暗号無電
太刀川は、飛行艇にぶじ乗りうつることができた。 飛行艇サウス・クリパー号は、六つの発動機をもっている巨人艇である。見るからに、浮城といった感じがする。 金モールのいかめしい帽子を、銀色の頭髪のうえにいただいているのが、艇長ダン大佐だった。彼は欧州大戦のときの空の勇士の一人として有名な人物だった。 太刀川が入った客室には、二十四人の座席があった。彼が座席番号によって、自分の席をさがしていると、ダン艇長がつかつかとやって来て、 「おお太刀川さん。あなたの座席はここですよ」 といって、自ら案内してくれた。それは室の一番隅の席であった。 「やあ、すみません」 「いえ、こんなところでお気の毒ですが、きまっているので我慢してください。私はニューヨークの郊外に家をもっていましてね、私の家の隣が、あなたの勤めていらっしゃる四ツ星漁業の支店長花岡さんのお宅なので、いつも御懇意にねがっているのですよ。あなたもどうか、御懇意にねがいます」 そういってダン艇長は、大きな手で、太刀川の手を握った。知人のない太刀川は、思いがけない艇長の言葉に、たいへん嬉しさを感じた。 室内へ入ってくる乗客をじっと見ていると、ずっと遅れて、例の酔っぱらいリキーとケント老夫人とが入ってきたのには、ちょっと不愉快になった。 「さあ、どけ。こんなところで何をしてやがる」 たちまち室内にひびきわたるリキーの怒号の声! 間違ってリキーの座席にすわっていた若いインド人夫妻が、締め殺されるような悲鳴をあげて、太刀川のいる方へ逃げてきた。 「どうしました。あなたがたの座席番号は?」 と、太刀川がきいてやると、二人はよろこんで、まだぶるぶる慄える手に二枚の切符をもって、さしだした。 「四十七号と四十八号。それなら、私の前です。私は五十号ですから」 インド人夫妻は、うれしそうに、いくども礼をいって、太刀川の前に座をとった。 眼をあげて、リキーの方をみると、かの二人はようやく落ちついたようであった。すなわち、太刀川のいるところと真反対の一番隅に、老夫人がふかく腰をおろし、通路に近い方に酔っぱらいのリキーがすわっている。 そのうちに、出発の時刻がだんだん迫ってきた。 はげしく、賑やかに銅鑼が鳴りだした。乗客たちは、飛行艇の窓から外をのぞきながら、小蒸気の甲板にいる見送人と手をふり、ハンケチをふって、別れの挨拶をする。 「出航用意!」 艇長ダンの声が聞えた。 太刀川の席のすぐ向こうに、艇長室があるらしく、彼の命令する声がひびいてくる。しかしこれはよく調べてみると、艇長室と彼の席のすぐうしろの壁との間に空気ぬきのパイプが通じていて、それがあたかも伝声管のような役目をして、向こうの声がこっちへ伝わってくるものだとわかった。 発動機は、轟々と音をたてて廻りだした。いよいよ太平洋を西から東へ、一万四千キロの横断飛行が始るのである。 「出航!」 号令とともに、飛行艇は海上をすべりだした。 スピードは、ぐんぐんあがる。 艇のあとにひいた夥しい泡が、はたとたち切れると、艇はすーっと浮きあがった。空中の旅が始ったのである。見下す海面は、ガラス板のように滑らかであった。 どこかで、無電をうっているらしい音が、しきりにする。 ふりかえると、いつの間にやら、香港一帯が箱庭の飛石のように小さくなった。発動機の振動が、微かに座席にひびいてくるぐらいで、全く快い空の旅であった。 酔っぱらいのリキーは、大きな鼾をかいて寝こんでしまった。老夫人もその隣で、じっと睡っているらしい。室内では、乗客たちがだいぶん落ちついて、あっちでもこっちでも、しずかな談話をはじめたり、チョコレートの函をひらいたりしている。しかし艇員が出入に防音扉をあけるごとに、轟々たる発動機の音が、あらゆる話声をふきとばしてしまう。だが、なんという穏やかな空の旅であろう。 それから一時間たった。 艇は、針路を南東にとって、一路マニラにむけて飛行中であった。すでに陸地はとおくに消えてしまって、真青な大海原と、空中にのびあがっている入道雲との世界であった。その中を、飛行艇サウス・クリパー機は翼をひろげ悠々と飛んでゆく。 「艇長、本社から無電です」 「なんだ、ニューヨークの本社からか。ほう、これは暗号無電じゃないか、なにごとが起ったのか」 艇長は、しばらく黙っていた。暗号を自分で解いているらしかった。 「事務長をよべ」艇長の声は、甲高い。 「艇長、お呼びでしたか」 「うん。本社からの秘密無電だ。えらいことになったぞ。これを読んでみろ」 「はい」事務長は電文を読みだした。 「貴艇内に、共産党員太平洋委員長ケレンコおよび潜水将校リーロフの両人が乗りこんだ。監視を怠るな。マニラにて両人の下艇をもとめよ。あとの太平洋飛行は危険につき、当方より命令するまで中止せよ」 事務長の顔は、真青になった。 艇長ダン大佐の眉に心配の皺がよった。 「どういたしましょう」 「飛行中、この飛行艇を爆破されるおそれがある。困った」 「しかし艇長、その無電は間違いではないでしょうか。ケレンコにリーロフなんて、そんな名前は艇客名簿にのっていません」 「いずれ変名をしているんだろう。まずその両人を見つけることが第一だ」 さっきから、この会話を聞いていた太刀川の眼が、きらりと光って、向こうの隅に睡っている酔っぱらいリキーと老夫人ケントのうえに落ちて、じっとうごかなくなった。 太平洋横断の、しずかなる空の旅とおもっていたが、いまやこのサウス・クリパー機上の百人近い命は、最大危険にさらされていることがわかったのである。 ニューヨーク本社が慄えあがった共産党員太平洋委員長ケレンコとは、一体何者であろうか。彼は何を画策しているのであろうか。 帝国の国防のため重大使命をおびている武侠の青年太刀川時夫は、はからずもたいへんな飛行艇の中に乗りこんだものである。 さあ、どうなる? 太平洋横断の飛行艇サウス・クリパー機の運命は!
大捜査
おそろしい二人の共産党員が、このサウス・クリパー艇の乗客のなかに、名を変えてまぎれこんでいるというのである。 一体だれが共産党太平洋委員長ケレンコであり、まただれが潜水将校リーロフなのであろうか。 太刀川時夫は、空気ぬきのパイプから洩れてくる艇長室の声に、じっと耳をかたむけている。 「おい、事務長」 ダン艇長の声だ。それはなにごとか決心したらしい強い声だった。 「はい、艇長」 別の声だ。 「とにかく今からすぐ手わけして、ケレンコとリーロフの二人をさがし出そう」 「はい、かしこまりました。では早速……」 「うん、ひとつがんばってくれ。だがわれわれが凶悪な共産党員をさがしているんだということを、誰にも気どられないように注意しろよ。万一、奴らに気づかれて、その場であばれだされると、危険だからね。この飛行艇が、マニラにつくまでは、あくまで知らぬふりをしておくことが大切だ」 「よくわかりました。ではすぐ艇内をさがす捜索隊の顔ぶれをきめましょう」 「うん、うまくやってくれ」 その後は、声が急に低くなって、聞きとれなかった。 それから十五分ほどすると、捜索隊の顔ぶれがきまったのか、事務長が艇内の方々へ電話をかけはじめた。 秘密のうちに共産党員にたいし、戦いの火蓋が切られたのである。 当のケレンコとリーロフが、知っているかどうか知る由もないが、艇内はにわかに、重苦しい空気につつまれて行った。 太刀川時夫は、座席にふかく体をうずめたまま、じっとこらえていた。 (怪しい奴といえば、あの向こうの隅に睡りこけているケント老夫人と、酔っぱらいのリキーの二人組だが……) 太刀川は、どういうものか、二人組が気になって仕方がなかった。 (しかし待てよ。共産党員のケレンコとリーロフというのは、どっちも男だ。ところがあの二人は、一人は荒くれ男だけれども、もう一人の方はお婆さんではないか。するとこれは、別人かな) と思ったが、それでもなお、彼はこの二人組から、目を放す気持にはなれなかった。 その時であった。 とつぜん防音扉が、ばたんとあいてどやどやと捜索隊がはいってきた。 (すわこそ!) と、太刀川時夫は席から立ちあがろうとしたが、いやまてと、はやる心をおさえつけて、そのまま席に体をうずめた。 「ひどい奴だ。さあ、こっちへ来い」 隊長らしい艇員の一人が、声をあららげて、誰かを叱りとばした。 (さあ、始ったぞ。リキーの奴がひきたてられるのか!) 太刀川は、印度人夫妻の肩ごしに、その方に目を光らせたが、リキーは今目をさましたらしく、両腕を高く上にのばして、大あくびをしているところだった。 (あれ、リキーじゃないとすると、一体誰が叱られているんだろう?) そのとき、隊長らしい艇員が後をふりむきざま、 「さあ、早くこっちへくるんだ」 といって、顔をまっ赤にして、一人の少年の首すじをつかんで、ひきずりだした。見ると、それは色のあせた浅黄いろのズボンに、上半身はすっ裸という恰好の、中国人少年だった。 「貴様みたいな小僧に、この太平洋をむざむざ密航されてたまるものか。この野郎めが」 艇員は拳をあげて、少年の小さい頭をなぐった。 「ひーい」 少年は、悲鳴をあげた。 「なんだ、密航者か」 「ふとい奴だ」 「いや面白い。これは、いいたいくつしのぎだ」 乗客たちは、てんでに勝手なことをいって、さわぎだした。 「さあ、早く歩け」
密航少年
と、隊長の艇員は叱りつける。と突然、 「やかましいやい」 とリキーが座席から立ち上って、どなった。 「密航少年の一人ぐらいで、なんというさわぎをやってるんだ。俺がかわって片づけてやらあ。さあ、その小僧をこっちへよこせ」 リキーは、松の木のような太い腕をのばして、少年をぐいとつかんだ。 「ああ、ちょっとお待ちください。この少年の処分は、ダン艇長がいたしますから、どうかおかまいなく」 艇員の隊長は、腕節のつよそうなリキーに遠慮がちに、それでもいうだけのことをいった。 「おれはさっきから、頭がいたくてたまらないんだ。貴様がこの小僧をぴいぴい泣かせるものだから、頭痛がいよいよはげしくなってきたじゃないか。なあに、こいつを片づけるくらい、訳のないことだ。窓から外へおっぽりだせば、それですむじゃないか」 リキーは、たいへんなことを、平気でいった。そしてそれをすぐにもやりそうであった。 乗合わせている婦人たちは、さっと顔色をまっ青にした。 「まあ、ちょっとお待ちください。いま艇長に話をいたしますから」 「艇長なんかに用はない。そこを放せ」 ケント老夫人が、リキーをとめるだろうと思っていたのに、どうしたわけか、老夫人は知らぬ顔をしてそっぽを向いている。 このさわぎを、太刀川時夫はさっきからじっと眺めていた。はじめは冗談のおどかしかとおもっていたが、リキーが本当に、中国少年を飛行艇からなげだしそうなので、これは困ったことになったと思った。 密航するのは悪いにきまっている。しかしその罰に、命をとるというのは、無茶な話だ。可哀そうに、少年は、リキーの腕の中で手足をばたばたさせながら泣き出した。 (もう見ていられない。誰もたすけだす者がいなければ、一つ僕がリキーをとっちめてやろうか) と、太刀川は考えた。リキーは、相当腕節が強そうだが、強い者が弱い者をいじめているのを日本人の血はどうしてもだまって見ていられないのだ。 彼は、拳をかためて、すくっと立ちあがった。その時、足もとでがたんと音がした。何かとおもって下をむくと、東京を出発するとき原大佐から贈られた例の太いステッキであった。 “待て太刀川!” 洋杖が、なにか囁いたようであった。 “お前の使命は、重大だぞ” 大佐が別れにのぞんで彼にいった言葉が思いだされた。 (そうだった。軽々しいことはできない) 太刀川は、一歩手前で、気がついた。彼の双肩には、祖国日本の運命がかかっているのだ。リキーと闘って勝てばいいが、もし負けて、中国少年同様、南シナ海になげこまれてしまえば、祖国への御奉公も、それまでではないか。 (といって、あの中国少年は見殺しには出来ない) 太刀川は、わが胸に問い、わが胸に答えながら、考えこんでいたが、何事を思いついたのか、 「そうだ」といって席をたった。
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