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大脳手術(だいのうしゅじゅつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-25 6:26:45 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   無間地獄むげんじごく

 這々ほうほうていで逃げ出した私は、さすがに追跡が恐しくなって、その夜は鳴海の家を叩いて、泊めて貰った。
 鳴海は、私から事情を聞いて、その乱暴をきつくいましめた。そして今夜はたとえどんなことが起ろうと僕が引受けてうまくやるから、君は安心して睡れといって呉れた。お蔭で私は、ぐっすりと安眠することができた。
 朝が来た。窓が明るくなると、私は反射的に跳起とびおきた。おどろくことはなかった。鳴海が傍でぐうぐうと睡っていたし、家は彼の宅であった。追跡者も、遂に私の身柄を取押えることができなかったのである。一安心だ。
 食堂へいって鳴海と共に朝食を済ませた。それから彼の部屋へ行って、電気暖房を囲んでたばこをのんだ。
 そのとき鳴海が、突然妙なことをいい出した。
「ねえ闇川。一体、迎春館主げいしゅんかんしゅ和歌宮鈍千木師なる者は実在の人物かね」
 私は声がつまって、しばらく返事ができなかった。
「何故急にそんなことをくんだい」
「だって僕は、これまで和歌宮を散々尋ねて歩いたんだが、遂に彼を見ることができなかった」
「探し方が悪いんだろう」
「いや、そうとは思えない。僕の調べたところでは、多くの人々が迎春館という名を知っており、和歌宮鈍千木師の名前も聞いて知っているが、さて迎春館のはっきりした所在もらず、また和歌宮師に会った者もないのだ。変な話じゃないか。君は、これに対してどういう釈明しゃくめいを以て僕を満足させてくれるかね」
「はっはっはっはっ」
 私は声をたてて笑った。
「なぜ笑うのか」
「だって君はあまりに懐疑的だよ。和歌宮先生の如き貴人が、そう安っぽく人前に現われるものか。先生や迎春館に関する話がたくさん知られていることだけでも、その存在はりっぱに証明されるじゃないか。先生は、本当に人体売買の手術を希望する当人以外には会っているいとまがないのだ。仕事も忙しいし、それに更に深い研究を続けておられるものだからねえ」
「じゃ、君は僕を和歌宮師のところへ連れていって会わせてれ」
「駄目だよ、君はそういう手術を希望していないんだから、やっぱり駄目だよ」
「とにかく僕は大きな疑惑を持っている。よろしい、そういうんなら他の方法によって、この疑惑を解いてみせる」
 こんな話から、私は気拙きまずくなって、鳴海の宅から立去った。そして私は、更にすさんだ生活の中に落込んでいった。
 生活と刺激のために、私はいよいよ自分の体の部品を売飛ばさねばならなかった。頸から上だけは売るまいと思っていたが、今はそれさえまもり切れなくなり、眼球を売ったり、歯を全部売ったり、またよく聴える耳を売ったりして、遂には頭髪付の顔の皮膚までも売払ってしまった。そして私は、鏡というものを極度に恐怖する身の上とはなった。全くあさましき限りである。
 顔がすっかり変ったということは、淋しきことではあるが、その代り都合のいいこともあった。それは、今まで私を知れる者が、今では私だといい当てることができなかった。鳴海さえ、町で出会っても、気がつかないで私の傍をすれちがって行ってしまう。私はたいへん気楽になった。
 或るとき、私ははからずも一つの問題に突当った。それは外でもない。こうして容貌も変り、声も変り、四肢から臓器までも変り果てた現在の私は、果して本来の私といえるかどうかという問題であった。こんな苦をてきたというのも、元々もともと本来の私というものが可愛いいためであった。ところが、よく考えてみると、本来の私というものが、今では殆んど残っていないのである。残っているのは脳味噌だけだといっても過言かごんではない。あとは皆借り物だ。質の悪い他人の部品の集成体だ。そんないい加減の集成体が、果してやはり愛すべき価値があるかどうか、はなはだ疑わしい。この問題は意外にも非常に深刻な問題であった。私はこの問題に触れたことを大いに後悔した。しかし手をつけてしまった以上、もうどうすることもできない。問題の解決より外に、解決の方法はないのだ。
 現在の私は、本来の私と同じように、自ら愛すべき価値ありや。
 ああ、恐ろしいことだ。私はとんでもない過誤を犯した。自己を愛するためにあんなにまで苦労を重ねながら、らずらずのうちに、それと反対に自己を破壊し尽していたのだ。こんな悲惨な出来事があるだろうか。私にとっては、それは大なる悲劇であるが、世間の人達にとっては、この上もなくおかしい喜劇だというであろう。
 私はすっかり自信と希望とをうしなってしまった。私は急に病体となった。心も体も、日ましに衰弱していった。思考力が、目立って減退げんたいし始めた。記憶も薄れて行く。こんなことでは、本来の自己の最後の財産である脳髄までが腐敗を始め、やがて絶対の無と化してしまいそうだ。このあらたなる予感が、重苦しい恐怖となって私の全身をめつける。
 私は一日医書をひもとき、「若返り法と永遠の生命」の項について研究した。その結果得た結論は次の如きものであった。
“臓器や四肢を取替えることによって見掛けの若返りは達せらるるも、脳細胞の老衰は如何ともすべからず、結局永遠の生命を獲得することは不可能である”
 私は失望を禁じ得なかったが、そのうちに不図ふと気のついたことは、この医書はかなり版が古いことである。そこで今度は近着の医学雑誌を片端から探してみた。するとそこに耳よりな新説が記載されているのを発見した。
“……大脳手術の最近における驚異的発達は従来不可能とされた諸種の問題を相当可能へ移行させた。老衰せる脳細胞は、若き溌溂はつらつたる脳細胞に植継うえつぎて、画期的なる若返りが遂げられる。かかる場合、知能的には低き脳細胞へ移植を行うことが手術上比較的容易である”
 この一文は、私に新なる元気をもたらした。有難い。わが脳細胞の老衰は全然処置なしではなかったのだ。私は何とかして若返えるみちを発見せねばならぬ。それにはどうしたら一番よいであろうか。
 いろいろ考えぬいた揚句あげく、私は遂に一案を思付いた。それは甚だ突飛とっぴな解決法であった。しかし現在の私のような境涯きょうがいにあっては致し方のないことだ。読者よ、あきれてはいけない。私は、私の体に残れる本来の私の最後の財産たる老衰せる大脳の皮質を摘出して、これを動物園につながれている若きゴリラの大脳へ移植することを思付いたのだ。何と素晴らしきアイデアではないか。くして私は、あの溌溂たるゴリラの測り知られぬ精力を、自分のものにすることが出来るのだ。
 私は、和歌宮先生に歎願して、この思切った大脳手術をうた。さいわいに先生は大きな同情をもって快諾し、そして私の注文通りの手術を行ってくれた。それから幾日経ってか、私が気がついたときは、私は一頭のゴリラになり果てていた。そして従来に例なき安楽な気持と溌溂たる精力とをもって、檻の中より動物園入場者の群を眺めて暮らす身の上とはなった。桜の花片はなびらは、ひらひらひらと、わが檻の上より舞落ちるのであった。私は生れて始めての安楽な生活に法悦ほうえつを覚えた。
 そういう楽しい生活が無限に続いてくれることを祈っていた私だが、入園後まだ浅き或る日のこと、私の楽しい気持は突然剥奪はくだつされるに至った。それは私の檻の前に立った一人の見物人を見上げたときに起ったことである。そのとき私は思わず、があがあと叫んで牙をいたものである。
 その男――わが檻の前に立ち、熱心にこっちをのぞいているその男――その男の顔、肩、肉づき、手足、全体の姿、そのすべてがなんとつての本来の私そっくりであったではないか。私はその瞬間、万事をさとった。
(貴様だな、俺の両脚から始めて両腕、臓器、顔などと皆買い集めてしまったのは……。貴様は、俺のものをそっくり奪ってしまったのだ。買取るならそれもよろしいが、そのように俺のものを全部集成しなくともよいではないか。ことにこれ見よがしに、俺の檻の前に立つとはしからん。……だがな、貴様はまだ俺からその全部を奪っているのではないのだぞ。脳細胞のことよ。肝腎かんじんの脳細胞は、今ちゃんとこうしてこっちに有るんだ。あはは、お気の毒さまだ)
 私は腹を抱えて、ごうごうと笑ってやった。すると彼の男は、私の言葉を了解したと見え、急に恐ろしい形相ぎょうそうとなって、私の檻へ歩みよった。
「あ、危い」
 それをうしろから引留めた者がある。おお、鳴海だ。鳴海が、何故こんなインチキ野郎についているのだろうと私はちょっと不思議に思ったが、それを解いているいとまはなかった。彼のインチキ男は、檻の鉄棒につかまって、それを前後に揺り動かしながら、私に向って訳のわからぬ言葉でののしった。私はむらむらとしゃくにさわって、いきなり立上ると檻の方へ飛んでいって、うらかさなる不愉快なその男の小さな顔を両手で抑えつけ、ぐわっと噛みついてやった。ああ、いい気持だ。
     ×   ×   ×
 以上は、第三十四号室の患者○○○○氏の手記である。同氏は本日余の執刀によって大脳手術を受けることになっているものであるが、氏の錯倒さくとう精神状態はこの手記によって自明である。だが、これは精神病ではなく、弾片だんぺんによって脳髄に受けたる圧迫傷害にもとづくもので、大脳手術を施すことにより多分恢復するだろうと思われる。
 なおこの手記は極めて興味あるものであって、患者の脳症を顕著に示しているが、しかし氏がかかる患者であるとの予備知識なくして一読するときは、一つのまとまった物語として受取れる。しかしこの物語の中にある事件は大部分が実在したものではない。
 すなわち氏の友誼ゆうぎあつき親友鳴海三郎氏の談によれば、次の如き興味ある事実が判明する。
 一 珠子なる婦人は実在せず、全く闇川吉人やみかわきちんどの幻想にづ。
 二 迎春館も和歌宮鈍千木氏わかみやどんちきしも実在せず。但し、和歌宮先生なるものは、実は闇川吉人が自ら二役的存在として仮装せるものと信ずべき節あり、すなわちヤミカワ、キチンドなる名を逆に読めばワカミヤ、ドンチキにして、こは彼の小説家らしき仕業なりと思料しりょうす。
 三 闇川吉人は一脚すら売飛ばせるものにあらず。いわんや最後に残りたる脳細胞を動物園のゴリラに移植したるなどのことは全然虚構に属する妄想なり。ただ、一日吾は彼を散歩に連れ出し、落花紛々らっかふんぷんたる下を動物園に入場し、ゴリラの檻の前に至りたる事、及び彼がゴリラの檻へ近付かんとしたるを以て、吾はおどろいてそれを引留めたるは事実なり。
 吾は、不幸なる闇川吉人が、幸いに瀬尾教授の手篤てあつき手術によりて、戦前の如き健全なる彼にまで恢復することを祈念してやまざるものなり。





底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
   1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「富士」
   1945(昭和20)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
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