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なにがさて、気の短い金博士のことであるから、身の危険も、相手方の思惑も考えないで、その足でつかつかと某国大使館の玄関から押し入ったものである。 「大先生は居られぬか。王水険大先生のお部屋はどこであるか。只今金博士が推参いたしましたぞ」 とうとう王水険大先生が朝寝坊の居間が、金博士自らの捜索によって発見せられた。 「やややや、お前は金か。お前の来るのは、まだ二三日先だと思って油断をしていたが、やややや、もう来たか」 王大先生は、喜ぶより前に、愕き且つ呆れてしまった。 「大先生、おなつかしゅうございますな。ところで、この某国大使館では近々先生の馘るという話を御書面で承知しましたが、けしからんですなあ。私がこれから某国大使に会いまして、それを思い停らせましょう」 「いやなに、それには及ばないよ。どうせ仕方がないのだもの」 「仕方ないなどと、今の積極時代に引込んで居られることはありません。私が大使に強談判をして……」 「いや、そんなことをしても無駄じゃ。わしが馘になるだけではなく、大使自身も馘になるのだ。大使ばかりではない。参事官も書記生も語学将校も園丁もコックも、みんな馘になるのじゃ」 「はて、それは一体どういうわけ……」 「早くいえば、この大使館の本国が亡びるのじゃ。ドイツ軍は、もう間近に迫っている。だからこの某国大使館も解散の外ないのである」 「はあ、そんなことでしたか。しかしこれだけ立派な建物を空き家にするのは惜しい。大先生、私この建物を買ってもいいですよ。全く惜しいものだ」 と、金博士はあたりをきょろきょろと見廻す。そのときベッドの下から大先生の袖を引く者があった。 「おッ」 その怪しげなる袖引き人間は、外でもなく油断をしてここにベッドを並べて止宿中の醤買石委員長であったのである。 「……金博士に見つかればたいへんです。私を窓から逃がして下さい」 醤は泣き声になって、王大先生に囁く。 「よろしい、わしの手を見て、早いところをやれ」 と大先生はベッドの下と連絡をとって、やおら金博士の方へ向き、 「天井のあそこにある彫刻な、あれは中々古いもので、純金だよ。よっく御覧!」 「へえ、あれがね」 金博士を向く、王大先生はお尻のところで手を振る。とたんに硝子窓が大きな音をたてて跳ねかえった。 「あ、あれは何の音?」 金博士の顔が、さっと緊張した。 「あははは、今のは猫がとび出したのじゃ」 「あれで猫ですか。へえ、おどろきましたな。○○の猫は、ずいぶん大きくて人間ぐらいの大きさがあると見えますなあ」 金博士は、大真面目でいった。 窓からとびだした醤は、そのとき運悪く柊の木の枝にひっかかり、顔も手足も血だらけにして歯をくいしばっていたが、金博士の声を耳にしてびっくり仰天、狼狽する途端に、すとーんと地面へ落ちて、いやというほど腰をうちつけた。それでも彼は助かりたい一心で、膃肭獣の如く両手で匐って、そこを逃げだした。 「とにかく金よ、お前も長途の旅行で疲れたろう。この寝室を貸してあげるから、ゆっくりひと寝入りしなさい。その間に、われわれは万端の用意を整えることにするから」 「はあ、大先生、お構い下さいますな。どうぞ大袈裟な用意などなさらぬように……」 「まあいい、この部屋は静かだから、よく睡れるだろう。では、おやすみ。夕刻になったら起してやろう」 「はあ、恐れ入ります」 王水険先生は、自室を金博士に譲って、そこを出ていった。そして戸口を出るとき、そっと外から鍵をかけることを忘れなかった。こうして金博士を缶詰にして置いて、遅まきながら万端の用意にかかれば夕方までにはこの大使館の始末機関はすぐ使えるようになるだろう。 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、後から呼ぶ者があった。それは余人ではなく、松葉杖をついた醤だった。 「おや、お前、足をやられたか」 「はあ、柊の樹から落ちたものですから。ところで大先生、あいつは何をしていますか」 「ああ金のことか。金は今わしたちの部屋で旅の疲れを癒すため、一寝入りさせているよ。実は早いところ空気中に睡眠薬をまいて置いたから、金のやつはもう二十分のちには両の瞼がくっついて、それからあと正味六時間は、死んだようになってぐうぐう睡ることだろう」 「ああそうですか。それは手間が省けていい。じゃあこの大使館の始末を借りるまでもなく、余自らが彼の寝室に忍びこみ、余自らの青竜刀を以て、余自らが彼の首をはねてしまいましょう」 「そうするか。わしのためには、可愛いい弟子だったが、悪に魅られた今となっては、泪をふるって首を斬ることにするか。おおもう四十分経った。金のやつ、ぐっすり寝こんでいる頃じゃ」 醤にうまくいいくるめられている王水険大先生は、最高の善事をするつもりで、醤を引具し、窓下に高梯子をかけ、それをよじ登って、窓からそっと金博士の様子を窺ったのである。 ところが、寝台は空であった。もう一つの寝台も空であった。 「おや、金のやつ、さては逃げたな」 とうとう取逃がしたかと、残念そうに両人が室内を睨んでいると、ふと目についた物がある。それは一台の小型タンクであった。 「ありゃ、あんなところに、変なものがあるぞ」 「小型タンクなど、誰が持って来たのでしょう」 両人は、不思議に思って、窓から忍びこむと、部屋の真中に置かれてあるタンクに近づいた。 そのタンクは、扉を開こうとしても開かなかった。ただタンクの上に貼紙がしてあった。 「午後四時までこの中にて熟睡する故、何者もわが熟睡を妨ぐるなかれ。金博士」 と書いてあった。金博士は、このタンクの中に睡っているのか。そういえばなるほど、どこからか、大きな鼾が聞えてくる。 醤と王水険大先生とは、さすがにタンクには手が出しかねて、すごすご退却のほかなかった。だが御両人とも、まさかこの小型タンクが例の金博士の三個のトランクによって構築されたものだとは気がつくまい。金博士の鼾の音は、このとき一段と高くなった。
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