・ベーカー、――ラッケル・メレール。「聖母マリアがもし現代に生れていたら」とカジノ・ド・パリの興行主は言った。「わたしは彼女を舞台へ誘惑することを遠慮しないだろう。」 始め新吉も女を見るにつけ、どの女からもおみちに似通うところを見付けて一つは旅愁を慰めもし、一つは強い仏蘭西女の魅力に抵抗しようとしていた。だがやがて新吉は一たまりもなく甲を脱がして巴里女に有頂天にならした出来事があった。新吉は建築学校教授の娘のカテリイヌに遇った。 秋もなかば過ぎた頃である。教授はその部屋には電気ストーヴが桃色の四角い唇を開けていた。それでいて窓の硝子戸は開け放されていた。うすい靄が月の光を含んで窓から部屋へ流れ込むと消えた。だいぶ馴染もついたからというので新吉が通って居た建築学校教授ファブレス氏が新らしい生徒だけを自宅の晩餐に招いたのである。こんな古風な家が今でも巴里に残っているかと思えるようなラテン街の教授の家へ新吉は土産物の白絹一匹を抱えてはじめて行って見た。学課に身をいれなかったがまだ此の時分新吉は籍を置いた学校の教室へ表面だけは正直に通っていた。 主婦は歿くなりでもしたと見え食事中も世話は娘のカテリイヌが焼いていた。新吉は此のカテリイヌのなかにもおみちを探そうとしてあべこべの違った魅力で射すくめられた。カテリイヌのあどけなさはおみちの平凡なあどけなさとは違った特色の魅力となって人にせまる。声は竪琴にでも合いそうにすき透っていた。そして位をもちつゝ行届いたしこなしに、斜に向い合った新吉は鏡に照らされるような眩しい気配いを感ずるばかりで、とてもカテリイヌの顔をいつまでも見つめて居られなかった。 食事が済んで客はサロンへ移った。西洋慣れない新吉がろく/\食後のブランデイの盃をも挙げ得ないのを見て教授はしきりに話しかけて呉れた。日本の建築の話も少しは出た。だが酔の深くまわるにつれ教授は娘の自慢話を始めた。教授は想像される年齢よりもずっと若く見える性質なので二十三、四にもなるらしい大きなカテリイヌを娘と呼ぶのが不似合に見えた。ましてその娘の自慢の仕方はいくら酔の上と見ても日本人の新吉をはら/\させた。
――誰でも此の娘を見てシャルムされないものはないそうですよ。みんな、そう言いますよ。君もそう思いませんか。そしてよくこの娘は恋文を貰うのです。みんな真剣なものです。近頃も学校の卒業生でエジプトへ研究に行った男が二年間この娘に逢えないと思うと淋しくて仕方がないと手紙をよこして言って来ました。」
教授は娘を売りつけるつもりでこんなことを言うのか。それとも西洋人は妻や娘の自慢を露骨にするとかねて人から聴かされていたがこれは其の極端な現れなのか、新吉は返事に苦労しながら、一方それとなく教授の様子を探っていた。教授は、したゝるような父親の慈愛の眼で娘の方を見やったが再び芸術家によくある美の讃美に熱中しているときの決闘眼で新吉に迫った。
――君は僕の言うことをまだ疑ってるようですね。そうだ。この娘の魅力は膝へ抱えてみると一層よく判るのだ。わたしは父としてよく知っている。君一つ抱いてみ給え。」
その前から父と新吉とのはなしを困惑と好奇心で顔を赧らめながら聴いていたカテリイヌは父の振り向いた顔に強いられて少し浮腰のまゝ、気まり悪るげに左肩へ首をすぼめて、一たん逃腰になったが、父親ののがさない命令に急激な決心を極めた。彼女は一足跳ねたダンス足の左の靴の踵に、床を滑って右の踵が追い迫り、あなやと思う間にひらりと新吉の膝の上に彼女は乗っかった。新吉は柔いものゝ無限の重量を感じ、体は華やかな圧迫で却って板のように硬直して了った。 彼女は困惑から泌み出る自然の唐突さで言った。
――日本の娘さんは悲しそうに男の方にお逢いなさるそうですね。」
こういう場合に同席する西洋人等の態度も新吉には珍らしかった。そこにはルーマニアの男とカナダの男との他に五人の若いフランス人が居たが彼等は揃って、さも好もしいものを見るという幸福な顔をして二人の組合せ像を眺めた。 その夜新吉の膝に加えられたカテリイヌの柔い重圧が新吉のメランコリーに深く泌み込んで仕舞ったのを新吉はいまいましく思いながら、まぼろしのようにその夜教授の部屋の窓から眺めた月光を含む靄の中からサンミッシェル街の灯影を思い泛べて、秋の深まり行く巴里の巷を幸福と懊悩に乱れ乍らさまよい歩いた。斯うしてカテリイヌと二度会う機会を待っているうちに新吉は思いがけなく遊び女のリサと逢って仕舞った。
新吉は寝椅子の上でおみちの手紙を状袋にしまった。それから手を伸して貴金属商アンドレの店頭装飾写真の入っている額椽のうしろへ挟んだ。十年以上も無視していたおみちが急に蘇って来たのはどうしたわけだろうか。たった二三行の手紙の文句で日本へ帰る思いが燃え立ったのはどうしたわけだろうか。おみちのあのおさな顔が其のまゝでちらほら白髪が額にほつれて来た。此の報告が巴里の生活で情感を磨き減らして無感覚のまゝ冴え返っている新吉の心に可なりのさびしみを呼び起した。おみちがたゞ年老いて行くことだけでは憐れとも思わない。あの眼も口も篦で一すくいずつ平たい丸みから土をすくっただけで出来上っている永遠に滑らかな人形のような顔。それに時が爪をかけはじめたのだ。ざまをみるがいゝ。滑稽だ。残忍な粋人の感情だ。妻に侮辱と嘲笑とに価する特色を発見出来るようになって始めて惻々たる憐れみと愛とが蘇るというのだ。淋しくしみ/″\と妻を抱きしめる気持になれたのだ。何たる没情。何たる偏奇。新らしい陶器を買っても、それを壊して継目を合せて、そこに金のとめ鎹が百足の足のように並んで光らねば、その陶器が自分の所有になった気がしないといったあの猶太人の蒐集家サムエルと同じものを新吉は自分に発見して怖しくなった。あのとろんとして眼窩の中で釣がゆるんだらしく、いびつにぴょく/\動いている大きな凸眼、色素の薄くなった空色の瞳は黄ろい白眼に流れ散ってその上に幾条も糸蚯蚓のような血管が浮き出ている。あのサムエルの眼はやがて自分の眼であるに違いない。 部屋の中の家具に塗ってあるニスが濡れ色になって来て、銀色の金具は冷たく曇った。もうたそがれだ。新吉はいつもの生理的な不安な気持ちに襲われ胃嚢を圧えながら寝椅子から下りた。早くアッペリチーフを飲みたいものだ。八角テーブルの上に置いてある唇草の花が気になって新吉はその厚い花弁を指で挟んではテーブルの周囲を揃わない歩調でぶら/\歩いた。窓から見える塀の金鎖草の蔓の一むらの茂みが初夏の夕暮の空に蓬髪のように乱れ、その暗い陰の隙から、さっき茶を呑んだ隣のベッシェール夫人の庭の黄ろい草が下方に小さく覗かれる。あれから夫人はまた多少のヒステリーを起し、いつもよくやるようにピカ/\光る裁縫鋏の冷たい腹を頬に当てゝ、昔訣れた幾人もの夫の面影を胸の中に取出し、愛憎交々の追憶を調べ直しているのではあるまいか。夫人の最後の夫ジョルジュには夫人はまだ未練があるようだ。そのせいかジョルジュの話をするときに夫人は一番新吉に粘りつく。
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