死んだような洋上
乗組員の死闘は、夜明までつづいた。 さすがの風浪も、乗組員のねばりづよさに敬意を表したものか、東の空が白むとともに、だんだんと勢いをよわめていった。そして夜が明けはなたれた頃には、風も浪も、まるで嘘のように穏やかにおさまっていた。 「おう、助かったぞ」 乗組員は、安心の色をうかべると、そのままごろりと横になった。俄かに睡魔がやってきた。みんな死んだようになって、睡眠をむさぼる。 船長も、いつの間にか深い睡りにおちていた。が、彼は一時間もするとぱっと眼をさました。 「やっ、不覚にも睡ってしまった。こいつはいけない」 船長は眼をこすりながら、艇内を見まわした。誰も彼も死人のような顔をしている。 空は、うすぐもりだ。まだ天候回復とまではゆかない。だから油断は禁物である。 「そうだ。他のボートはどうしたろう」 船長は、眼をぱちぱちさせながら、洋上をぐるっと見わたした。だが求めるボートの影は、どこにも見えなかった。 「おい、古谷君起きろ!」 船長は、傍に仆れている無電局長の身体をゆすぶった。 局長は、びっくりして跳ね起きた。 「おい、とうとう他のボートとはぐれてしまったらしい、それとも君には見えるかね」 「えっ、他のボートが見えないのですか。三隻とも見えませんか」 局長はおどろいたらしい。船長が望遠鏡をわたすと、彼はそれを眼にあてて、水平線をいくども見まわした。 「どうだ、見えるか」 局長は、それに対して返事もせず、その代りに望遠鏡を眼から放して、首を左右にふった。 「どこへいってしまったんだろうな」 船長は、ため息をついた。 「さあ、助かるには助かって、どこかに漂流しているんだとはおもいますが……」 局長はそういったが、しかしそれはなにも自信があっていったことではなかった。 ボートは西へ西へと流れていた。どうやら潮流のうえにのっているらしい。 「おい古谷君、無電装置を持ってこなかったかね」 と船長がきいた。 「はあ、持って来たことには来たんですけれど、駄目なんです。ゆうべ、ボートの中が水浸しになって、絶縁がすっかり駄目になりました。はなはだ残念です」 「ふうむ、そいつは惜しいことをした」 船長は眼を洋上にむけた。 そのうちどこからか、汽船が通りあわすかもしれない。だがそれは運次第であって、そんなものを期待していてはいけないのであった。確たる今後の方針をどうするか、それをきめて置かなければならない。 そのころ、乗組員たちが、ぼつぼつ起きてきた。 「ああ夢だったか。俺はまだ風浪と闘っている気がしていたが……」 風浪は凪いだ。だが風浪よりもわるいものが、彼等を待っているのだ。 それは飢と渇とであった。いや、飢より渇の方がはるかに恐ろしい。雲はだんだん薄くなって、熱い陽ざしがじりじりとボートのうえへさしてきた。この分では、飲料水の樽は、すぐからになるだろう。 「船長、漕がなくてもいいのですか」 「うむ、二三日はこのまま漂流をつづける覚悟でいこう。そのうちに、なにかいいことが向こうからやってくるだろう」 船長は、たいへん呑気そうな口をきいた。だが彼は、本当はひとり、心のうちでこまかいところまで考えていたのだ。こうなれば、部下の体力を無駄につかわないことが大切だった。できるだけ永く、部下を元気に保っておかなければならない。 「おーい、水を呑ませてくれ。咽喉が焼けつきそうだ」 船員の一人が、くるしそうなこえをあげた。 「船長、水を呑ませていいですか」 「うん、水は一番大切なものだ。とにかく今朝は、小さいニュームのコップに一杯ずつ呑むことにしよう。あとは夕方まではいけない」 「えっ、あとは夕方までいけないのですか」
漂流するボート
たった一杯の水が、どのくらい遭難の船員たちを元気づけたかしれなかった。 次に海水にびしょびしょに濡れた握り飯が一箇ずつ分配された。おはちを持ちこんであったので、握り飯にもありつけたのである。 「おい、そこにあるのは缶詰じゃないか」 「おおそうだ。俺は手近にあった缶詰を卓子掛にくるんで持ちこんだのだった。こんな大事なものを、すっかり忘れていた」 わずか十個に足りない缶詰だったけれど、遭難ボートにとっては、意外な御馳走であった。 「おい、三つばかり、すぐあけようじゃないか」 「待て、船長に伺ってみよう」 船長は、さっきから黙って、その方を見ていたので、部下にいわれるまえに口をひらいた。 「あけるのは、一個だけでたくさんだ。このうえ幾日かかって救助されるかわからないのだから、できるだけ食料を貯えておくのが勝ちだ。一個だけあけて、皆に廻すがいい」 「たった一個ですか。それじゃ、皆の口に一口ずつも入らない」 船員は不平らしくいって、唾をのみこんだ。 船長は、どうしても一個しか、缶詰をあけることをゆるさなかった。太平洋の遭難船で、半年以上も漂流していた例さえあるんだ。うまくいっても、一ヶ月や二ヶ月は漂流する覚悟でやらないと、計算がちがってくる。なにしろボートのうえには、二十四名の者が、ぎっしりのりこんでいるのだった。 「水だ、飯よりも水が呑みたい。船長、もう一杯水を呑ませてください」 「うん、いずれ呑ませてやる。もうすこし辛抱せい」 船長は、子供にいいきかせるようにいった。だが、実のところ、太陽の直射熱はいよいよはげしくなって、誰の咽喉もからからにかわいてくるのだった。これでは、いくら水を呑んでも足りるはずがない。 「おーい、みんな。ボートのうえに日蔽いをつくるんだ。シャツでもズボンでもいいから、ぬいでもいいものを集めろ。そしてつぎあわせるんだ。そうすれば、咽喉の乾くのがとまる」 船長は命令をくだした。 部下は、それをきくと、元気になったように見えた。手持ぶさたのうえに、がっかりしていたところへ、ともかくも船長からやるべき仕事をあたえられたからであった。 よせ布細工の日蔽いは、だんだんと綴られ、そして、大きくなっていった。 やがてボートのうえに、この日蔽いは張られて、窮屈ながら辛うじて全員の身体を灼けつくような太陽から遮ることができるようになった。 「もうすこし布があれば帆が作れるんだがなあ」 「だめだよ、どっちへいっていいかわからないのに、帆を作ったって仕様がないじゃないか」 そんなことをいいあうのも、日蔽いのおかげで、船員たちが元気になった証拠であった。 それは正午に近いころだった。 貝谷という船内で一番元気な男が、とつぜん大声でわめいた。 「おい、ボートだ! あそこにボートが浮いている」 「えっ、ボートか」 「和島丸のボートだろうか。どこだ、どこに見える」 貝谷は、小手をかざして、東の方を指さした。 今までなぜ気がつかなかったと思うくらい、手近かなところに一隻のボートが、うかんでいた。 「おーい、和島丸のボート」 「おーい、一号艇はここにいるぞ」 一号艇の乗組員たちは、こえをかぎりに喚き、そしてせっかく張った日蔽いをはねのけながら手をふった。 「へんだな、応答をしないじゃないか。こっちの呼んでいるのに気がつかないのかしらん」 そのとき、佐伯船長がいった。彼は望遠鏡を眼にあてていた。 「なるほど、これはおかしい。ボートのうえには櫂が見えない。櫂ばかりではない、人らしいものも見えないぞ。だが、あれはたしかに二号艇だ」 「えっ、二号艇ですか。本当に人影がないのですか。どうしたんでしょう」 「おかしいね」と船長はいって首をふった。 そして望遠鏡を眼から外すと、一同をぐるっと見わたした。 「おい櫂をとれ。あの二号艇のところへ漕いでいってみよう」 果して二号艇には誰もいなかったであろうか。 そこには佐伯船長以下が予期しなかったような怪事が待ちうけているともしらず、一号艇はひさしぶりに擢をそろえて洋上を勇しく漕ぎだしたのであった。
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