凩の夜店
復讐の鬼と化した私は、前後を忘じ、昼といわず夜といわず巷を走り廻った。もちろんその目的は、珠子と、私の生れついたる美しい脚を騙取したる――敢えてそういうのだ――その男とを引捕えるためであった。 が、珠子とその男とは、なかなか私の視界に入らなかった。その二人は、巷を歩かないわけではなく、私はたびたび珠子とその男の姿を見かけた話を耳にした。しかも私の不運なる、遂に両人に行逢うことができないのであった。 私は自暴自棄になって、不逞にも和歌宮先生の許へ暴れ込んだ。私は悪鬼につかれたようになって、先生を診察台の上へねじ伏せると、かの私の生れついた美しい両脚を珠子づれに譲渡したことを詰った。しかし先生は、私の無礼を咎めもせず、静かな声で、一旦君から買取った上はこれをどう処分をしようと私の自由であり、君は文句をいう権利がない旨を諭した。私は先生の咽喉を締めあげた腕を解き、その場に平伏して非礼を詫びるしかなかった。そしてその日、私は私の両の腕を先生に買取って貰ってから、そこを辞した。値段は百十五万円であるから、普通以上のよい値段であった。その代りに私は八千五百円を投じて割安な轢死人の両腕を譲りうけ、それを移植して頂いた。で、手取りが百十四万千五百円也となった。これだけあれば、当分生活に困らない。 こういう呪わしき境遇に追込まれた者の常として、平面無臭の生活ができないことは首肯されるであろう。私の場合においてもこの例に漏れず、日夜刺激を追及し、その生活は次第に荒んでいった。その行状は、ここに文字にすることを憚るが、私の金づかいも日と共に荒くなり、両腕を売飛ばして懐に持った百十四万余の大金も、そう永からぬ期間のうちに他人にまきあげられてしまい、私はまた金策に苦労しなければならなくなった。そして結局は、酒の勢いに助けられて和歌宮先生の門に飛込み、或いは心臓を売り、或いは背中一面の皮膚を売りなどして、内臓といわず何といわず、次から次へと売飛ばして金に替えたのであった。只そのような際に、常に守ったことは頸から上のものについては一物も売ろうとはしないことだった。顔を売ってしまえば、私の看板がなくなるわけだから、どんなことがあろうと、これだけは売ることはできない。 欠乏と懊悩を背負って喘ぎ喘ぎ、私は相も変らず巷を血眼になって探し歩いた。しかし運命の神はどこまでも私に味方をせず、珠子とその仇し男の姿を発見することはできなかった。私は毎夜遅く、へとへとになって住居へ転げこむように戻るのが常だった。 鳴海の奴は、相変らずやって来ては、頭の悪いお祖母さんのような世話を焼いたり、忠言を繰返した。 「君も莫迦だよ。いくら珠子さんは美人か知らないが、あれが生れながらの美人なら、それは君のように追駈け廻わす価値があるかもしれない。しかしよく考えて見給え、そんな価値はありやせんよ」 「生れながら、どうしたって」 「そこなんだ。いいかい、珠子さんという人は瀬尾教授とも古くから親しくしているんだぜ。或る人の話によると、珠子さんは以前はあんな美人じゃなく、むしろ器量はよくない方だった。それが急に生れかわったような美人になったんだそうで、そこにはそれ瀬尾教授の施した美顔整形手術の匂いがぷうんとするじゃないか。そういう人為的美人に、君という莫迦者は愚かにも純粋の生命と魂を捧げているんだ。いわば珠子さんは、雑誌の口絵にある印刷した美人画みたいなものだぜ。そういうものに熱中する君は、よほどの阿呆だ」 「……」 これは痛い言葉だった。私は終日不愉快であった。鳴海の奴は、私の熱愛していた偶像を滅茶滅茶に壊してしまったのだ。私はそれ以来一層不機嫌に駆りたてられた。こうなれば珠子に対する愛着は冷却せざるを得ないが、その代り珠子が私の脚を仇し男に贈ったという所業に対する怨恨は更に強く燃え上らないわけに行かなかった。 「よし、こうなればたとえ骸骨となっても、彼の仇し男を引捕えてやらねば……」 その頃丁度或る筋から、珠子とその仇し男らしき人物とが、K坂の夜店に肩を並べて歩いていたという話を聞込んだので、私は新しい探求手段を考えついて早速実行することにした。それは私もK坂の夜店に加わって、手相卜いの店を張ろうというのだった。そして腰をどっしりと落付けて、かの両人の見張を行おうとするのだった。 私はこの夜店の委員会の認可を受けた上で、黒の中折帽子に同じく黒い長マントを引摺るように着て、凩の吹く坂道の、小便横町の小暗き角に、お定まりの古風な提灯を持って立商売を始めた。始めの二三日は、むしろ楽しきことであったが、四日五日と経て行くうちに、この商売が決して楽なものではないと分った。いやむしろよほどの体力がないとやれない仕事だと分った。しかし私は屈しなかった。 風邪を引込んだが、私は休まなかった。水洟を啜りあげながら、なおも来る夜来る夜を頑張り続けた。さりながらその甲斐は一向に現われず、焦燥は日と共に加わった。珠子とあの仇し男とは、余程巧みに万事をやっているらしい。 ところが突然、一つの機会が天から降って私の前へ落ちて来た。それは立商売を始めてから四週日の金曜日の宵だったが、坂の上の方から折鞄を小脇に抱えた紳士が、少しく酩酊の気味でふらふらした足取で、こっちへ近づくのが何故か目に停った。 「あ、瀬尾教授!」 おお、間違いなく瀬尾教授だ。このとき私の頭脳に稲妻の如く閃いた一事がある。 (ははあ、この先生のことかもしれぬ。私はうっかりこの先生と珠子との結びつきを忘れていたぞ。そうだ、珠子から私の脚を贈られたのは、この瀬尾教授かもしれない。よし、今それを改めてくれるぜ) 私の胸は踊った。後は何が何やら夢中である。もう恐さも恥かしさもない。私は狂犬のように横町から飛出していって、いきなり教授の腕を捉えた。それから教授をずるずると横町へ引張りこんだ。それから隠し持ったる小刀で、教授のズボンを下から上へ向ってびりびりと引裂いた。そして教授の長い脛をズボン下から剥き出すと、商売ものの懐中電灯をさっと照らしつけて、教授の毛脛をまざまざと検視した。 「うわっ、た、助けてくれ」 教授は教授らしくもない大悲鳴をもって、このとき助けを求めた。さあ、たいへん。忽ち人の波が私たちの方へ殺到した。これはしまったと、私は提灯も懐中電灯もそこに放り出すと、一目散に暗い小路を突切って、いよいよ暗い方へ逃げ出した。 逃げながらも、私は朗かであった。どうかと疑った瀬尾教授のズボンの下には、私が忘れることの出来ないあの売払った脚が発見されなかったのである。すると瀬尾教授は、私の血眼になって探している男ではない。 それはいいが、一向姿を見せない彼の仇し男は一体誰であろうか。どんな顔をしている男だろうか。
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