海野十三全集 第2巻 俘囚 |
三一書房 |
1991(平成3)年2月28日 |
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷 |
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真夜中に、第九工場の大鉄骨が、キーッと声を立てて泣く―― という噂が、チラリと、わしの耳に、入った。 「そんな、莫迦な話が、あるもんか!」 わしは、検査ハンマーを振る手を停めて、カラカラと笑った。 「そう笑いなさるけどナ、組長さん」その噂を持ってきた職工は、慄えた眼を、わしの方に向けて云った。「昨夜のことなんだよ、それは……。火の番の、常爺が、両方の耳で、たしかに、そいつを聴いたよッて、蒼い顔をして、此のおいらに話したんだ。満更、偽りを云っているんだたァ、思えねぇ」 いつの間にか、わし達の周りには、大勢の職工が、集ってきた。 「組長さん、それァ本当なんだ」別の声が叫んだ。 「なんだとォ――」おれは、その声のする方を見た。「てめえは、雲的だな。雲的ともあろうものが、軽卒なことを喋って、後で笑れンな」 「大丈夫ですよ――」雲的は大いに自信ありげに、言葉をかえした。「それについちゃ、ちィっとばかり、手前の恥も、曝けださにゃならねえが、もう五日ほど前のことでさァ。徹夜勝負のそれが、十二時を過ぎたばかりに、スッカラカンでヨ、場に貸してやろうてえ親切者もなしサ、やむなく、工場の宿直、たあさんのところへ、真夜中というのに、無心に来たというわけ。さ、その無心を叶えて貰っての帰りさ、通り懸ったのが今話しの第九工場の横手。だしぬけに、キーイッという軋るような物音を聴いた。(オヤ、何処だろう)と、あっしは立停った。暫くは、何にも音がしねえ。(空耳かな?)と思って、歩きだそうとすると、そこへ、キーイッとな、又聞えたじゃねえか。物音のする場所は、たしかに判った。第九工場の内部からだッ。(何の音だろう? 夜業をやってんのかな)そう思ったのであっしは、顔をあげて、硝子の貼ってある工場の高窓を見上げたんだが、内部は真暗と見えて、なんの光もうつらない。(こりゃ、変だ!)俄に背筋が、ゾクゾクと寒くなってきた。そこへ又その怪しい物音が……。恐いとなると、尚聴きたい。重い鉄扉に耳朶をおっつけて、あっしァ、たしかに聴いた。キーイッ、カンカンカン、硬い金属が、軋み合い、噛み合うような、鋭い悲鳴だった」 「大方、工場に、鼠が暴れてるんだろう」わしは、不機嫌に云い放った。 「どうして、組長!」雲的はハッキリ軽蔑の色を見せて、叫びかえした。「あっしにァ、あの物音が、どこから起るのか、ちゃんと見当がついてるのでサ」 「ンじゃ、早く喋れッてことよ」 「こう、みんなも聴けよ」彼は、周囲の南瓜面を、ずーッと睨めまわした。「ありゃナ、クレーンが、動いている音さ!」 「なに、クレーンが」 一同が、思わず声を合わせて、叫んだ。 クレーンというのは、格納庫のように巨大な、あの第九工場の内部へ入って、高さが百尺近い天井を見上げると判るのだが、そこには逞しい鉄骨で組立てられた大きな橋梁のような形の起重車が、南北の方向に渡しかけられている。それが、クレーンだった。その橋梁の下には、重い物体をひっかける化物のようにでっかい鈎が、太い撚り鋼線で吊ってあり、また橋梁の一隅には、鉄板で囲った小屋が載っていて、その中には、このクレーンを動かすモートルと其の制動機とが据えてあった。制動機を動かすと、この鉄橋は、あたかも川の中で箸を横に流すように、広い第九工場の東端から西端まで、ゴーッと音をたてて横に動くのだった。 「おい、政ッ!」わしは、クレーンの運転手をやっている男を、人垣の中に呼んだ。 「へえ――」政は、紙のように、白い顔をして、おずおずと、前へ出てきた。 「クレーンが、真夜中に動き出すてのは、本当かな」 「わたしは、ナなんにも、存じませんです。しかし、クレーンのスウィッチは、必ず切って帰りますで、真夜中に、ヒョロヒョロ動き出すなんて、そんな妙なことが……」 そこまで云った政は、発作みたいな様子となり、言葉のあとをブツブツ口の中で呟いて、それから急に気がついたかのように、ワナワナ慄える両手を、周章てて背後に隠したのだった。 「よォし。今夜は、一つ正体を確かめてやろう。いいか、みんな夜中の十二時を廻ったら、裏門前に集るんだ!」
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