いたましき遺書
二号艇は、波間にゆらゆら漂っている。 そのうえに、人影はさらにない。櫂さえ見えないのだ。 せっかく身ぢかに発見した僚艇が、このような有様なので、一号艇上に指揮をとる佐伯船長以下二十三名の船員たちは、いいあわせたように不安な気持に顔をくもらせている。 「さあ漕げ、もうすこしだ。お一、二」 船長は船員たちに力をつける。 ボートは、海面を矢のように滑ってゆく。 船長は、ボートのうえに望遠鏡をはなさない。その傍にいる無電局長の古谷が気がついたときは、望遠鏡を握る佐伯船長の腕が、なぜかぶるぶると慄えていたのであった。 「船長、ボートの中になにが見えます?」 「うむ」 佐伯船長は、望遠鏡を眼からひき離すように下ろして、ほっと溜息をついた。それはまるで悪夢からさめた人のようであった。船長は、なにかしらないが、ボートの中に思いがけないものを発見したらしいのである。 「船長、なにが見えましたか」 局長にさいそくされて、船長は、いまはもう仕方がないとあきらめたように、 「おう、皆よく聞け。わしは望遠鏡をとって、あそこに漂流する二号艇ボートを仔細に見たのだ。ところが、前にわしはボートのうえに櫂もなければ、人影もないといったが、いまよく見てみると、ボートの中は、全然空っぽではなかった」 船長は、わざとまわりくどいいい方をしているようであった。 「で、なにが二号艇内に見えるのですか。船長、はやくいってください」 「血だ、血だ! 二号艇のなかは、血だらけなんだ」 「えっ!」 船員たちはおどろきのあまり、思わず櫂の手をゆるめた。ボートは、ぐぐっと傾き、いまにもひっくりかえりそうになった。 「おう、しっかり漕げ、日本の船乗が、こんなことぐらいで腰をぬかしてどうするのか。さあ、はやく二号艇へ漕ぎよせろ」 船長は、舷をぴしゃぴしゃ叩いて、船員たちを叱りつけた。 一号艇は、また矢のように海面を走りだした。漕ぎ手たちは、おどろきをおさえて、ひたむきに漕いだ。 「櫂やすめ」――船長の号令がかかった。 漕ぎ手たちは、はじめて左右をふりかえった。二号艇は、もう手をのばせば触れんばかりの近くにあった。彼等の眼は、電光のように早く、二号艇のうえにおちた。 「あっ。ひでえことになっていらあ」 「おお、これは一体どうしたというわけだろう?」 「あ、あんなところに千切れた腕が」 二号艇のなかのことを、どのように書きつづればいいであろうか。あまりの惨状に、書きあらわす文字を知らない。 とにかく艇内は、血しぶきで顔をそむけたいほどの惨状を呈していた。満足な身体をもった人間は、ただの一人も艇内に発見されなかったけれど、千切れた腕や脚や、そのほかたしかに人骨と思われるものが血にまみれて、艇内におびただしくちらばっていた。 「なんということだろう、この光景は?」 おちつき船長として有名な佐伯も、この思いがけない僚艇の惨状に、顔の色をうしなった。
謎の裂き傷
「これは、遭難して漂流中、仲間同志で喧嘩したのじゃありませんか。そこで、ジャック・ナイフでたがいに渡りあって、こんなことになった!」 船員の一人が、このひどい光景に説明をこころみた。もっともな考え方であった。 だが船長は、すぐそれに反対した。 「いや、ちがう。それはちがうだろう」 「でも、そうとしか考えられませんね」 「たしかにそれはちがう。第一、われわれの仲間がこんなひどい殺人合戦をやるとは考えられない。第二に、もしそんなことがあったとしても、人骨ばかりにするというようなひどい殺し方をやる者が、われわれ仲間にあろうとは信じられない。しかも昨日の今日のことだからね」 船長は、さすがに眼のつけどころがちがっていた。 どんな喧嘩のたねがあったにしろ、わずか一夜のうちに、二十名以上もあった二号艇の乗組員が一人も見えなくなり、人骨と千切れた手足だけをのこすばかりとなったとは考えられない。 船長は、自分の胸のうちを冷たい刃物がさしつらぬいてゆくように感じたのだった。 船員たちは、急にだまりこんでしまった。見れば見るほど、眼をそむけたいような惨状である。あの親しかった仲間の誰かれは、一体どうなったのであろうか。なにごとかはわからないが、この二号艇の乗組員たちをみな殺しにした不吉な死の影は、いつまた一号艇のうえにおちてくるか分らないのだ。 古谷局長は、さっきからだまりこくって、二号艇の無慚な光景にむかっていた。彼は、あの二号艇にのりこんでいた部下の丸尾技士の安否について、いろいろと考えていたのだ。あの好青年も、ついにおなじ脱れられない運命のもとに死んでいったのであろう。ひょっとすると、あそこに散らばっている千切れた手首が、電鍵を握ってはかなうもののない、あの丸尾技士の手首であるかもしれないのだ。そんな風な、なさけない想いに胸をいためていた古谷局長の眼にさっきから灼きついて離れない二号艇の底にころがっている一つの手首があった。その手首は、なにか口でもあるかのように、局長によびかけているようであった。 「はて――」 局長は、櫂を借りて、二号艇の血の海のなかから、気になるその手首をそっとすくいあげた。そしてそのまま手もとへひきよせたのである。 「うむ、やっぱりそうだった」 局長の眼が光った。彼は佐伯船長の方をむいて叫んだ。 「船長、これを見てください。この手首は、なにか手紙らしいものをしっかと握っています」 「おおそうか。こっちへよこせ」 船長は、局長と二人がかりで、その手首がつかんでいる手紙のようなものをひき離した。それはたしかに手紙だった。手帳を破ってそのうえに走り書にしたためたものであった。手首がとんでも、なおしっかり握りしめていたその手紙というのには、一体何が書いてあったろうか。 「おお、これは丸尾が書いたものだ」 船長が、びっくりしたようにいった。 「うむ、これはたいへんなことが書いてある。――“「幽霊船』ニチカヨルナ。ワレラハ”ちえっ残念! そのあとが破れていて分らない。次の行になって“ハ、人間ヨリモ恐ロシイ”で、またあとが切れている」 幽霊船に近よるな、吾等は……? 人間よりもおそろしい……? ――これが、丸尾技士の遺書だった。 「さあ、どういう意味だかよくわからないが、――」と船長はいって、「とにかく、幽霊船に近よるな、人間よりも恐ろしい奴がいるぞ、注意しろ――と、こういうわけなんだろう。丸尾は、われわれを助けようがために、こんな身体になるまで頑張ったんだ。なんて勇しい男だろう」 船長は、おもわず感嘆のこえを放ったが、それは他の二十三名の乗組員だれもの想いでもあった。 それはそれでいいとして、その次に、この二十四人の生残りの船員たちをひどく脅かすものが残っていた。“人間よりも恐ろしい!”という文句が、一体なにをさしていっているかということであった。 幽霊船だから、人間より恐ろしい奴というのは、幽霊のことなのであろうか。いやいや、幽霊などというものはこの世にないと聞いている。第一幽霊が無電などをうつであろうか。だがこの奇怪きわまる光景をながめていると、おしまいにはこれを超人的な幽霊の仕業とでもしなければ、説明がつかなかった。
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