海野十三全集 第2巻 俘囚 |
三一書房 |
1991(平成3)年2月28日 |
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷 |
1
前夜の調べ物の疲れで、もう少し寝ていたいところを起された私立探偵局の帆村荘六だった。 「お越し下すったのは、どんな方かね」 「ご婦人です」助手の須永が朗らかさを強いて隠すような調子で答えた。「しかも年齢の頃は二十歳ぐらいの方です」 (なにが、しかもだ)と帆村はパジャマの釦を一つ一つ外しながら思った。この手でも確かに目は醍る。…… 「十分間お待ちねがうように申上げて呉れ」 「はッ。畏まりました」 須永はチョコレートの兵隊のように、わざと四角ばって、帆村の寝室を出ていった。 隣りの浴室の扉をあけ、クルクルと身体につけたものを一枚残らず脱ぎすてると、冷水を張った浴槽へドブンと飛び込み、しぶきをあげて水中を潜りぬけたり、手足をウンと伸したり、なんのことはない膃肭獣のような真似をすること三分、ブルブルと飛び上って強い髭をすっかり剃り落すのに四分、一分で口と顔とを洗い、あとの二分で身体を拭い失礼ならざる程度の洋服を着て、さて応接室の内扉をノックした。 応接室の函のなかには、なるほど若い婦人が入っていた。 「お待たせしました。さあどうぞ」と椅子を進めてから、「早速ご用件を承りましょう」 「はァ有難とう存じます」婦人は帆村の切り出し方の余りに早いのにちょっと狼狽の色を見せたが、思いきったという風で、黒眼がちの大きい瞳を帆村の方に向け直した。その瞳の底には言いしれぬ憂いの色が沈んでいるようであった。「ではお話を申しあげますが、実は父が、突然行方不明になってしまったんでございます――。昨日の夕刊にも出たのでございますが、あたくしの父というのは、動物園の園長をして居ります河内武太夫でございます」 「ああ、貴女が河内園長のお嬢さんのトシ子さんでいらっしゃいますか」帆村は夕刊で、憂いに沈む園長の家族として令嬢トシ子(二〇)の写真を見た記憶があった。その記事は社会面に三段抜きで「河内園長の奇怪な失踪・動物園内に遺留された帽子と上衣」といったような標題がついていたように思う。 「はァ、トシ子でございます」と美しい眼をしばたたき、「ご存知でもございましょうが、私共の家は動物園の直ぐ隣りの杜の中にございまして、その失踪しました十月三十日の朝八時半に父はいつものように出て行ったのです。午前中は父の姿を見たという園の方も多いのでございますが、午後からは見たという方が殆んどありません。お午餐のお弁当を、あたくしが持って行きましたが、それはとうとう父の口に入らなかったのでした。正午にも事務所へ帰ってこないことを皆様不思議に思っていらっしゃいましたが、父は大分変り者の方でございまして、気が変るとよく一人でブラリと園を出まして、広小路の方まで行って寿司屋だのおでん屋などに飛び込み、一時半か二時にもなってヒョックリ帰園いたしますこともございますので、その日も多分いつもの伝だろうと、皆さん考えておいでになったのです。しかし閉園時間の午後五時になっても帰って参りません。たまにはずっと街へ出掛けて夜分まで帰らないこともありますが、その日は事務室に帽子もあり上衣も残って居ますので、いつもとは少し違うというので、西郷さん――この方は副園長をしていらっしゃる若い理学士です――その西郷さんがお帰りにうちへお寄り下すって、『園長の例の病気が始まった様ですよ』と注意をしていって下さいました。ところが其の夜は、とうとう帰って参りません。夜遅くなることはありましても、たとい一時になっても二時になっても帰ってくる父です。それが帰って来ないのですから、どうしたことだろうと母も私共も非常に心配しています。園内も調べていただきましたが判りません。警察の方へも捜索方をお願いいたしましたが、『別に死ぬ動機も無いようだから今夜あたり帰って来られますよ』と云って下さいました。しかし私共は、なんだか其の儘では、じっと待っていられないほど不安なのでございます。万一父が危害を加えられてでもいるようですと、一刻も早く見付けて助け出したいのでございます。それで母と相談をして、お力を拝借に上ったわけなのでございます。どう思召しましょうか、父の生死のほどは」 トシ子嬢は語り終ると、ほんのり紅潮した顔をあげて、帆村の判定を待った。 「さあ――」と帆村は癖で右手で長くもない顎の先をつまんだ。「どうもそれだけでは、河内園長の生死について判断はいたしかねますが、お望みとあらば、もう少し貴女様からも伺い、その上で他の方面も調べて見たいと思います」 「お引受け下すって、どうも有難とう存じます」トシ子嬢はホッと溜息をついた。「何なりとお尋ねくださいまし」 「動物園では大いに騒いで探したようですか」 「それはもう丁寧に探して下すったそうでございます。今朝、園にゆきまして、副園長の西郷さんにお目に懸りましたときのお話でも、念のためと云うので行方不明になった三十日の閉門後、手分けして園内を一通り調べて下すったそうです。今朝も、また更に繰返して探して下さるそうです」 「なるほど」帆村は頷いた。「西郷さんは驚いていましたか」 「はァ、今朝なんかは、非常に心配して居て下さいました」 「西郷さんのお家とご家族は?」 「浅草の今戸です。まだお独身で、下宿していらっしゃいます。しかし西郷さんは、立派な方でございますよ。仮りにも疑うようなことを云って戴きますと、あたくしお恨み申上げますわ」 「いえ、そんなことを唯今考えているわけではありません」 帆村は今時珍らしい、日本趣味の女性に敬意と当惑とを捧げた。 「それから、園長はときどき夜中の一時や二時にお帰宅のことがあるそうですが、それまでどこで過していらっしゃるのですか」 「さァそれは私もよく存じませんが、母の話によりますと、古いお友達を訪ねて一緒にお酒を呑んで廻るのだそうです。それが父の唯一の道楽でもあり楽しみなんですが、それというのもそのお友達は、日露戦役に生き残った戦友で、逢えばその当時のことが思い出されて、ちょっとやそっとでは別れられなくなるんだということです」 「すると園長は日露戦役に出征されたのですね」 「は、沙河の大会戦で身に数弾をうけ、それから内地へ送還されましたが、それまでは勇敢に闘いましたそうです」 「では金鵄勲章組ですね」 「ええ、功六級の曹長でございます」応えながらも、こんなことが父の失踪に何の関係があるのかと、トシ子は探偵の頭脳に稍失望を感じないわけにゆかなかった。 しかし最後へ来て、この些細らしくみえるのが、事件解決の一つの鍵となろうとは二人もこの時は夢想だもしなかった。 「園長はそんなとき、帽子も上衣も着ないでお自宅にも云わず、ブラリと出掛けるのですか」 「そんなことは先ずございません。自宅に云わなくとも、帽子や上衣は暖いときならば兎に角、もう十一月の声を聞き、どっちかと云えば、オーヴァーが欲しい時節です。帽子や洋服は着てゆくだろうと思いますの」 「その上衣はどこにありましょうか。鳥渡拝見したいのですが……」 「上衣はうちにございますから、どうかいらしって下さい」 「ではこれから直ぐに伺いましょう。みちみち古い戦友のことも、もっと話して戴こうと思います」 「ああ、半崎甲平さんのことですか?」トシ子嬢は、父の戦友の名前を初めて口にしたのだった。
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