迷宮入りか
かわいそうな万国骨董商チャン老人殺しのニュースは、たちまちこの港町のすみずみまでひろがった。 「なんというむごたらしいことをする犯人だろう。あの老人は家族もなく、さびしく小鳥と住んで、あの店をやっていたのに、ああ気の毒だ」 老人を見知っている人々の中には、こういってその死をいたむ者もいた。 「チャン爺さんは、あれでそうとうなもんだよ。こっちが売りに持っていった品物は二束三文に値ぎりたおす。それをあとで磨きにかけて、とほうもない高値で、外国人などに売りつけるんだ。足もとにつけこむのは、得意中の得意さ。あんまりもうけすぎるから、こんどみたいな目にあうんだ」 そういって、にくまれ口をきく者もいた。 「いや、それは商売上手というものだ。そんなことでなにも爺さんは殺されることはないんだ。ああして殺されたのは、爺さんがひどいことして集めた宝石の中に、おそろしい呪いのかかっているダイヤモンドがあったんだ。それは元、インドの仏像のひたいにはめこんであったのを、ある悪い船のりがえぐり取って、盗んでいった。そしてそれをチャン爺さんに売りつけた。するとインドの高僧が船のりに化けてはるばる取返しにきたんだ。爺さんはすなおに返さなかったもんだから、あのように、えいッと刺し殺された」 「ちがうよ。ピストルで撃たれたんだ」 「あ、ピストルか。ピストルでもいいよ」 「ほんとかい、その話は」 「つまり、そうでもあろうかと、わしは考えたんだがね」 「なんだ。ひとが事件に熱中しているのをいいことにして、うまくかついだね」 「とにかく、あの爺さんは、叩けばほこりがでる人物だ。犯人は永久に分らないよ」 たしかにそのとおりで、犯人の目星がさっぱりつかないので、この事件を担当している、秋吉警部はいらいらしていた。 彼は、チャン老人の絶命の三十分あとへ現場へついて、さっそく捜査の指揮をとったのであるが、血の流れている店内は、事件発見者の少年のしらせで駆けつけた近所の人たちによって、すっかり踏みあらされていた。犯人をつきとめるための証拠が、これではつかめない。警部は困ってしまった。 それに、チャン老人は、店内にひとり住んでいたので、当時の店内の様子を証言する者がいなかった。向う三軒両隣はあるけれど、今日はチャン老人が殺害されると分っているなら、老人の店に出入りする人物に注意を払っていたであろうが、そんなことはあらかじめ分っていなかったので、誰も正確に出入りの人物を証言する者がなかった。おそらく犯人は、そういう事情をのみこんでいて兇行したのであろうと、秋吉警部は考えた。 店内をしらべて、何が盗み去られたかを調査した。 その結果が、またはっきりしないのであった。なにしろたくさんのこまごました物がある。その品物の目録などはなかったから、何と何とがなくなったんだか分らない。 金庫は閉っていた。この中を調べたが、これもまたはっきり分らない。金庫の中には、日本の紙幣やアメリカの紙幣などがしまってあった。これだけが有金全部であったのか、それとも犯人はその一部を盗んでから、金庫を閉めて逃げたのか、どっちとも分らなかった。 かれ秋吉警部には興味のないことであったが、読者には興味のあることがらを、ここで一つ述べておこう。それはアメリカの紙幣で千二百ドルがそっくりそこに残っていたことである。これは犯人がどういう種類の人物であるかを判断するのに、一つの参考となる。――秋吉警部は、気の毒にも、そのような資料をつかむ機会にめぐまれていないのだ。 そこで警部の注意力は、もっぱらチャン老人の致命傷と彼の死んでいた場所とその身体の恰好にそそがれた。 ピストルで心臓のまん中を見事に撃ちぬかれたのが、老人の死因だった。老人は声もたてずに死んだのであろう。 ピストルは老人の胸に向けられ、その銃口は老人の服にぴったりとふれていたにちがいない。その状況で、ピストルは発射されたのだ。だから銃口のあたっていた服には穴があいており、その穴のまわりの服地は、焼け焦げになっていた。 ピストルの弾丸は、背中をうちぬき、うしろの壁かざりをつきぬけ、壁にめりこんでいた。それを掘りだして調べてみたところ、そのピストルは、よく普通に見かけるブローニングやコルトのものではなく、口径のずっと小さい特殊のものだった。それは多分ピストルの形をしないで、他の物品に似せて作ってあるもののように思われた。たとえば万年筆の形をしたピストルだとか、扇子の形をしたピストルだとかを、暗殺者はよく持っているが、そんな風なものにちがいない、そういう物品に似せるためには、どうしても弾丸の口径を細くしなければならない。自然、火薬も少量しか使えないので、そういうピストルは、殺す相手の身体にぴったりとつけて発射しないと、弾丸が身体の中へはいらない。 「犯人は、只者じゃない。チャン爺さんを殺すことなんか、鶏の首をしめるほどにも感じなかったんだろう」 警部は、そう思って慄然とした。 老人は、帳場の台をへだてて、客と向いあっていたらしい。それから老人は、奥へゆこうとして身体をすこし曲げた。そのときすばやく犯人が握っているピストルが老人の心臓を服の上からねらい、直ちに引金がひかれたのにちがいない。老人の死顔には苦悩のあとも恐怖の表情もなく、おだやかな顔であった。そしてそのままそこに倒れると傷口からは血がとめどもなくふきだし、ついに店前まで流れていったのだと思われる。 それから犯人はどうしたか。それがさっぱり分らない。何か目星をつけてきたものがあって、それを取出して、すばやく逃げうせたものか、それとも老人を斃しただけで、すたこら逃げだしたものか、なんとも分らない。このへんで秋吉警部の捜査はゆき詰ってきたのであった。 しかたがないので、警部は、各署や水上署までに通告して、チャン老人殺しに関係あるあやしい人物があったら知らせてもらいたいとたのんだ。こんな方法では、運をたのむようなものだ。しかし証拠物が集らないし、事件の目撃者もあらわれないのだから、こんなことでもする外なかった。 水上署には、外国船員にも気をつけてくれるように特に依頼した。だが、外国船員にあやしい者があっても、これを検挙するまでに持っていくことは容易なことではなかった。 秋吉警部はだんだんやつれていった。そして事件は迷宮入りらしく思われてきた。 もしも、チャン老人が殺される日、あの店をたずねた客たちが名のってでるなら、警部は有力な手がかりをつかんだであろう。しかし誰も名のってでるものはなかった。むりもない。かかりあいになるのを恐れてのことだ。
金谷先生しゃべる
海岸通り横丁の老骨董商殺しのニュースは、その翌朝には、新聞記事になっていた。 春木少年や牛丸少年の組をあずかっている金谷先生も、この新聞記事を読んだ。そしてすぐ気がついた。 「ははあ。あの店だ。昨日飾窓をのぞきこんだが、金貨の割れたのを、れいれいしく飾ってあった、あのがらくた古物商だ。 あの家の主人が殺されたんだな。それを分っていれば、もっとよく顔を見ておくんだったのに」 と、先生はすこしばかり残念であった。先生は登校すると、この話をとくいになって教員室にしゃべり散らした。 「白いひげを長くたらした爺さんなんですよ。いかにも小金をためているという風に見えましたね。そういえば、福々しい顔なんだけれど、どことなくきついところがあったな。やっぱり自分の悲惨な運命が、人相にあらわれていたんですよ」 こんな風に話すものだから聞き手の先生がたは、もっとくわしいことを聞きたがった。 「いや、それだけのこと。ぼくは、中へはいって見ようかと思ったんですが、連れの立花先生がいやな顔をしているので、それはやめましたよ。あのときはいっていれば、もっと諸君におもしろい話ができたんだがなあ」 金谷先生がそういうと、聞手の先生たちはみんな笑った。 そこへ立花先生がはいってきた。 「まあ、みなさん、なにをそんなにおもしろがっていらっしゃるんですの」と、にこにこしてたずねた。 「あはは。金谷先生が、例の殺されたチャンという万国骨董商の店を、昨日のぞいたというんです」 「まあ、いやなことですわ」 と、立花先生は、美しい眉をひそめた。 「金谷先生は、あの店主が殺されると分っていたら、店の中へはいって、しげしげと見てくるんだったなどというもんだから、みんなで笑っていたところなんです」 「気味のわるいお話は、もう聞きたくありませんわ」 「金谷先生のいうことに、連れの立花先生がうしろにこわい顔をして立っているものだから、ついにはいるのをあきらめたといってますよ」 「えッ」と立花先生はかたい顔になって金谷先生の方に向き直ったが、すぐ顔を和げ、 「金谷先生。よけいなおしゃべりをなさるものじゃありませんわ。かかりあいがあると思われて、警察へひっぱりだされるようなことがあったら、つまらないじゃありませんの」と、かるくたしなめた。 「まいった。これは一本まいりました。今までのおしゃべりは取消しだ」 と、金谷先生はすっかり悄気てしまった。それがまたおかしくてたまらないと、同僚たちは腹をかかえて笑った。 金谷先生は、てれくさくなって、ひとりその座を立って、運動場へでていった。運動場では、早く登校した生徒たちが、元気にはねまわっていた。 「金谷先生」先生は、自分の名前をよばれて、はっとわれにかえり、その方を見た。 四人の少年が、そろって、前へ近づいた。その中には春木少年の顔が交っていた。その外に、小玉君、横光君、田畑君の三少年がいた。 「どうしたの。いやに改まっているね」 と、金谷先生が受持の学童の顔を見まわした。 「先生。ぼくたち四人は、少年探偵団を結成しようと約束したんです。それで、先生に少年探偵団の顧問になっていただきたいのです」少年たちの話は意外な申入れだった。 「少年探偵団だって。それはいったい、なんの目的で結成するのかね」 「まず第一の目的は、ぼくたちの級友である牛丸君を一日も早く救いだしたいことです」 「それは警察がやってくれる。君達が手をださないでもいい」 「でも、警察だけにまかせておけないと思うんです。なにしろ、今になっても、警察はすこしも活動をしてないようですからね」 「それは相手が手ごわいから、準備のためにそうとう日がかかるんだろう。君たちがでかけていってもだめさ。相手が強すぎるからね。返り討ちになるよ」 先生は、少年たちが、きっと落ちこむにちがいない悪い運命を思って、その企に反対した。だが、少年たちは、そんなことでは尻ごみしなかった。春木少年は、言葉をつづける。 「第二の目的は、世界にまれな宝さがしに成功することなんです」 「なんだって。世界にまれな宝さがしとは……」 「先生。牛丸君がかどわかされたことも、実はこの宝さがしに関係があると思うんです。そしてほんとうは、ぼくが連れていかれるはずのところ、賊はまちがって牛丸君を連れていったんだと思うんです」 「君のいっていることは、さっぱりわけが分らない」 「それはこの事件のはじまりからお話しないと、お分りにならないのです。実はこの前、牛丸君とぼくと二人でカンヌキ山へのぼりましてねえ……」と、それから生駒の滝の前で戸倉老人にめぐりあい、黄金メダルの半かけと絹地にかいた説明書をもらったことから、メダルを失ったことまで、残りなくすべてのことを金谷先生にうちあけた。 先生はおどろいて、はじめは「ほう」とか「おもしろいね」といっていたのが、終りには腕をくみ、身体をかたくして、「ふん、それからどうした」とか、「それはたいへんだ。で、どうした」とか、さかんに力んでたずねた。 「これが焼け残った絹のハンカチの一部です」 と、春木少年が金谷先生の手にそれを渡したとき、先生の緊張は頂点に達した。 「なるほど。これはほんものだ。えらいことになったものだ」 先生はそこで頭をひねって、しばらく沈黙したが、やがてあたりへ気をくばり、低い声でいった。 「春木君。先生は昨日、君がとられたという黄金メダルの半ぺららしいものを、海岸通りの横丁の骨董店の飾窓の中に見かけたよ」 「ええッ。先生、それはほんとうですか」 「ほんとうかどうか、とにかく君が今話をした三日月形の黄金メダルというのによく似ていた。君の話では、お稲荷さんのお堂に住んでいた男が、あの店へ売ったんじゃないかな」 「あッ、それにちがいありません。先生、その店はなんという店ですか。どこにありますか。教えて下さい。これからぼくはすぐいって、取返してきます」 こんどは春木少年の方が、大昂奮してしまった。 「待ちたまえ、春木君。その店の老主人は昨日何者かのためにピストルで殺されてしまったんだよ。今朝の新聞を見なかったかね」 「ああッ。そうか。すると今朝の新聞にでかでかと大きくでていたチャンフー号主人殺しというのはこの店ですね」 「そうなんだ。だからね、今はその筋で殺害犯人を見つけようと鵜の目鷹の目でさがしているから、君なんかうっかりいくと、たちまち捕えられて、容疑者になってしまうよ。そしたら、いつ娑婆へでてこられるか分りゃしない」 先生がおそれるわけは、もっともであった。しかし春木少年は、警察にこの話をしてもいいと思った。そして店の飾窓にあったその黄金メダルを、自分にかえしてもらうには、早く話をした方が有利だと考えた。 この考えを話すと、先生は困ってしまった。 (しまった、とうとうまたおしゃべりをしすぎた。さっきあんなに立花先生からいましめられていたのに、それを忘れて又しゃべった。下手をすると、自分は参考人か容疑者として警察へ引っぱられるかもしれん。これは困ったことになった)先生の悄気かたはひどかった。
きびしい尋問
「頭目。いったいどこへいってたんです。この二日というものは、頭目を探すので、大骨を折りましたぜ。しかも連絡はつかないじまい。骨折り損のくたびれもうけです」 四馬剣尺が、どっかと腰をかけた頭目台の前へいって、この山塞の番頭格の木戸が、うらみつらみをのべたてた。木戸は、よほど骨を折ったものと見える。 「ふふン」四馬は、かるく笑っただけであった。 「こんどからは、なんとかたしかな連絡の道を用意しておいていただかないと、万一のときにわしは、この山塞を持ち切れませんよ」木戸は久しぶりに腹を立てているらしい。 「大丈夫だ。万一のときは、おれがとびこんでくるから、心配はいらねえ」 「こっちから知らせたいことがあっても、それができないとすれば、結局頭目の大損害じゃないですか」 「すると、なにかおれに知らせたいことがあったんだな。それは何だい」 「わしではないんです。机ドクトルが、何か見つけてきたんです。それが三日前のことで、ドクトルは町へいったんです」 「ふーン。三日前のことか」 頭目は、ベールの中で、日を逆にかぞえているようであった。 「チャンフー殺しのあった日のことだな」 「そうです。あの日の午後、ドクトルは息せき切ってここへ戻ってきましてな、『頭目はどこにいる』と食いつくようにいうんです。どうしたのかと訊くと、『一刻も争うことだ、頭目の耳に入れたいことがある』という。なんだと聞きかえすと、『黄金メダルの半ぺらが、海岸通りのある店の飾窓に売りにでている』というんです。わしはおどろきましたね」 「それからどうした」頭目は気色ばんで、その先の話をさいそくした。冠の下のベールがゆらゆらと動く。 「それから頭目探しです。みんなをかりたてて、あらゆるところを探しまわりましたね。ところがだめなんです。机ドクトルからは、『まだか、まだか』と、きついさいそく。困りましたね。それで三日間、得るところなしです」 「ばかだなあ。そんなものが見つかれば、なぜすぐに買いにいかないんだ」 「おっと。それはいわないことにしてもらいましょう。この山塞では、四馬剣尺頭目が命令しないことは何一つ行えないきびしいおきてになっているんです。これは頭目、あなたが作ったおきてですよ」 「よし、そんならよし。じゃあ、机博士をここへ呼んでくれ」 「はい」木戸がでていくと、やがて机博士がいれかわって細長い身体をこの部屋にあらわした。彼は木戸とちがって落ちつきはらっていた。頭目の前までいって、卓をへだてて、四角い椅子に腰を下ろした。 「ご用ですかな」 「今、木戸から聞いたが、三日前に、海岸通りのある店で、黄金メダルの半ぺらを見つけたって」 「偶然に見つけましたよ。さっそく頭目に知らせようと骨を折ったんですが、残念にも、頭目に運がなかったな」 「本物かい」 「さあ、私は本物と鑑定しましたね。それも頭目がこの間まで持っていた半ぺらではなくて、その相手になる半ぺらでしたよ。三日月形をして、骸骨の顔が横を向いているようでした」 「お前は、それを手にとってみたのか」 「手にとってみましたとも。万一、にせ物では頭目に知らせてお叱りをこうむるばかりだから、掌にのせて比重をあたってみました。たしかに純度の高い黄金でできていることにまちがいなし。そこで値段を聞いたら、三十万円というんです。その因業爺のチャンフーという主人がね」 「三十万?」頭目はちょっとことばをとめたあとで「三十万円にちがいないか」 「ちがいなし。しかしなぜ頭目は、そんなことを聞くんです」 「とほうもない高値だから」 「ふふン」と机博士は、けいべつをこめた笑い方をして、 「しかしこれが例の宝庫へ連れていってくれる案内者なんだから、三十万円はやすいと思うがなあ」 「あの店の商品としては高すぎるんだ、そして君はどうした」 「どうしたもあるもんですか。さっそく山塞へかけ戻って、頭目に知らせるよう大さわぎを始めたんです。いったい頭目は、どこへいったんです」それに答えないで、頭目はぴしゃりとことばを机博士に叩きつけた。 「お前は、チャンフーの店前で、なにか手品をやりゃしなかったか」 「手品ですって。とんでもない。私は、手術ならやりますが手品はやりませんよ」そういって机博士はうそぶいた。 二人の間に、しばらく沈黙があった。 と、とつぜん博士は口を開いた。 「チャンフーを殺したのは私じゃありませんよ。あんな老ぼれを殺す理由なんか、私にはありませんからね。……それより頭目。早くあの店へいって黄金メダルを持ってきたらどうです。頭目が今まで持っていたのは猫女に奪われちまったんだし、さびしいですからねえ。あれが一つ手にはいれば――」 「やめろ。あの店にはもう黄金メダルはないんだ。チャンを殺した犯人が持っていったのか、それとも……」 「それとも」 「まあ、それはいうまい」 「頭目。はっきりいって下さい。私が盗んできたとでもいうのですかい」 「おれは知らない。今日までかかって、いろいろと調べたが、手がかりなしだ」 頭目は、いつになくがっかりした調子でいった。
監房生活
その後、牛丸平太郎少年は、監房の中におしこめられたままになっていた。あれ以来一度も頭目の前にもひきだされないし、またその手下のためいじめられもしなかった。むしろ牛丸少年は、山塞の人々から忘れられたようになっていた。 たいくつで、やり切れない牛丸少年であった。三度の食事が待ちどおしかった。その食事は、口がきけず耳のきこえない男が、きちんきちんとはこんでくれた。「小竹さん」と呼ばれることもあった。 とにかく小竹さんが顔を見せてくれるのが、牛丸少年にとって、一日中の一番うれしいことだった。少年は小竹さんに対し、親しみの表情を示したが相手の小竹さんにはそれが感じられたことはない。いつも寝ぼけているような間ぬけ顔であった。牛丸少年は、たいくつに閉口しながら、一つの願いを持つようになった。それはいつか頭目の前へいっしょに呼びだされた戸倉老人と、話しあうようになりたいという望みであった。 あの老人も、たしかにこの地下牢のどこかの一室におしこめられているはずだった。それはいったいどこだろう。そしてどうしたらあの老人と連絡がとれるだろうか。牛丸少年はそれを宿題として考えはじめると、すこしもたいくつでなくなった。ただし、この宿題の答は、かんたんにはでてこなかった。 「戸倉老人の監房は、もう一階下にあるんだな」やっとこの答が少年の頭の中に浮かんできた。それは小竹さんが食事をはこぶときの行動で、それと察したのである。 なぜかというと、小竹さんが食事を持ってくるときは、それを手さげ式の金属製の岡持に入れて持ってくる。そして牛丸少年の監房の前に止まって、食事をさし入れる。それから小竹さんは、ずんずん奥へ歩いていくが、小竹の足音と岡持のがちゃがちゃ鳴る音が、やがて階段を下っていくのが分る。それから五分ほどすると、小竹さんは引返してきて、牛丸の監房の前を通りすぎる。これによって考えると、戸倉老人は、もう一階下の監房に入れられているらしい。 (一階下にあのおじさんが入れられているんだったら、ぼくと話をするのはちょっとむずかしいことになる) 少年は、ざんねんに思った。 しかしなにかうまい方法を考えつくかもしれないと、その後も頭をひねって、監房の前の交通に注意を怠らなかった。 机博士が、朝早く一度、前を往復する。しかし牛丸少年のところへは寄らない。どうやら博士は、階下の戸倉老人を診察にゆくように思われる。老人は、ずっと身体がよくないのであろう。ある日の夕方、食器を下げるために、小竹さんがまわってきた。いつものように頬かぶりをし、その上にうす茶色の、かたのくずれた鳥打帽をのせていた。彼は、監房の鉄格子をとんとんと叩いて、牛丸少年に早く食器をだせとさいそくした。 牛丸は、食器を両手に持って、入口までいった。そして鉄格子の向うに待っている人物と顔を見あわせて、おどろいた。 「しいッ」相手は、唇へ指を立てて、しずかにするようにと注意した。頬かぶりに鳥打帽の姿はいつも見なれた小竹さんの姿だったが、顔はちがっていた。ひげだるまのような戸倉老人であったではないか。 「あッ、あなたは、どうしてここへ……」 「しずかに、わしは君に聞きたいことがあって、危険をおかしてここへやってきた」 と、老人はそれから岡持を床へおき、顔を鉄格子につけて早口で牛丸君に話しかけた。そのときの話は、主に春木少年のことであった。だが老人は、彼が春木に渡した黄金メダルのことについては一言もいわなかった。老人の知りたいのは、春木君の安否であったようである。 だが老人は、牛丸少年の話から考えて、春木少年の身の上に危険があることを悟った。それで春木君に警告するために、なんとか方法を考えたいと、これは牛丸君にも話した。 「ぼくをここから逃がして下さい。そうすればきっと春木君に、あなたの言伝をつたえます」 牛丸はそういった。老人は考えておくといい、その場を去った。彼は奥へ引返し、そして階段を下りていった様子である。 それからしばらくすると、彼はもう一度牛丸の監房の前へやってきた。だがそれは戸倉老人ではなく、本物の小竹さんであった。 牛丸は、おやおやと思った。そして疑問が一つ、ぴょんと湧いてでた。 (おかしいぞ。戸倉老人は、この口がきけず、耳のきこえない小竹さんに、どういう方法で話を通じて、小竹さんに変装することを承知させたのだろうか) 全くふしぎなことだ。 ひょっとすると、小竹さんは、わざとよそおっているのではあるまいか。そう思った牛丸少年は、空になった食器を渡しながら、小竹さんに話しかけた。すると小竹さんは、首を左右に振り、耳と口とを指さし「自分は口がきけず耳がきこえない」と身ぶりで語って、すぐ立ち去った。 「ふーン。やっぱり小竹さんは、ほんとに口と耳が不自由なのかしら」 牛丸少年は、ため息をついた。 その後も、牛丸はしんぼうづよく、毎回小竹さんに話しかけた。だが小竹さんの態度は同じことであった。 ところが、それから三日目に、思いがけないことが起った。 それは夕食後、小竹さんが食器をあつめにきたときのことだった。牛丸少年が、食べ終ったあとの皿二枚とスープのコップとを、小さい窓口から小竹さんに渡そうとしたとき、あッという間に皿は牛丸の手をすべって――いや、牛丸少年は皿を小竹さんに渡し終ったつもりだったから、手をすべらせたのは小竹さんの方であろう――皿は少年の監房の床に落ちて、小さな破片になってとび散った。牛丸は青くなった。今にも小竹さんから、すごい形相でにらみつけられて怒られるだろうと思った。 小竹さんは、そうしなかった。彼はかぎをだして、監房の戸を開いた。そしてしずかに中へはいって、破片をひろいだした。破片を岡持の中へ拾っているのだった。牛丸はおだやかな小竹さんの態度にますます恐縮して、彼もまた一生けんめいになって破片を拾った。 しばらくしてそれは終った。小竹さんはそのまま立ち上り、外へでた。そして入口に錠をかけりて立ち去った。その小竹さんのおだやかさに、牛丸は始めたいへんに叱られると思っていただけに非常に意外で、小さい窓口から小竹さんのうしろ姿を見送っていた。 そのときであった、彼はうしろから、かるく背中を叩かれた。 [#底本では1字下げしていない]おどろいた、このときは! この監房には自分の外に誰もいないのだ。だから少年はびっくりして、その場にとびあがったのだ。ふりかえった。 「あッ」 「しずかに!」白いきれを頭からすっぽりかぶり、すその方まで長くひいた怪物が、子供の声をだした。その白いきれがとれ、中から少年の顔がでた。 「あッ、春木君!」 「牛丸君。よくぶじでいてくれたね」 「ぼくを助けにきてくれたんやな。こんなあぶないところへ、よくきてくれたなあ」二人は、ひしと抱きあい、頬と頬とをおしつけて涙をとめどもなく流した。 どうして春木少年は、このおそろしい山塞にもぐりこんだのか。また、小竹さんが、なぜ春木少年を、そっとこの監房の中へすべりこませたのか。 そのような春木少年の冒険ものがたりは、その夜くわしく、牛丸君に語られた。 また、牛丸君の家がその後、どうなっているかということや学校の話、警察の話、チャン老人殺しの話など、春木君が牛丸君のために話してやることは多かった。 牛丸君の方でも、この山塞に連れてこられてからこっちのことについて語ることが少くなかった。 それらのことがらの中で、読者がまだ知らない話をここで述べたいのであるが、今はそれができない。というのは、今ちょうど、机博士の身の上におそろしい危難が迫っているからである。その方を先に記さなくてはならない。
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