三
このジャン君と一、二度話ししている間に、もうその友達になっていた、若いロシア人の連中とも話しあうようになった。みんな少々ずつ英語を話せたのだ。 そのロシア人等は二十歳前後から二十五、六歳ぐらいまでの青年で、みなハルピンから来たのだった。そしてその年かさのものは、みな兵隊に出て、まずドイツやオーストリアの軍隊と戦い、さらにボルシェヴィキの赤衛軍と戦って、ヨーロッパ・ロシアからシベリアに、シベリアからハルピンに逃げて来て、今はあるいはドイツに、あるいはフランスにそのもとの学業を続けに行くのだった。 僕はこのロシア人等とすぐに一番いい友達になった。そして僕は、彼等のことをペチカ(ピヨトルをピヨちゃんと言うようなものだ)とか、ミンカ(ミハエル)だとか呼び、彼等もまた僕のことをマサチカ(彼等の間では僕は日本人として正一という変名でいた)と呼んでいた。 みな元気で快活で、よくしゃべり、よくお茶を飲み、よく歌を歌い、よくふざけ、よく踊り騒いだ。そんなのはこのロシア人の連中だけだったのだ。 僕も毎日そのお仲間入りをしていたが、しかし僕が一番興味を持ったのは、彼等の中の四、五人、ことにペチカやミンカがよく話しだすロシアの内乱の話だった。そしてまたことに、彼等がヨーロッパ・ロシアやシベリアのいたるところの反革命軍に加わっていながら、帝政復興とか反革命とかの思想や感情を少しも持っていないことだった。 「じゃ、なんで、反革命軍なんかにはいったんだ?」 と聞くと、要するに彼等は、農民に対するボルシェヴィキの暴虐に憤って、農民等と一緒に武器をとって立っただけのことなのだ。 ボルシェヴィキが食料の強制徴発に来る。農民がそれに応じない。すると、その労働者と農民との政府は、すぐに懲罰隊をくりだす。全村が焼き払われる。男はみな殺される。女子供までも鞭うたれる。そして最後の麦粉までも、また次の種蒔きの用意にとって置いた種子までも持って行かれる。山や森の奥深く逃げこんだ農民等は、いわゆる草賊となって、ボルシェヴィキに対する復讐の容赦のないパルチザンとなる。 彼等はこの絶望的の農民と一緒になったのだ。そして、やはりまたその農民等と一緒に、帝政復興とか反革命とかの考えは少しもなしに、ただボルシェヴィキに対する復讐と自己防衛とのために、そのボルシェヴィキと戦う唯一の力だと思われた反革命軍に加わったのだ。 これもその後フランスへ行ってから詳しく知ったことだが、こうしてロシアの反革命軍は、いたるところで農民のパルチザンを併せて、ボルシェヴィキと戦った。そしてその反革命の野心を見やぶった他の農民のパルチザンとも戦った。そしてまたこの最後のパルチザンは、それと同時に、ボルシェヴィキの赤衛軍とも戦っていたのだ。そしてさらにまた、この赤衛軍の中には、まったく強制的に、そのわずかばかりの財産とともに、からだまでも徴発されて行った農民がずいぶんあったのだ。 こうしたまったく混線の内乱の中で、いわゆる革命のために、ロシアの農民は何百万とかの生命を失ったと言われている。しかもその内乱は、ほとんどみな復讐と復讐との重なりあいの、聞いただけでも身の毛のよだつような容赦のない残忍の、猛獣と猛獣との果しあいだったのだ。
四
この若いロシア人のほかに、まだ七、八人の、多少年輩のロシア人やポーランド人やチェコ人やユダヤ人がいた。細君や子供のあるものはそれを三等に乗せて、男どもだけが四等にいた。 その連中の中に、細君一人だけ三等に置いて、もう二十歳ばかりの息子と一緒にいた六十歳ぐらいの老ロシア人があった。品も何もない本当の百姓面に、両方のを合せると一尺あまりになる胡麻塩の太い口髯だけ厳めしそうに延ばして、きたない背広のぼろ服の胸に青だの赤だのの略章の勲章を七、八つならべていた。細君もきたない風の、やはり品も何もない顔の、お婆さんだった。そして、その息子は、大ぶ低能らしく、いつも口をぽかんと開いていた。 この三人はいつも三等のデッキで籐椅子の上に横になっていたが、ある日、お爺さんが僕の前へ来てこんにちはと日本語で挨拶して、あとは何だか分らないロシア語でぺちゃくちゃとやった。が、しきりに胸の勲章を指さしては何か言っているようなので、よく注意して聞くと、ヤ・ヘロ、ヤ・ヘロという言葉が時々繰りかえされる。ヤは俺で、ヘロは英雄だ。僕も仕方なしに、ダ・ダ・ヴィ・ヘロ(そうです、あなたは英雄です)とやってやった。それからなおよく聞いて見ると、ゲネラル(将官)で、日露戦争にも出たと言って、たぶんその時に貰った勲章なのだろう、胸の略章の一つを指さして見せた。 あとでペチカに聞くと、実際ヘロはヘロで、一兵卒から将官にまでなって、豪勇無双なのだという。が、ペチカの連中は誰もこのヘロのことなぞは相手にしていなかった。 相手にしないと言えば、ユダヤ人に対する仕方なぞはずいぶんひどかった。 ある日、ポーランド人の若いピアニストが何かのことから支那の労働者を怒鳴りつけて、支那人なんかは人間じゃないんだ、奴等にはどんなことをしたっていいんだ、と傲語しているところへ、ペチカ等が来た。そしてペチカ等はこのピアニストに食ってかかって、支那人だって人間だ、われわれロシア人やポーランド人と同じ人間だ、と言って、その半日を両方真赤になってこの議論で暮した。 そのペチカ等が、ユダヤ人だと言うと、まるで見むきもしないのだ。そして僕が時々そのユダヤ人等と話ししているのを見ると、その日一日は僕に対してまでも不機嫌な脹れ面をしているのだ。 僕はこのペチカ等のあるものの紹介で、一等にいた一人のロシア人の女とも知りあいになった。この女はモスクワ大学の史学科を出て、パリにも留学したことがあり、大ぶ進歩した自由思想の持主で、いつも僕と一緒に上陸してはできるだけ遠く田舎へドライヴして、土人の生活を見るのを楽しみにしていた。そしてマダムはそれら土人の生活を心から愛していたようだった。 しかるにこのマダムが、アフリカのヂブチに上陸していろいろと買物をしようとした時、もう夕方で大がいの店はしまっていて、ただユダヤ人の店だけ開いているのを見て、とうとうそこの名物のそしてマダムがしきりに欲しがっていた駝鳥の羽も何にも買わずに船へ帰ってしまった。最後の一軒の店なぞでは、ここはそうらしくなさそうだからと言いながらはいって行ったのだが、主人らしい男の少しとんがった鼻さきを見るや否や、青くなって、慄えるようにしてそこを飛び出した。そしてこんな汚らわしいところには一時も居れないというような風で、少々呆気にとられている僕の手をとって、大急ぎで帰った。
五
フランスの船は、海防とか西貢とかの、仏領交趾支那の港に寄る。そして、そこからまた、満期になったフランスの下士官どもや兵隊が大勢乗った。 ただの兵隊はみんな飲んだくれで、どうにもこうにもしようのないような人間ばかりだった。前に言った水兵どもは、みんな若くて、多少の規律もあり、薄ぼんやりした顔つきはしていたが、人間らしさは十分にあった。が、この兵隊どもになると、もういい加減の年恰好で、豚のようにブウブウ唸りながらごろごろしている奴か、あるいは猛獣のような奴か、とにかく人間というよりはむしろ畜生どもばかりだった。 その中で一人、それでも一番人の好さそうな男だったが、いつもふらふらした足つきで僕等のそばへやって来て、ろれつの廻らない舌つきで何か話しかける男があった。 「俺あこういうもんなんだ。」 と言いながら、その差しだす軍隊手帳を見ると、読み書きはできる、ラッパ手、上等兵とあって、その履歴には、ほとんど植民地ばかりに、あすこに二年ここに三年というように、十八年間勤めあげたことが麗々しく書きならべてある。懲罰の項には何にも書いてない。が、褒賞の方には何かいろいろとあった。そして今は病気のために除隊するのだとある。 「それでもこれっぽちの金しか貰わないんでさあ。」 彼はそう言いながら、破れた財布の中から十フランの札を四、五枚パラパラとふって見せて、 「アハハハ。」 と笑った。それが不平なのだか、嬉しいのだかすらも、ちょっとは分らないほどに。 が、この飲んだくれの兵隊どもはまだいいとしても、がまんのできないのは三等に乗りこんだ下士官どもだった。そいつらは、まったく熊か猪かの、猛獣のような奴ばかりだった。そしてそいつらの女房どもまでが、ろくでもない面をして。 「あれはこいつらがやったんだな。」 僕はそいつらの顔を見るとすぐ、その日陸で読んだある新聞の記事を思いだした。 安南の土人がやっているフランス文の日刊新聞の中に、大きな見だしで、ある殺人事件を論じてあった。事件はごく簡単なもので、土人の一商人が川の中に溺れ死んでいた、というだけのことだ。が、それがただそれだけで済まないのは、そうしたことがずいぶん頻々とあって、しかもその原因がいつもちっとも分らない、いや分ってはいるがそれをはっきりと公言することができない、そこに妙な事情がからんでいるからだ。 「ええ、あいつらは何をするか知れたもんじゃない。恩給と植民地の無頼漢生活とをあてに、十年十五年と期限を切って、わざわざこんな植民地へやって来る。本当の職業的軍人なんだからね。」 フランスの水兵のジャン君もすぐと僕の直覚に同意した。そして僕は、デッキででも食堂ででもいつも傍若無人にふるまっているそいつらとは、とうとう終いまで、ただの一度も「お早う」の挨拶を交わしたことがなかった。 その後僕はフランスに着いてから、あちこちの壁に、この植民地行きを募集する陸軍省の大きな広告のびらを見た。三年間はいくら、五年間はいくら、十年間はいくら、十五年間はいくら、というようにだんだんその率のあがって行く、給料や恩給の金額も、ことさらに大きく太い文字で書きならべてあった。
六
たぶん香港からだったろう、一人の安南人らしい、白い口髯や細いあご髯を長く垂らして品のいいお爺さんが乗った。 僕はこのお爺さんと一度話しして見ようと思っていたが、とうとうその機会がなくって、西貢かで降りてしまった。海防から乗った若い安南の学生に聞くと、もとの王族の一人で、今も陸軍大臣とか何とかの空職に坐っているのだそうだ。ロシアの旧将軍が三等で威張っているのは、ちょいと滑稽だったが、これは何だか傷ましいような気がした。 それでもこのお爺さんは、温厚らしいうちにも、どこか知らに侵すことのできない威厳をもっていた。が、一般の安南人となると、見るのもいやなくらいに、みな卑劣と屈辱とでかたまっているように見えた。そしてこれは、安南人が他の東洋諸民族にくらべて顔も風俗も一番われわれ日本人によく似ているようなのでなおさらいやだった。 海防や西貢の町を歩いて見ても、安南人はみな乞食のような生活をして小さくなっている。ちょっとした店でもはって、多少人間らしくしているのは、支那人かあるいはインド人だ。そして、フランス人はみな王侯のような態度でいる。 西貢で、マダムNと一緒に田舎へ行って、路ばたのある小学校を見た。バラックのような四方開けっぱなしの建物を二つにしきって、三十人ばかりずつの子供がそこで何か教わっていた。僕等がはいって行くと、生徒は一斉に起ちあがって腰をかがめ、先生は急いで教壇から降りて来て丁寧すぎるほどにお辞儀した。それだけで僕はもう少々いやな気がした。 先生はマダムNの質問に答えて、生徒には絶対に漢字を教えないで、一種のローマ字で書き現した安南語を教えているということを、非常な得意で話した。勿論、それは悪いことじゃない。大いにいいことだろう。が、フランスの植民政府がそうさせる意味と、この先生がそれを得意になる意味とには僕等の同意することのできないあるものがあるのだ。 安南人の子供等は、こうして教育されて行って、だんだんにフランス語を覚えて、その中の見こみのありそうなものはフランスへ留学させられる。そして帰ると、学校の先生かあるいは何かの小役人にさせられる。僕が前に言った若い安南人というのも、やはり以前フランスに留学して、帰ってしばらく役人もやって、今また再度の留学をするのだった。 僕は支那で、外国人のところに使われている支那人が、その同国人にいやに威張るのを見た。それと同じことを、この若い安南人はそうでもなかったが、やはり安南ででもあちこちで見た。ことに安南人の兵隊や巡査なぞはなおさらにそれがひどかった。 が、このフランス留学には、それと違った妙な意味あいからもある。安南人と言っても、そうそう卑劣と屈辱とにかたまっているものばかりじゃない。いろんな人間が出て来る。そしてフランスの官憲は、彼等に多少の言論の自由を許さなければならないまでに、余儀なくされている。しかし、その人間どもの中で、少し硬骨でそして衆望のあるのが出ると、すぐにそれをパリへ留学させる。そして毎月幾分の金をやってどこかのホテルの一室に一生を幽閉同様にして置く。 その一人に、パリでそっと会う筈にしていたが、やはりいろんな面倒があって、とうとうそれを果すことができなかった。
七
英領やオランダ領の、マレー、ジャワ、スマトラなどの土人も、みな安南人と同じように乞食のような生活をしている人間ばかりのように見えた。シンガポールでも店らしい店を出しているのはみな支那人かインド人かだった。土人はほんの土百姓かあるいは苦力かだ。 その支那人やインド人やはみな泥棒みたいな商人ばかりでいやだったが、道で働いている労働者の支那人やインド人は土人と同じような実に見すぼらしいものだった。ことにインド人が、あの真黒なちょっと恐そうな目つきをしていながら、そばへ寄って見ると実に柔和そうないい顔をしているのには、なおさらに心をひかれた。この支那人やインド人や土人の苦力どもは、まるで犬か馬かのように、その痩せ細った裸のからだを棒でぶたれたり靴で蹴られたりしながら、働いているのだ。 これは、帰りの船の中でスマトラから来た人に聞いた話だが、時々この主人どもに対する土人等の恐ろしい復讐がある。土人の部落の中にだけで秘密にしてある、ある毒矢で暗うちを食わす。椰子やゴムの深い林の中から、不意に、鉄砲だまが自動車の中に飛んで来る。虎だの犀だのの被害のほかに、こんな被害も珍らしくはない。 が、そうした個人的復讐ばかりじゃない。スマトラの土人の中には、すでに賃金労働者として目覚めた労働者の大きな労働組合すらもある。そしてその中の鉄道従業員組合が、ちょうど僕等がそこを通る少し前の五月から六月にかけて、一カ月あまりの総同盟罷工をやった。 オランダの官憲は、急に法律を改正して、いっさいの集合はその一週間前に届出ろと命じて、ほとんど労働者の集合を不可能にした上に、さらに主なる首領等を一網打尽的に拘禁した。そして警察力のほかに兵力までも動かしてそしてようやくのことでそれを鎮定した。 この土人の組合は職業的にも組織されているが、また宗教的にも組織されて、ことに回々教徒はもっとも強固に団結している。そしてそこには、賃金奴隷からの解放のほかに、民族的や宗教的の独立という意味までも加わって、なおさらにその熱烈の度を高めている。 土地の新聞の言うところでは、そこにはまだいわゆるボルシェヴィキの煽動や影響はないが、広い意味での社会主義的思想は十分にはいっている。もしそれが、さらにインドや支那の同じ教徒等と結んで、英領やオランダ領の各地で事を挙げるようなことがあったら、それこそ大変だ、そうだ。 さきに僕は香港の港を眺めながらの、支那の学生等の愛国的憤慨の言葉も聞いた。また、それらの学生の、安南をフランスから取返さなければ、という気焔も聞いた。そしてある時なぞは、フランスの下士官どもが、船の中へはいりこんで来た支那人の泥棒(?)を血だらけになるほどなぐったり蹴ったりしたのを見て、みんなキャビンにはいりこんだまま飯も食わずに憤慨しているのも見た。しかしまた同時に、彼等が同じ支那人の苦力の車夫を、ちょっとした賃金の問題から大勢でいきなりなぐったり蹴ったりするのも見た。そして彼等に対する同情がまったく失せてしまった。 救いはこんな愛国者からは来ない。
八
コロンボ近くなった頃だと思う。無線電信で、ルール地方占領とフランスの共産党首領カシエン等の捕縛とが伝えられた。 戦前のドイツ対フランスと、戦後のドイツ対フランスとは、少なくともその軍備においてまったく正反対になっている筈だ。ドイツの軍隊はほとんどまったく破壊されてしまった。そしてフランスは、その生産力の恢復よりも、軍備の充実により多くの力を注いだ。とてももう相撲にはならない。したがってドイツが急にこの挑戦に応じようとは考えられなかったが、軍国主義と反動主義とのお塊りのようになっているフランスが、その勢いに乗じてどんな無茶をやらんものでもないということは、十分に考えられた。そして僕は、そこから起る結果についての、ある大きな期待をもってフランスにはいった。 が、フランスは、マルセイユでもリヨンでもパリでも、実に平穏なものだった。今にも戦争が始まりそうだとか、こんどこそはとかいうような気はいは、少なくとも民衆の生活の中にはどこにも見えない。みんな何のこともないように呑気に暮している。 僕は、大戦争およびその後も引続いて盛んに煽りたてられた狂信的愛国心が、まだ多分に民衆の中に残っていると思った。が、そんな火の気は、王党の機関紙『ラクション・フランセエズ』を先登とする三、四の新聞でぶすぶすとえぶっているくらいのもので、どこにも見えない。 この『ラクション・フランセエズ』ですら、フランスで一番保守的でそして一番宗教的な大都会のリヨンで、しかも郊外とは言いながら寺院区とまで言われているある丘の上で、僕は六軒も七軒もの新聞屋を歩き廻ってとうとうその一枚も見出すことができなかった。 「ええ、戦争中にはずいぶん売れたもんですけれどもね。この頃はもうさっぱりですよ。で、売れないものを置いても仕方がないもんですから……。」 新聞屋の婆さんはどこへ行ってもみな同じようなことを言った。 そして、こうして歩き廻っている間に、これはその他のどこででもそうなのだが、片っぽうの手がないとか義足で跛をひいているとかいう不具者の、五人や六人や、九人や十人には会わないことはない。勿論みな大戦の犠牲なのだ。こういうのを始終目の前に見せつけられながら、今さら戦争でもあるまい、とも思った。 しからば、このルール占領や戦争に反対している共産党やC・G・T・Uの方はどうかというに、要するにただ、新聞や集会でのえらそうな宣言や雄弁だけに過ぎない。時々の示威運動もあるが、一向にふるわない。占領を止めることはもとより、占領軍の横暴を少しでも軽くすることにすら、何の役にも立っていない。 兵隊自身も、一九二一年に二カ年の約束で召集されて、ことしの三月には満期になる筈のが、一カ月二カ月と延びて、さらにいつどこへどう送られるようになるかも知れないのに、これという反対運動一つどこの兵営にも起らない。共産党の『ユマニテ』なぞは、毎日それについて何か書きたてているのだが、大した反響も見えない。もっとも、この際官憲に乗ぜらるようなことがあってはいけないから、みんなできるだけおとなしく反抗しろと戒めてはいたが。 そしてこの兵隊さんらは、日曜ごとに、女の大きなお臀を抱えながら、道々キスしいしいぶらぶらと市中を歩いている。 天下泰平だ。
九
僕がフランスに着いてからの主な仕事の一つは、毎朝、パリから出るほとんど全部の新聞に目を通すことだった。 『ユマニテ』には、僕が着く早々、北部地方の炭坑労働者の大同盟罷工が報ぜられていた。そしてその罷工の勢いが日ましにはなはだしくなって行って実際七、八万の坑夫がそれに加わったようだった。しかるに、多くの資本家新聞には、毎日ほんの数行その記事があるくらいで、しかも毎日坑にはいって行く労働者の数がふえて行くように書いてある。罷工者の数も大がいは何百とかせいぜい何千とかあった。 その後パリで八千人ばかりのミディネット(裁縫女工)の罷工があった時にも、資本家新聞を読んでいるだけでは、まるで分らない。きのうもきょうも、幾百人ずつの女工の幾組もが、あちこちの工場へ誘いだしの示威運動に行って、いたるところで警官隊と衝突しているのに、新聞ではほんの数行、しかももうとうにその罷工が済んだように書いてある。そして新聞ではもう幾度もみんなそれぞれの工場に帰っている筈の間に、C・G・T・U事務所の罷工本部では、それら数千の女工連が笑いさざめき歌いどよめいていた。 こうした新聞の態度を、労働者はその運動の上に使うサボタージュという言葉で言いあらわしている。資本家新聞は、あらゆる労働運動の上に、実によくサボる。 が、それは当然のことで、何の不思議もある訳ではない。それよりも、そら罷工だ、そら何とかだ、と言ってちょっとしたことでも騒ぎたてる日本の資本家新聞の方が、よっぽど可笑しいくらいだ。 しかし、同盟罷工そのものをサボる労働者が、労働団体が、あるのには少々驚かされた。それもかつてはその革命的なことをもって世界に鳴っていたC・G・Tがだ。石炭坑夫の罷工の時には、このC・G・Tの首領等が、目下の独仏の危機に際して石炭業の萎縮を謀るのは敵国のためにするものだ、というようなことを言い廻って、坑夫等をなだめていた。 僕は日本に帰るとすぐ、最近本所の車輛工の同盟罷工で、友愛会の労働総同盟がそれに似た罷工破りをやった話を聞いて、どこもかもよく悪いことばかりが似るものだと感心した。 共産党やC・G・T・Uが何かやれば、社会党やC・G・Tがサボる。そしてその共産党がまた、無政府党のやることとなると一々にサボる。 僕がメーデーに捕まった時には、『ユマニテ』では一段あまりの記事を書いた。が、その翌日僕が日本の無政府主義者と分って以来は、裁判のことも追放のこともついに一字も書かない。まったくの黙殺だ。そして王党の『ラクション・フランセエズ』なんかになると、最初から最後まで、「例の殺人教唆の無政府主義者」云々で押し通していた。 サボタージュにも、「安かろう悪かろう」の意味の消極的のものもあれば、「生産妨害」の意味の積極的のもある。 最近の『東京朝日新聞』に、そのパリ特派員の某君の記事の中に、王党の一首領を暗殺したジェルメン・ベルトンのことを「例の政治狂の少女」と書いてあった。それくらいならまだいい。彼女は、フランスの資本家新聞では「淫売」であり、「ドイツに買われた売国奴」であり、また「警察の犬」でもある。 そしてフランス無政府主義同盟の機関『ル・リベルテエル』は、ほとんど毎週、彼女の弁護のために発売禁止され、その署名人と筆者とはラ・サンテにほうりこまれている。
十
パリに着いた晩、夕飯を食いに、宿からそとへ出て見て驚いた。その辺はまるで浅草なのだ。しかも日本の浅草よりも、もっともっと下劣な浅草なのだ。 貧民窟で、淫売窟で、そしてドンチャンドンチャンの見世物窟だ。軒なみに汚ないレストランとキャフェとホテルとがあって、人道には小舎がけの見世物と玉転がしや鉄砲やの屋台店が立ちならんでいる。そしてそれが五町も六町も七町も八町も続いているのだ。 黒ん坊の野蛮人が戦争している看板があげてあって、その下に、からだじゅう真黒に塗った男や女や子供が真っ裸と言ってもいいような恰好をして、キイキイキャアキャア呼びながら槍だの刀だのを振り廻して見せている。その隣りは、「生きた人蜘蛛」という題で、顔だけが人間であとは蜘蛛の大きな絵看板がかかげてある。そしてその次には、玉転がし、文廻し、鉄砲、くじ引き、瓶釣り、その他あらゆるあてものの店がならんでいる。普通にものを買える店は一つもないのだ。そしてさらにまたその次には、ぐるぐる廻る大きな台の上に、玩弄品の自動車だの馬車だの馬だの獅子だのを乗せて、騒々しい楽隊の音と一緒に廻らしている。そして、いい年をした大人がそれに乗っかって喜んでいる。下が小さな船の形をしたブランコがあって、そこへ若い男と女とが乗って、その船がひっくり返りそうになるまで振っている。大きな輪のまわりに籠が幾つもぶらさがっていて、そこへ一人一人乗って、輪が全速力でグルグル廻る。前の籠と後の籠とがぶつかり合う。みんなキャッキャッと声をあげて喜んでいる。往来に人を立たして置いてパッと写真をとる大道写真師もいる。 そしてこの連中がみな、一団ずつ、電車の小さな箱くらいの車をそばに置いて、その中に世帯を持っている。この車でフランスじゅうをあるいはヨーロッパじゅうを歩き廻っているのだ。 僕は前に浅草と言ったが、それよりもむしろ九段の祭りと言う方が適当かも知れない。もっとも僕はもう十年あまりも、あるいはそれ以上にも九段の祭りは知らないのだが。 そこへうじょうじょと、日本人よりも顔も風もきたないような人間が、ちょっと歩けないほどに寄って来る。実際僕はヨーロッパへ来たと言うよりもむしろ、どこかの野蛮国へ行ったような気がした。 そしてその後、日本の浅草よりももっとずっと上等の遊び場へ行って、そこの立派な踊り場やキャフェの中にも、やはりこの玉転がしや文まわしがあるのにはさらに驚いた。 そしてさらにその後、リヨンで、町の人達がよく遊びに行くリイル・バルブへ行った。翻訳すれば羊の鬚島だが、リヨンの町の真ん中を通っているサオヌ河の少し上の、ちょっと向島というようなところだ。が、そこには白鬚様があるのでもなし、ただ小さな島一ぱいに、パリの貧民窟のと同じドンチャンドンチャンがあるだけの話だ。 それから、このリヨンの停車場前の広場が何かで大にぎやかだというので、ある晩行って見るとやはり同じドンチャンドンチャンと、玉転がしと文まわしと鉄砲とだ。そしてそこをやはりパリのと同じように、五フランか十フランかの安淫売がぞろぞろとぶらついている。 フランス人の趣味というものはこんなに下劣なものだろうか。
●表記について
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