素晴しき報告
その翌日午前十時に、裁判医古堀博士の報告が行われた。場所は捜査課の会議室で、帆村荘六もその席に列していた。 「昨日もちょっと申したように、旗田鶴彌の推定死亡時刻は前夜の午後十一時半前後。死因は心臓麻痺であり、ピストルの弾丸は彼が息を引取ってから後に撃ち込まれたものである。これは始めから分っていた。ピストルで殺したにしては、創口からの出血量が少かったからねえ。それから心臓麻痺の問題であるが、これは剖検で確認した。しかし当人の生前の健康状態は頗る良好で、年齢の割に溌剌としていて、心臓麻痺を起しやすい症状にあったとは思われない……」 緊張して聞いていた一座の中に、帆村の唇が笑いを含んでぐっと曲った。それは彼が、「それ見たか」というときにする癖だった。 「そこで心臓麻痺の原因がどこに在ったかという問題になるが、わしにははっきり分らない。どうしてあのような強い心臓麻痺が、あの肉体に起ったか分らない。これじゃ何が裁判医だ。まことに汗顔の至り……」 古堀博士は大真面目[#「大真面目」は底本では「大真面白」]で、ぺこんと頭を下げた。これには一同が愕いた。古堀博士が仕事のことで頭を下げたのは、始めて見る図だったから。 「尤もわしは昨日以来、この問題に深い興味を持って研究を開始している。屍体は当分わしの手許に預って置く。報告すべき主なことは以上だ。あとは質問があればお答えする」 博士は腰を下ろし、誰かの質問を待つ心構えで、天井を見上げた。 「当人の病気以外には、どんな場合に心臓麻痺を起しますかねぇ」 長谷戸検事が真先に質問の矢を放った。 「中毒による場合、感電による場合、異常なる驚愕打撃による場合……でしょうな」 「旗田の場合は、その中のどれに該当するのか、カテゴリーだけでも分りませんか」 「感電ではない。もし感電であれば、電気の入った穴と出た穴との二つがなければならず、また火傷の痕がなければならぬ。そういうものはない。だから感電ではない。従って他の二つの場合、すなわち中毒に原因するのか、或いは異常なる驚愕等によるものかどっちかでしょうな」 「そのどっちだか分らんですか」 「分らんねえ。研究の結果がうまく出れば分るかもしれん」 長谷戸検事は、小さく肯いて、心の中に何かノートをとるらしく見えた。 「ちょっと伺いますが」 と大寺警部のきんきん声がした。 「ピストルの弾丸が頭の中に入った時刻と、死んだ時刻との差はどの位だか分りますか」 「あまりはっきり分らんね」 「大体何時間ぐらい後になりますか、ピストルの弾丸を喰らったのは……」 「何時間というような長い時間じゃない。極く接近しているよ。一時間前後という所だ」 「すると、死んだのは十一時半、ピストルの弾丸を喰ったのは零時半という訳ですね」 「そんなところだ」 古堀博士はぶっきら棒に応えた。 「解剖の結果、胃の中にあった食物の一覧表は出来ていますね」 検事が、もう一度発言した。 「それは先刻、書記へ渡しておいたがね」 「いや、そんなものは頂きませんですよ」 色の真黒な書記が、すっくと突立って打消した。 「そんな筈はない。ちゃんとわしは書いて――ああ、あった。ポケットの中に残っていた。これじゃ」 博士は笑いもせず、内ポケットから、皺くちゃになった紙片をつかみ出して、机の上へ放り出した。くすくすと笑う者があった。その胃内容物一覧表は、長谷戸検事の手に渡って、拡げられた。帆村は立上ると検事の背後へ行って、その表を熱心に覗きこんだ。 「もう質問はないかな。なければ帰るよ」 博士はもう腰を半ばあげた。誰も博士を停める者はなかった。博士がパイプに火を点けて、この部屋を出て廊下を五足六足歩いたとき、帆村が追って来て博士を呼び停めた。 「先生、あれはどうなりました」 「あれとは何じゃ」 「鼠です。鼠を解剖してご覧になりましたか」 「おお、そのこと……解剖はした。解剖はしたが、はっきり分らない。人間の心臓麻痺は一目で分るが、鼠が心臓麻痺したかどうかはちょっと分らんのでね。そのことも実は研究題目の一つにして、今やっているところだ」 「流石は先生ですね、大いに敬意を表します」 「何じゃと……」 「いや、つまり先生が、鼠を解剖して、やはり心臓麻痺かどうかを調べられたその着眼点のよさですね、それに敬意を――」 「わははは、何をいうかい」 と博士は破顔して 「今日中に分るだろうから、分ったら君の事務所へ知らせてやるよ」 博士はこの約束を果した。 その日のお昼のすこし前、帆村が旗田邸に居ると、事務所から電話がかかって来た。出てみると、八雲千鳥が当惑し切ったという旨で、 「さっきお電話が先生にありましたんですけれど、いくらお聞きしても自分のお名前を仰有いませんの、そしてただ先生に、“鼠も心臓麻痺じゃ”と、それだけを伝えてくれと仰有いましたんですけれど、何のことだかさっぱり分りません。ひょっとしたらその方は気が変ではないかと……」 「いや、分ったよ、八雲君。それは素晴らしい報告だ。鼠も心臓麻痺で死んだとね。いや全くそれは素晴らしい報告だ」 八雲千鳥は、帆村先生にも気が変になることが移ったのではないかと思い心臓をどきどきさせたことだった。
再出発
その日の午後になって、旗田邸へ検察係官は参集した。その朝の古堀裁判医の報告によって、新たな方向へ捜査を発展させる必要が出来たからである。 帆村荘六も、やはり案内を受けたので、定刻になって旗田邸へ入った。 長谷戸検事が、いつものように捜査進行の中心にいた。 顔触れの揃ったのを知ると、長谷戸検事は煙草の火を消して、別室から事件の部屋へと一同に移動を促した。 鶴彌の死んでいた例の広間は、事件当時と同じ状態に置かれてあったが、ただ部屋の中心の皮椅子にもはや鶴彌の惨死体は見当らず、そこが大木の空洞のようにぽっかりと明いていて、その見えないものが反って一種異様な凄愴な気分をこの部屋に加えていた。その皮椅子の空洞にもう少し近づいて中を覗きこんだ者は、そこでもう一つ違った刺戟を受けるであろう。それは皮椅子の底に、艶めかしいハンドバグが貼りついたように捨て置かれてあることだった。もちろんこのハンドバグは、旗田鶴彌殺しの第一の容疑者である土居三津子の所有物であり、それは当夜屍体の下敷きになっていたものであることは読者の記憶にあるとおりだ。 さて今日は、いよいよこの土居三津子がこの部屋に呼ばれることになっていた。前日三津子は護送自動車で玄関先まで来たのであるが、鶴彌の死因についての裁判医の鑑識があまりにも意外な結果を公表したので、三津子の取調べは昨日は急に延期となったものであった。 「土居三津子はまだ到着しませんが、間もなく――そう、あと十五分位したら到着する筈だ。それまでに今日までの捜査結果の概要を復習して置こう。なお私の述べるところと違った見解を持つ人は、あとでそれを言って貰いましょう」 そういって検事は、従来捜査の主流をなしていた彼自身のもの、大寺警部の考えているところのもの、古堀博士の鑑定、それから帆村探偵が問題として指摘したものなどについても述べるところがあった。 その口述において、検事は自分が鶴彌殺しの犯人として始めは家政婦を疑ったが、それが芝山の証言により解消した。ところがその後古堀裁判医の鑑定によって死因は心臓麻痺と変ったため、今は全く出発点へ逆戻りの形となったことを述べ、これに対し大寺警部は今も尚土居三津子を有力なる容疑者として考えていると思われるが、それに相違ないかと、検事は警部に訊いた。 「そうですとも、私は始めから土居だと睨んでいて、途中でもその考えから変ったことはありません。もちろん裁判医が何と鑑定をしようと、私の考えは微動もしませんです」 と、強い自信を奇声に托して宣言した。 「死因のピストル説が、心臓麻痺に変っても、君の土居三津子を容疑者とするの論拠はすこしもゆるがないというんだね」 検事は、すこし硬くなって、訊き返した。 「その通り。土居はあの夜、主人鶴彌に面接した最後の者でありますぞ。そして自分のハンドバグを残留してこの屋敷を飛出したほどの狼狽ぶりを示している。一体あの女のこの周章狼狽は何から起ったことでしょうか。これこそ乃ちあの女が当夜鶴彌に毒を盛ったことを示唆している。自分で毒を盛ったが、それに愕いて、急いで逃げ出した。そしてハンドバグを忘れて来てしまった」 「どういうわけで土居三津子はあの屋敷から急いで出たというのかな。その点はどう考えるのか、大寺君」 「アリバイの関係ですよ。土居があの屋敷に残留しているうちに毒が廻って鶴彌が死んでしまったら、あの女の犯行であることは直ちにバレちまって逮捕される。それをおそれて、急いで逃げ出したんですな。あの女が去って後で鶴彌が死んだとなると、あの女は有力なアリバイを持つことになる。もっともハンドバグを忘れるようなヘマをやっては何事も水の泡ですがね」 「どんな方法によって中毒させたか。それはどうなんだね」 と、検事は事のついでに、この自信満々の主に糺した。 「それは私の領分じゃないんですよ。鑑識課員と裁判医は、それについてもっと明確な報告をしてくれなければならんと思う。あの連中の職務がそれなんですからね。もっとも私は今日容疑者から話を聞き出します。そしてあべこべに鑑識課や裁判医に資料を提供してやろうとまで考えているんですがね」 「ところが裁判医が死因を究明する力なしとその不明を詫びているんだから、困ったもんだね」 検事が苦笑した。 「ねえ検事さん。あなたは本当に捜査をご破算にして出発点へかえられたんですか」 ずっと沈黙して、聞き手に廻っていた帆村荘六が、そういって口を切った。 「わざわざ嘘をいうつもりはないよ」 「そうですか。同じ心臓麻痺にしても、中毒による場合と、驚愕による場合とは大いに違うと思うんですが、あなたはどっちだとお思いなんですか」 「出発点にかえったといったろう。だからこれから捜査のやり直しだ」 「本当ですかあ。しかし今までに調べたことが全部だめというわけじゃないでしょう」 「一応白紙に還る。面倒でも、もう一度やりなおしだ。この小さい卓子の上に載っている料理の皿や酒なども、もう一度始めから調べ直すつもりだ」 「ああ、それは実に結構ですね。いや、これはお見それいたしまして、たいへん失礼しました」 帆村はそういって、頭を掻いた。帆村が頭を掻いたので、検事以外の者はびっくりした。そして声に出して笑い出した者もあった。
禅問答
長谷戸検事は、早速その仕事に掛った。 帆村荘六は、「いやこれはますます恐れ入りました」といいたげに襟を正して、係官と共に小卓子の側に歩みよった。 「――料理が六種類に、飲科が五種類だ。サイフォンの中のソーダ水も忘れないで鑑識課へ廻すこと。その外に皿が四つ、コップが三個。空いた缶詰が一個。それからテーブル・ナイフ[#「テーブル・ナイフ」は底本では「テーブル、ナイフ」]にフォーク。最後にシガレット・ケース、巾着に入った刻み煙草、それとパイプ、それからマッチも調べて貰おう。それで全部だ」 検事は、鑑識課へ廻付して毒物の含有の有無を調べる必要のあるもの二十四点を数えあげた。検事がそれを数えている間、帆村荘六はこれまでにない硬い表情でそれを看守っていた。 検事の部下は、トランクを一個持って来て、命ぜられたものを一つ一つ丁寧にパラフィン紙に包んでトランクの中に収めた。小卓子の上からはだんだんに品物が姿を消していって、遂に残ったものは花活と燭台と灰皿の三つと、小さいナップキンとテーブル・クロスだけになってしまった。 「検事さん。これで全部ですね」 食料食器の収集を手伝っていた大寺警部がそういった。 「そう。それで全部だ」 と、検事は小卓子の上へ目をやってから、肯いてみせた。が、その検事は、帆村荘六がいやにしかつめらしい顔をしているのに気がついた。検事の眉の間が曇った。 「おい帆村君、何を考えているんだい」 いわれて帆村は、小卓子の上を指し、 「これだけは残して行くんですか」 「うん。無関係のものまで持って行くことはない」 「無関係のもの? そうですかねえ」 「だって中毒事件には関係がないものではないか。そうだろう。花活然り、蝋燭のない燭台然り、そして灰皿然り」 「そうでしょうかねえ」 「そうでしょうかねえったって、あとのものは中毒に関係しようがないじゃないか。僕が必要以上のものを集めたといって、君から軽蔑されるかと思ったくらいなんだがね」 「とんでもないことです。長谷戸さん。私は大いに敬意を表しているんですよ。あなたがマッチまで持って行かれる着眼の鋭さには絶讚をおしみませんね」 「ふふふ。それは多分君に褒められるだろうと予期していたよ。そうするに至った動機は、君の示唆するところに拠るんだからね」 「ははあ、そうでしたか」と帆村は軽く二三度肯いた。 「しかしそれなれば、まだお調べになるべきものが残ってやしませんか」 「もう残っていないよ。これですっかり――」 といいかけて検事は俄に言葉を停めた。 「ああそうか、君は灰皿に入っている内容物についていっているんだね。僕だってそれを考えなかったわけではない。しかしこれを調べることはないと分ったから除外したんだ。ねえ帆村君」 このとき帆村が何かいおうとしたのを、検事はおっかぶせるように言葉をついだ。 「実は灰皿の中に煙草の吸殻が入っていることを僕が忘れていると思っているんだろう。なるほど、現にこうして灰皿を眺めると、吸殻が見えない。それは吸殻の上に、何か紙片を焼き捨てたらしい黒い灰が吸殻の上一面を蔽って、吸殻を見えなくしているからだ」と、検事は灰皿を指した。「ね、そこだよ、君。吸殻に中毒性のものが入っていたとすれば、その吸殻は灰皿の外に落ちていなければならないと考えるのが常識だ。しかし被害者が頑張り屋で、きちんとすることが好きな人間だったら、中毒症状を起しながらも懸命の努力を揮って吸殻を灰皿へ抛げこむだろう。もちろんこれは極めて稀なる場合だがね。ところがだ、この灰皿の内容物を検するのに、吸殻の上を、この黒い灰が完全に蔽っているんだ。ということは何を意味するか。それは手紙か証文か何かしらんが、その紙片を焼いて黒い灰をこしらえたときには、被害者は煙草を吸っていなかったことを物語る――つまりそのとき煙草を吸っていたものなら、その吸殻はこの黒い灰[#「黒い灰」は底本では「黒灰」]の上にあるか、又はそのへんに落ちている筈だ。だがそんなことはなかった。してみると、この黒い灰をこしらえた以後に於いて、被害者はどういうわけかその理由は不明だが、煙草を吸わなかったと考えていい。と同時に、灰皿の吸殻は毒物を含んでいなかった、だからその後で、被害者は紙片を焼くなどの行動が平気でとられる程、健康であったことを物語る。こういう解釈はどうだね」 「大いに気に入りましたね」 「僕もそう思っていた。多分この説は君が気に入るだろうとね」 「しかしですね、長谷戸さん。死んだ主人鶴彌氏は、当夜この部屋ばかりにいたわけじゃないんで、土居嬢を送るために玄関へも行ったでしょうし、手洗いへも行ったでしょう。また寝室や廊下や階上などへも行ったかもしれない。そういうとき吸殻を捨てる場所は到るところにあったわけですね。窓から吸殻を捨てることも有り得るでしょう」 「で、君は何を主張したいのかね」 「何も主張するつもりはありません。ただ今のところを説明の補足として附け加えたかったわけで、結局あなたの説に深い敬意を表する者です」と会釈をして「もう一つ伺っておきたいことがありますが、例の黒い灰をこしらえた直後、鶴彌氏は死亡したという御見解なんでしょうか」 「いや、そんなことは考えていない。あの黒い灰をこしらえて以後、被害者は煙草をあまり吸わなかったらしいと認めるだけのことだ。実際、煙草を吸うのをよして、その後は酒を呑み、料理を摘むのに何時間も費したかもしれないからね」 「すると、中毒物件は飲食物の中に入っているとお考えなんですか、それとも他のものの中に……」 「それはこれから検べるんだ。毒物は固体、液体、気体の如何なる形態をとっているか、それは今断言出来ない。中毒性瓦斯についても疑ってみなければならないと思いついたことについては、君の示唆によるわけで、敬意を表するよ」 検事と帆村の永い対談はここで漸く一旦の終結を遂げた。しかしこれを辛抱づよく傍聴していた係官たちは、無用の禅問答を聞かされたようで、多少のちがいはあるが、誰しも両人を軽蔑する気持を持ったことは否めなかった。
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