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博士は、大の英国嫌いである。英国人と酒とは、大嫌いであった。 「ああ博士。ロッセ氏は日本人です」 「本当か、綿貫君。氏は、日本人にしては色が黒すぎるではないか」 綿貫とは、私の名前だ。 「氏は、帰化日本人です。その前は、印度に籍がありました」 「どうぞよろしく」 ロッセ氏は、流暢な日本語で、金博士にいんぎんな挨拶をした。 博士は、無言のまま肯いて、私たちに椅子を指すと、自分は再び椅子に腰をおろした。私たちの囲んだ机の上には、何をやっているのか分らないが、夥しい紙片が散らばっていた。そして紙片の上には、むずかしい数字の式が、まるで蟻の行列のように、丹念に書き込んであった。 「きょうお連れしたロッセ氏は、電気砲学の権威です」と、私は紹介の労をとって、「ロッセ氏は、三ヶ月程前に、初速が一万メートルを出す電気砲の設計を完成されたのですが、残念にも、今日本では、それを引受けて作ってくれるところがないために、すっかりくさってしまわれたんです。それでこの上海へ、憂鬱な胸を抱いて、なにか気分をほぐすものはないかと、遊びに来られたのですが、私は、博士を御紹介するのがよいと思ったので、実は、ロッセ氏には事前に何にも申さないで、とつぜんここへお連れしたわけですから、どうぞ話相手になってあげていただきたい」 私が思いがけなくすっかり底を割ってしまったので、ロッセ氏は、私の話の途中、いくたびも仰天して、私の袖をひいて、話をやめさせようとしたほどであった。 博士は、かるくうなずいていたが、私の話を聞き終ると、 「それは、くさるのも無理ではない」 と、同情の言葉を洩らし、 「わしは、あなたがロッセ氏であることは、今綿貫君の紹介で初めて知ったわけだが、しかしあなたのことは、電気砲の論文を読んで、前から知っていたよ」 と、たいへんいい機嫌の様子で、立ち上ってロッセ氏の黒い手を握った。 ロッセ氏の面上には、いたく感激の色が現れた。 「だが、ロッセ君。そんなに初速の早い電気砲をこしらえて、どうするつもりなんかね」 「これはしたり、そのような御たずねでは恐れ入ります。初速の大きいことは、すなわち射程が長いことである。しからば、われは敵の砲兵陣地乃至は軍艦の射程外にあって、敵を砲撃することが出来るのです。こんなことは常識だと思いますが……」 と、ロッセ氏は、羞らいながら応えた。金博士からメンタルテストをされたように感じたからであろう。 「そういう考えじゃから、命中率はだんだん低下し、砲弾代などが、やたらにかかるのじゃ。射程には、自ら限度がある。ただ砲弾を遠方へ飛ばすだけなら、射程をいくらでも伸ばし得られるが、砲門附近の風速と、弾着地点附近の風速とを考えてみても、かなりちがうのである。射程長ければ、命中率わろしである。そうではないか」 金博士は、鉛筆を握って、紙のうえに、しきりに弾道曲線を描きつつ喋る。 「ですが、金博士。僕はぜひともいい大砲を作りたいと思って、そのような初速の大きい電気砲を設計したのです。一発撃ってみて、命中しなければ、二発目、三発目と、修整を加えていきます。十発のうち、二発でも一発でも命中すれば、しめたものです」 「そういう公算的射撃作戦は、どうも感心できないねえ。なぜ、そんなに焦せるのであるか。もっと落着いて、命中しやすい方針をとってはどうか。ロッセ君、あなたの話を聞いていると、聞いているわしまで、なんだかいらいらしてくる。それでは、戦闘に勝てない。ロッセ君、あなたは日本人だというけれども、あなたの電気砲設計の方針は、日本人的ではないですぞ。それとも、近代の日本人は、そんなにいらいらして来たのかな」 色眼鏡の底に、金博士の眼が光る。 ロッセ氏は、次第に沈痛な表情に移っていって、しきりに唇を噛んでいる。私は、それをとりなそうにも、いうべき言葉を知らなかった。――ロッセ氏が、或る秘め事を、ここで告白するのでなければ、どうにもならないのであった。 しばらく、息づまるような沈黙が、金博士の書斎に続いたが、やがて博士は、やおら椅子から立ち上って、室内をこつこつと歩きだした。 「ねえ、ロッセ君」 「はあ」 「わしは君に、一つのヒントを与える。砲弾の速度を、うんと低下させたら、どんなことになるか」 「射程が短縮されます。技術の退歩です。ナンセンスです」 「いや、わしのいっているのは、射程は、うんと長くとるのだ。ただ砲弾の速度を、極めて遅くするのだ。そして命中率を、百パーセントに上げることが出来る。それについて、一つ考えてみたまえ。解答が出来たら、また訪ねてきなさい、わしは相談に乗ろうから」 「砲弾の速度を下げるのは、ナンセンスですが……とにかく折角のおすすめですから、一つ考えて来ましょう」 「そうだ。そうしたまえ。それが、うまくいくようなら、あなたの企図している英国艦隊一挙撃滅戦も、うまくいくだろう」 「えっ、なんですって」 「いや、あなたの懐中から掏った財布をお返しするよ。これは上から届けて来たものだが、いくら暗号で書いてあるにしても、英艦隊撃滅作戦の書類を中に挟んでおくなんて、不注意にも、程がある」
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