疑惑
珠子は、果して大悦びだった。私の予期した以上の悦び方だった。私の両手を握って見較べ、以前よりも艶々してきたと褒めた。 それから私達は、ヨットに乗って、瀬戸内海の遊覧列島へ出発した。 幸福な、そして豪華な生活に、私たちは暦を忘れて遊び廻った。が、このような生活もいつしか飽きを覚える時が来た。勘定してみると、丁度三ヶ月の月日が経っていた。そこで私達はどっちからいい出すともなくそれをいい出してこの島を離れ、元の古巣である都会へ引返した。 私は珠子と同棲するために新しい住居を見つけるつもりでいたところ、珠子はそれに反対だった。同棲するには準備もいることだし、旧居を片付けるためにも時間を要するから、大体あと五週間の余裕を置いてくださらないと訴えた。私は、五週間はちょっと永すぎると思ったが、折角珠子のいうことだし、それでよろしいと承知した。私達は、停車場の前で左右へ別れた。そしてそれ以来今日まで約二週間、私は珠子に会わないのである。 私としては、同棲はしないまでも、私が珠子を訪問することは彼女の歓迎するところであろうと思ったので、停車場前で別れたその翌日には、彼女を美蘭寮に訪ねたのであった。ところが、寮はあったが、彼女はそこにいなかった。いや、正確にいうと、寮の建物はあったが、寮の名が変っていたのだ。つまり寮は売られて、倉庫になっていた。倉庫の番人に珠子の移転先を聞いても、首を横にふるだけであった。私は失望を禁じ得なかったと共に、珠子に対して或る不満をさえ始めて感じた。 だが、私は帰途についてから、思いかえしてもみた。珠子から私へあてた移転の手紙が、今郵便局の配達員の手にあるのではないか。もう一日も待てば、その封筒は私の家へ届けられるのではなかろうか。 私は家へ戻って、ひたすらにその手紙の到着するのを待った。時間は遅々として、なかなか捗らなかった。私は縁側に出て日向ぼっこをしながら、郵便配達員の近づく足音を一秒でも早く聞き当てようと骨を折った。しかし私の望みはいつまで経っても達せられなかった。 私の気持は、段々と侘しくなっていった。まだ明日という日もあるものをと、自分を叱ってもみた。しかし侘しさは消えなかった。私は自分の脚の毛脛を――いや、これはあのとき売物を買って取付けたものであるが、今はこれが自分の脛の第二世となっている――それを撫でるともなしに撫で始めたが、侘しさが一層加わるばかりであった。この脚は、美しくてすらりと長かった私の前の脛とは全く異り、皮膚がいやにがさがさし、悪性のおできの跡が、梅干を突込んだような凹みを見せてそれが三つもあり、おまけに骨が醜くねじれていた。なおその上に良くないことに、今だにちょいちょい悪性のおできがふき出し、我慢のならぬ臭気を放つのであった。たった五千円ばかりのものだったから今になって贅沢をいえた義理ではないけれど、こうも悩まされるものと知ったなら、青春の方をもうすこし値段をねぎって、人並な脚を買うんだった。金さえあるなら今から良い脚を買い直してもいいのだけれど、残念ながら珠子との遊覧の旅にすっかり使い切って、実をいえば目下金策をあれやこれやと考慮中であるわけだ。 私が、この厄介な脛に膏薬を貼りかえているところへ、めずらしく鳴海が入ってきた。 「よう闇川。やっぱり帰って来たんだね」 鳴海はそういって、いつものように灰皿を探しあてると、それを持って私の前に胡坐をかいた。私は周章てて彼を叱り飛ばした。この第二世の脚を彼に見られたくなかったからだ。でも鳴海は、ふうんと呻ったばかりで、私の脚へちらりと一瞥を送り、あとは気にもとめていないという顔をした。 「珠子さんと一緒じゃなかったのかい」 「なにい……」 私は不意打をくらって蒼くなった。 「いや、機嫌を悪くしたら、勘弁したまえ。なあに、さっき珠子さんの後姿を見つけたもんだから……」 「えっ、どこで珠子を……。詳しくいってくれ」 鳴海はびっくりして暫く私の顔を見詰めていたが、 「君を興奮させるつもりはなかったのだ。H街を彼女は歩いていたよ」 「ひとりきりか。それとも連れがあったか」 「さあ……困ったなあ」 「本当のことをいってくれ。僕は今真実を知りたいんだ。珠子は他の男と歩いていたのだろう。その男は、どんな奴だったい」 私の険しい追及が、鳴海の返答をかえって遅らせた。でも結局彼は答えた。 「別に怪しい人物ではなかったよ」 「でも……どんな男だ、其奴は……」 「君の知っている人だよ」 「じらせてはいけない。珠子の連れの男は誰だったか、早くそれをいってくれ」 「いっても差支えなかろう。瀬尾教授だ」 「なに、瀬尾教授。あの、大学の瀬尾外科の主任教授である瀬尾先生か」 「そうだ。だから君は別に興奮しないでよかったのだ」 私はしばらく沈黙していた。そしてそのあとで呟いた。 「一体珠子は瀬尾教授なんかに何の用があるんだろう」 その理由は、見当がつかなかった。しかし珠子があれ以来私に対し行方をくらまし、音信不通の状態をとっていることから考えて、たとえ相手が瀬尾教授であろうと、それと肩を並べて歩いているということは、私にとって重大問題たることを失わないのだ。 「君は今、H街だといったな」 「おい、血相かえて何処へ行くんだ。待て、待てといったら」 私は鳴海の狼狽する声を後に残して、外に飛出した。行先はもちろんH街であった。 H街はひどく雑鬧していた。はげしい人波をかきわけ、或いは押戻されつして、私は何回となく求むる人を探し廻った。しかしその結果は、何の得るところもなかった。二人はどこかへ雲隠れしてしまったのだ。 まあいい。いずれそのうちに、二人は又このH街に現われるだろう。そのときこそ引捕えてくれるぞと、私は深く心に期するところがあった。そしてそれからは毎日のようにH街に出ばって眼を光らせた。 もちろん珠子からの手紙は、その翌日も、その翌々日も、それからずっと後になっても、遂に来なかった。またH街の監視も一向効果がなく、珠子たちの姿を一度も見付けることができなかった。 それから相当たっての或る日のこと、私の許へ一通の無名の書状が届けられた。私はそれと見るより、この書状の中に、私の求める重要なニュースが書きつけられてあるのを察することができた。 開封してみると、それは果して怪しい文書であった。全文は、邦文タイプライターによる平仮名書であった。その文に曰く、 “やみかわ、きちんど に けいこくする。こみや、たまこ は、きみのうつくしいあしを、わかみや、どんちき よりかいとった。そしてそのあしは、かのじょのかねてあいするおとこへささげられた。こんごゆだんをすると、とんでもないことになるぞ。はやみみせいより” 予感は適中した。珠子は私の脚を和歌宮先生から買取り、そして彼女が予ねて愛する男へ捧げられたという。今後油断をすると飛んでもないことになるぞ、早耳生――というのだ。 珠子にかねて愛する男があったとは、私の方で否定するわけには行かぬが、先頃遊覧中は、そんなことはおくびにも出さなかった珠子だった。そして今、私の大事にしていた脚を彼女が買取ってその男に捧げたとは何たる事か。私に脚を売払えとしきりに薦めたのは余人ならず珠子であったではないか。そして私に売却させて置いて、後でそれを自分で買取って予ねての愛人への贈物にするとは、実に許しがたい暴状である。 それにしても、彼女の予ねて愛する男とは何者であろうか。彼は今、珠子から私のあの美しい脚を贈られてそれを移植し、いい気持になっているのであろう。何と私は莫迦者あつかいされたことか。ああ、それで読めた。外科手術の大家たる瀬尾教授と彼女が並んで歩いていたのも、その脚の移植手術を教授に頼んだものに違いない。 私は憤激の極に達した。時間の推移と共に、私の頭は痛みを加え、胸は張りさけんばかりになった。 (このまま見逃すことはできない。何が何でもその男を引補え、珠子に思い知らせてやらねばこの腹の虫がおさまらない!) 私は遂に復讐の鬼と化した。
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