おお大海魔
サウス・クリパー艇は、この時、海面からわずか三、四百メートルのところを飛んでいた。 「ダン艇長、あれが見えませんか」 さすがの太刀川も、色をうしない、そういうのも、舌がこわばって、やっとだった。艇長も教えられるまでもなく、怪物の姿に気づいていたのだが、あまりの恐しさに、声が出なかった。半分気がとおくなって、ふらふらと窓にたおれかかった。 「艇長、あの怪物はどうやらこっちを向いているようですぜ。あ、うごいています。すぐ艇員に命令して、武器をもたせるように――」 「武器――」と艇長はうめくようにいったが、首をふり、 「いや、とてもだめだろう。あれを見たまえ。まるで、煙突が鎧をきたみたいじゃないか。あんなにかたそうでは、小銃の弾なんか通らないよ。そのため、かえって怪物を怒らせるようなことがあっては……」 煙突が鎧をきたようじゃないか! へんないい方ではあるが、なるほど、海魔の姿をよくいいあらわした言葉である。 海面からにょきっと出た首らしいものは、およそ百メートルはあろうと思われる。 それは、くねくねと曲って、ゆらゆらうごいているが、そのぶきみさといったらない。この首の一ばん上に、頭らしいものがついている。首も頭も緑色をしていて、ぬらぬらとしたいやらしいつやをもっている。とつぜん、ぱっぱっぱっと、頭のところから、目もくらむような光が出た。 「あ、光った!」 窓のところへよって、ふるえあがっていた艇員たちは、それを見て、一せいに叫声をあげた。 乗客たちは、もう生きた心地もなく、床の上をはいまわったり、頭をかかえてうめいたり、座席にかじりついて、神の名をよんだりするのであった。 むりもない。海面から出た首と頭とだけで百メートルにちかいのである。すると海面の下にかくれている胴体や尻尾は、と思うと、この世のこととは思えないのである。 (おれたちは、夢を見ているのじゃないかな) しかしそれは、けっして夢ではなかった。 大海魔は、しずかに頭をうごかして、ふしぎそうに、まい下りてくる飛行艇を見あげ、照空灯のような目を、ぴかぴかと光らせるのであった。 操縦室では、海魔から少しでも遠ざかろうと必死の操縦をつづけているのだが、エンジンがとまっているので、思うようにいかない。高度は三百メートル、二百メートル、百メートルと、見る見るうちに下って行った。 あらしの名残の雲がきれぎれにとぶ。 西を向いても東を向いても果しのない大海原、もうどうすることもできない。艇内百余の人命をあずかっているダン艇長は、心を痛めながら、着水後の用意のため、艇内を見まわっている時であった。 「あ、あれあれ」 と、とんきょうな叫声がおこった。 何事かと窓によってみると、海上に大海魔の姿はなく、ごーっという、すさまじい海鳴とともに、今まで大海魔ののぞいていた海面は、ごぼんごぼんと大きな泡をたて、渦をまいてわきたっているではないか。
約束の無電
ダン艇長が、大海魔の消えた海面に目をみはっているそばで、太刀川時夫は、しきりにステッキの頭をひねくっていた。ステッキというが、これはただのステッキではない。日本を出発するとき、原大佐から、「万一の時には、この中に仕掛けてある短波無線機で知らせよ。よびだし符合はX二〇三――」だといっておくられた、あのステッキだ。 それを使う時がいよいよ来たのだ。まさかと思った大海魔が、目の前にあらわれたのである。今だ今だ。今この報告をしなければ、ステッキを使う時が、永久に来ないかもしれない。そして、おそらくこれが、最初にして最後の報告になるかもしれない。――太刀川青年は、そんなことを考えながら、ステッキの頭についている蓋をはずすと、内部につめこまれた精巧な超小型の無電機をのぞいた。くわしいことは、軍機の秘密だから、のべられないけれど、機械のどの部分も、ゴムに似たある特別の弾力のあるかたい物でかためてある。なげとばそうと、海水につかろうと、また少しぐらい熱しようと、中にある機械の働きは、少しもくるわないというすばらしいものだ。 太刀川青年は、ステッキの中から、紐のついた南京豆ほどの奇妙な受話器をひっぱりだし、耳の穴に入れた。そして右の指先で、小さな無電の電鍵を、こつこつとたたいた。 「X二〇三、X二〇三」 それは、例のよびだし符合であった。 太刀川は、そのよびだし符合を、十四ほど、つづけざまにうった。 それがすむと、電鍵のそばについているスイッチをきりかえた。それは、機械が、以後電話ではたらくように、なおしたのだった。 じ、じっと雑音が、受話器をならした。するとそれにつづいて、日本語がはいってきた。 「太刀川君かね。こちらは原大佐だ」 「ああ原大佐!」 太刀川は、おどろいた。こうもうまく、連絡ができるものとは、考えていなかった。大佐の声はすこしはずんでいるが、その声の大きさは、市内電話と同じくらいだった。 「待っていたぞ、太刀川君。僕は今、君もよく知っている、役所の例の机の前にすわっているよ。さあ聞こう。話したまえ」 「ああ」 と太刀川は我にかえった。大佐の声を聞いていると、大佐も、この飛行艇内のどこかにいて、そこから電話をかけているような気がするのだ。大佐にさいそくされて彼は、はじめて話しだした。 「私は今フィリピンの、はるかはるか北の沖に不時着しようとしているサウス・クリパー艇の中にいます。つい今しがた例の大海魔が海面からあらわれ、そしてすぐひっこんでしまうところを見ました」 「そうか、やはり本当にそのような怪物がいたのか。よし、じゃ、くわしく話したまえ」 「まず、形は――」 と、語りかけたとき、艇内の高声器から、とつぜん、警報がなりひびいた。 「皆さん、すぐさま座席の下にある救命具をつけてください。本艇は、あと二、三分のうちに、不時着します。その時は、すぐさま窓から海へとびこんで下さい。本艇は、さきほど暴風雨中を無理な飛行をしましたため、胴体の下部数箇所にさけ目ができました。修理が間にあわず、波があらいので、沈没はまぬかれません。救命具は、しっかり体についているかどうか、たしかめて下さい。すべて行動は、おちついてやること。窓から出るときは、婦人を先にして、男子は後にして下さい。お互に人間としての本分をつくし、どんなことがあっても最後まで気をおとさず、助けあって下さい。無電監視所から、いまに助けに来てくれることと思います。艇員の命令を守らないものは、やむを得ません。銃殺します。ただ、皆さんを、かような運命におとしいれたことにたいしては、艇長以下一同、何とも申しわけなく思っております」 悲壮な声であった。おお、いよいよ着水かと思った時、 「そうだったか、太刀川君、今のを聞いたぞ」 原大佐は、口をこわばらせて、そういい、「うーむ」とうなる声がきこえた。
艇の最後
だが、太刀川時夫は、おちついて、はきはきとした声でいった。 「もう時間がありませんから、この飛行艇が沈むまでに、できるだけのことを、報告しておきます。お書きとり下さい」 「よし、こっちの準備はできている。さっきから、君の話は、すべて録音されているのだ。では、はじめたまえ」 太刀川時夫は、早口に語りはじめた。海面は、すぐ目の下に見える。あと百メートル足らずだ。波は白く泡をかんで、ただ一箇所、例の大海魔がもぐったあたりが、灰色ににごっているだけである。あわてさわぐ客をしり目に、太刀川青年は、海魔について自分の見たところを、できるだけくわしく報告した。そして彼は最後に、共産党太平洋委員長ケレンコと、潜水将校リーロフのことを、つけ加えることを忘れなかった。 「おおケレンコにリーロフか。二人とも○○国には、もったいないほどの優秀な人物だ」 と、原大佐は思わず、おどろきの声をあげた。 「僕は会ったことがある。二人とも、我々が注意していた人物だ。太平洋上へ落ちたとすれば、たぶん命は助るまいが、けっして油断はならない。太刀川君、飛行艇の寿命はあと数分のようだね。だが早まってくれるな。祖国のため、どんな苦しいことがあっても命を大事にしてくれ。そして、ケレンコとリーロフの消息には、これからも、気をつけていてくれ。その中こっちからも、誰かを……」 その時、人気のなくなったこの廊下へ、あわただしくかけこんで来た者がある。石少年であった。 「太刀川先生、早く……ほら、もうすぐ海におちる」 「おお、石福海か、ちょ、ちょっと待て」 しかし石少年は、ぐずぐずしていたら死ぬじゃないかという顔色で、太刀川青年の腕をぐんぐんひっぱる。 「よし、わかった。太刀川君、あとは君の天佑をいのるばかりじゃ」 事情を察した原大佐の声が聞えた。 太刀川も、ついにあきらめた。 「では大佐、さようなら。ごきげんよう……」 とたんに、飛行艇は海面にたたきつけられた。太刀川青年は、はずみをくらってあやうく、頭を天井にぶっつけそうになった。 出入口におしあっていた乗客たちは、いいようのない叫声をあげて、われがちに外へ出ようと争っている。海水はあけた扉から、どどどーっとながれこんで、みるみるうちに艇内は水びたしになる。 「ああ、だめだ、先生!」 「心配するな、しっかり僕の手につかまっておれ!」 太刀川青年は、そういって、すばやくステッキの蓋をすると、それを腰にさし、救命具をつけて、一つの窓をたたき破り、石少年とともにするりと艇外へ、くぐりぬけた。がぶりと、大きな波が二人をのみこんだ。
波とたたかう
太刀川青年は、石少年の手をとったまま、水をけって、水面へ浮かび出た。 飛行艇は、その時、背中を半分ほど海面にあらわし、プロペラを夕空に高く、つき出していたが、ずぶずぶと、大きな姿を没して行く。 艇員や乗客たちが、たがいに呼び合う声が、波の音、風の音にまじって聞える。 「ダン艇長は?」と、あたりを見まわしたが、いくつもの頭が、波のまにまに見えるだけで、誰がどこにいるのかわからなかった。 「ぷーっ」 石少年が、のんでいた水をふきだした。 それを見て、 「おお、石福海、おまえは、どのくらい泳げるか」 太刀川はきいた。 「泳ぎ? 泳ぎなら、百里は、大丈夫ある。わたし生れ香港、五つの時から泳ぎおぼえた」 石少年は、立泳ぎをしながら、こんなのんきな返事をした。 「なに、百里? あきれた奴じゃ」 太刀川は、思わず笑って、石少年の顔を見た。 波はまだ大きい。 西の水平線に、しずみかかった太陽が、海面を金色にそめているのが、かえってものすごかった。 クリパー号は、もう波間にのまれてしまって、そのあととおぼしいあたりに、乗客たちの持ち物が、ただよっている。 耳をすますと、遭難者たちの声が、相変らず、もの悲しく聞えていた。
おそろしい渦
波は、いくらか小さくなったようだが、急に黒っぽさをました。 闇が身近にせまって来ると、石少年は、心細くなったのか、 「先生、わたし一晩中、泳ぎつづけても、大丈夫あるが、夜、何だかこわいよ」 といいだした。 「だまって[#「だまって」はママ]、おまえは目がわるくて、二メートル先も、よく見えないのだろう。じゃ、夜だって昼だって同じことじゃないか」 「それ、ちがう、さっきの海魔、わたしの足くわえ、海の底、ひっぱりこむような気がする」 「はっはっはっは……何のことかと思ったら、それか。ところが僕は、あの海魔に、もう一度会いたいと思っているんだよ」 二人が、波にもまれながらこんな話をしている時であった。又も遠い海鳴のような音が、ごーっと聞えだしたかと思うと、とつぜん、闇の彼方から、 「あっ」 「あれ、あれ」 「きゃっ」 という悲鳴。 「先生、あの声は?」 「うん、みんなの声だ。いよいよ出たか」 「え、何がです」 「心配するな、何でもないよ」 そういってる間に、おびえきった声が、右の方からも左の方からも聞えだし、それが、だんだんひろがっていくような気がした。 「あ、先生。わたしの体、ながされる。おお、大きな渦、先生、あぶない」 「なに、渦だ。うーむ。いよいよやってきたか」 太刀川が、そうつぶやいた時、石少年の体が、まるで船にでものっているように、すーっと、目の前を流れた。 「せ、先生。渦がわたしをひっぱるよ。た、助けて!」 石少年の細い腕が、高くあがったのを見た。 しかしそれと同時に、太刀川の体も渦にのって流されはじめた。 「おお、石、しっかりしろ!」 もう石少年の返事はない。そのうちに、ぴちぴちという生木をさくような、ぶきみな音が、渦のまん中と思われるあたりから聞えだし、彼の体は、くるくるとまわりだした。 「む、無念だ」 と思った時、急に足が下にひっぱられるような気がした。必死にもがいたが、むだであった。太刀川の体は、いよいよはげしく、まるでこまのように早くまわりだした。 「もう、だめか」 彼は観念の眼をとじた、瞬間、頭の中をかすめるものがあった。 原大佐の顔、 重大使命は? 海魔は? ケレンコ、リーロフは? やがて彼の気は、だんだん遠くなっていった。 × × × 太刀川時夫と石福海を、のみこんだ大きな黒い渦は、ゆらりゆらりと所をかえて行く、その底のあたりに、何か、ぴかりぴかりと光るものがあったが、ごーっという海鳴が一だんと高くなり、あたり一面が、ものすごく波立って来たかと思うと、やがて、まっくろい海面を、つきやぶって、ざざー、ざざーと、泡立てながら、ぬーっと姿をあらわした恐しくでかいものがある。 大海魔であった。 夜目にもそれとわかる、あのものすごい大海魔の頭であった。
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