アブラ虫競走
マルモ探検隊員をのせて、ロケット新月号は今や大宇宙を矢よりも早く進む。 暗黒の月世界をだんだんはなれ、その向こう側の昼の面が、大きな三日月の弧となって動きあがって来る。 これからロケットは、いよいよ火星のあとをおいかけることになったのだ。 ここ当分は、たいくつな航空がつづく。いかに希有燃料ルナビゥムをたくさん使っても、火星においつくまでには、約三ヶ月の日数がかかる計算になっていた。 乗組員たちは、今からたいくつになってはたいへんだと、たいくつをまぎらすための、いろいろな工夫をこらす。 将棋のトーナメント競技を計画して、入会をすすめる者がある。 卓上ベースボールのリーグ戦をするメンバーを募集してまわる者がある。 おとなしいところでは、地球から放送されるテレビジョンによって、これから三ヶ月間に、編物講習を勉強しようと決心する者もあった。 正吉少年が通路を歩いていると、料理番のキンちゃんに、ばったり出会った。キンちゃんとは、しばらく顔をあわせなかった。二人は別に働いていたからだ。そのキンちゃんはにこにこしている。 「キンちゃん、どうしたの。たいへんうれしそうだね」 と、正吉が声をかけると、キンちゃんはいよいよ顔をくずしてげらげら笑い。 「うふッ。ちび旦那。わしんところが、えらい人気なんですぜ」 ちび旦那などと、キンちゃんは失敬なことをいう。が、なかなかごきげんよろしい。どうしたわけだろう。 「なにが大人気だというの」 「いや、実は、わしのところで、ちょっとした競走をはじめたんですがね。それが大繁昌なんで。みなさんがどっとおしかけてきてね、部屋の中がぎゅうぎゅうで、たいへんなんですよ」 「どういうわけで?」 「どういうわけでといって、つまり、わしの考えだした競争に人気がすっかり集まってしまったんですよ」 「誰が競争するの」 「誰って、つまりアブラ虫ですよ」 「アブラ虫だって? アブラ虫かい」 正吉は、おどろき、そしてあきれた。 キンちゃんの方は、どうですといいたげに、にやにや笑って、 「食堂に出てくるアブラ虫を、大切にして飼っておいたのです。かなり大きいのがいますよ。横綱というのは、一番大きくて、腹が出っぱっているのです。そのかわり、競走させると案外おそいのでねえ」 「なんだって、アブラ虫なんか飼っておいたの」 「たいくつだからですよ。アブラ虫だって、生きてうごいていれば友だちのかわりになりますからねえ。それにバターをなめさせたり、ジャガイモをくわせたりしていると、アブラ虫もだんだんわしになついてくるんでね。そりゃとてもかわいいですよ」 キンちゃんは目を細くして笑う。 そのキンちゃんが、ぜひコック部屋へ見にきてくれというので、正吉はそのあとについてのぞきにいった。 すると、部屋の外まで、人間のお尻がたくさんはみ出している。みんなアブラ虫競走に賭けて夢中になっている連中だった。 キンちゃんのかわりに、散髪夫の虎さんというのが、ちゃんとアブラ虫を指揮して競走をやらせていた。経営者側のキンちゃんも虎さんも、だいぶんもうかっているらしい。しかし、かんじんのアブラ虫は、そうたびたびは競走をくりかえさない。つまり競走をするのも、バターやジャガイモをなめに行くためであるから、一回なめると腹がふくれる。二度目、三度目といううちに、すっかりたべあきてしまって、ゴールのところでバターがにおっても、あぶら虫はかけださないのだ。 「ねえ、ちび旦那。あんた一つ、あぶら虫を飼って、数をふやす係をやってくれませんか。そうしたら、うんと手当を払いますぜ」 キンちゃんは、大まじめでそんなことを正吉に申し入れた。 正吉は、アブラ虫にくいつかれたことがあって、アブラ虫はきらいだからと、キンちゃんにことわりをいった。
月人の秘密
それから正吉は、艇長室へいった。 そこではマルモ隊長をはじめ、カンノ博士やスミレ女史、それからカコ技師もあつまっていた。 もう一人、モウリ博士の白髪頭が交っていた。博士は、さっきまで寝ていたはず。ここへ出てきたのは、疲れが直ったからであろう。思いのほか元気な老博士だった。 みんなは、モウリ博士の話に熱心に聞き入っている。 「おお、正吉か。ここへおかけ」 博士は、にこにこと正吉の方へ笑顔を見せて、すぐそばの椅子を動かした。 「今、みなさんに、月人の話をしていたところじゃ。お前も話が分かるなら、聞いていなさい。きっと参考になるからねえ」 そういって老博士は、またみんなの方を向いて、手をふり顔をふりして、月人のふしぎな生活について語りだした。 「月人は、月の表面に、たくさんの出入口を作っている。そこから中へはいりこむと、もちろんそれはトンネルのようになっているんだが、斜めに掘ってある。左右は階段になっているが、まん中はよく滑るように、磨いた岩石の舗道になっている。つまり、これが子供の遊び場にある『おすべり』と同じ作用をするのだ。滑って、早く下へ行けるように考えてあるのじゃ。月人は、なかなか工夫をするのが上手だ」 そこで老博士は、正吉の方へふりかえった。正吉が熱心に聞いているのをたしかめると、にっこり笑って、また顔を正面に向け直した。 「滑り下りると、そこには一つの関所がある。重い回転扉のはまった球形の大きい洞穴みたいな部屋だ。つまりこの部屋は、空気の関所だ。それより奥は、空気が濃いのだ、手前の方は空気が薄い。その境界になるのが、この回転扉だ。そこでこの回転扉をまわして中へはいると、その奥には、またもや下へ下りるトンネルがある。構造は、さっきのトンネルと同じことで、まん中のところは『おすべり』ができるようになっており、両側には階段がついている。なかなか大仕掛だ」 「すると月人は、土木工事に優秀な腕前を持っていると見えますね」 「そうだよ。わしもたしかにそれを認める。月人は、あの寒冷で空気のない地面を持っている月世界に、自分たちの生命をつなぐためには、土木工事に上達しないわけにはいかなくなったんだ。つまり、月人は、土地を掘って、地中へ、地中へ、と下りていったんだよ。表面は寒冷でも中はずっと暖かいからね。それに、空気は月の表面からとび散ってしまったが、地中にはいくらかそれが残っていたのだ。だから月人は、地中深く姿を消し、そしてその子孫が今もなお生命をつないでいるんだ。全くけなげな連中だ」 モウリ博士は、力をこめて、そういった。月人を恐怖する博士も、これまでに月人がたどった運命と、忍耐づよい努力とには、同情し、敬意をもっているのだった。 「でも、おじさん。そればかりの空気ではたくさんの月人が暮らしていけないでしょう」 正吉は、そういった。 「いや実際、地中にもぐってみると、案外に空気のたまっているところがたくさんあったのだ。もちろん、そのとき地中にもぐった月人の総数はそんなにたくさんではなかったらしい。数千の集落のうちのいくつかが、地中にもぐりこむことに成功したのだそうだ」 「すると、月世界の空気はある時機になって、急に月の表面から消えてしまったのですか」 「そうなんだ。どうしてそんなことが起ったかというと、そのとき、月のごく近くを、かなり大きい彗星がすれちがった。そのとき月の表面へ、はげしく彗星の一部分が衝突した。そのとき、たくさんの月人が死んだ。彗星が去った。そのときに、月世界の表面から空気がなくなったという話だ。これは月人が子孫にいいつたえている、いわゆる伝説なんだ。だが、これはたしかにほんとうのことらしく思われる」 モウリ博士の話は、いよいよ奇怪味を増してくる。 「月人は、今いろいろな方法でもって、地中で空気を製造している。われわれ地球人が、水道の栓をひねって、水を出してのむように、月人たちは、自分の家――それはもちろん地下の穴倉式のものなんだが、そこに住んでいて、部屋にひいてある管から、必要のときに空気を出して吸って生きている。そしてさっき話したように、空気が割れ目などを通って地面の外へにげることをおそれ、地表と地中との交通路は、空気をなるべく洩らさないように、厳重な仕掛かりでふせいである」 「なるほど。それでさっきのトンネルや回転扉の話とつづくんですね」 一座は感動して、みんな溜息をついた。有名な探検隊長として知られているマルモ・ケンさえ、モウリ老博士がしたほどの深い月人の秘密については、今まで知らなかったのだ。 「そうだ。さっき話したトンネルと回転扉の数珠つなぎだ。第一の回転扉の次に、またトンネルがあり、その先に、また第二の回転扉があるという風に、少なくとも第五の回転扉を経なければ、月人の居住区へは達しないのだ。わたしは、その居住区に永い間暮していたんだ」 「おお、モウリ博士」 「月人は空気をあまりに大切にするあまり、月世界の表面へ出ることも、たいへんいやがる。だから、知能は、われら地球人間よりもすぐれているところがあるし、地球にない貴重な資源を豊富に持っているのに、彼らは一台の飛行機さえ持っていないんだ。だからこのロケットが、月世界を離れて飛びだしさえすれば、あとは月人に追いかけられて危険な目にあうというようなことはないわけだ」 「ああ、そうですか。それを聞いて、たいへん安心しました」 マルモ隊長も、はじめてにっこり笑った。
見え出した火星
火星へ、火星へ―― ずんずんとロケット新月号は、大宇宙を進んで行く。 月世界を離れたとき、火星への距離はだいたい七千万キロだった。 三ヶ月ほどの進空ののち、火星に達する計算であるが、そのときは火星が地球や月に対して一番近くなっているときで、火星と地球との距離は五千六百万キロほどになっているはずだった。 だから月世界を離れたロケット新月号は、当時の火星の距離七千万キロを飛ばなくてもすむのだった。つまり三ヶ月のうちに、火星の方が自分でこっちへ近づいてくれるから、それだけ新月号の方では行程を短縮することができるわけだった。 貴重なる資源ルナビゥムを積みこむことが出来たので、新月号のスピードは予定のとおりにあがり、火星へ達する日も、予定日を狂わないだろうと思われた。 万事が好調にいっている。 一ヶ月経ち、二ヶ月経ち、次の第三ヶ月目にはいった。 新月号と地球との間には、たえず通信が交換されており、テレビジョンも受けたり、こっちから送ったりしていた。だが、この退屈で平穏な暗黒の空の旅は、地球の方ではあまり歓迎しなかった。 それにひきかえ、乗組員たちは、地球からの通信やラジオ放送やテレビジョンを、出来るだけ多く受信して、聞いたり見たりしたがった。むりもないことであった。もうほんとうに、いつも同じ新月号の中に起き伏しし、窓から外をのぞけば、いつも同じようにまっくらな空にダイヤモンドをちりばめたように星が光っているのであった。全くこの単調な生活には、どんな辛抱づよい人間でも、がまんがならなくなるのだ。 そのころ、この唯一の、そして最も大きな慰めである通信がどうも今までのように、工合よくはこばなくなった。 通信局の連中は、ようやく仕事の種が発生したので、退屈からのがれると、大よろこびであった。 だが、通信の不調の原因は、よく分からなかった。これが地球の上なら、磁気嵐のせいであるとか、デリンジャー現象だとかいえる種類の不調だったが、こんな宇宙の一角で、そうした原因でこんな不調が起るはずはなかった。 「これは重大だ。ひょっとすると、一大椿事発生の先触かもしれない。みなさん、ゆだんなく気をつけて下さい」 通信局長のスミレ女史は、とうとう全局員に対し、警戒を命じた。 計算によると、あと二週間で、火星に達するあたりまで、新月号は近づいた。 火星の姿が、地球から見る満月の倍くらいの大きさに見えるようになった。 しかし、火星の輪郭も、ぼんやりとしている。全体が赤橙色にぬられていて、なんだかうす汚い。黒緑色の線が、網をかぶったように走りまわっているのも見える。極のところには白冠が、ひときわ明るく光っている。 まちがいなく火星は、指呼の間に見えているのだった。 艇長室では、幹部の間に、火星のうわさがとび交っている。 「モウリ博士。あなたは火星へ行かれたことがありますか」 「いや、こんどがはじめてですよ。しかしかねがね行ってみたくて、研究はしていましたよ。火星は、実に興味の深い星ですね」 「そうですとも。昔からさわがれ、そして今も一番人気のある星ですね」 「マルモさん。あなたは、火星へ何回ぐらい行ったんですかい」 「行ったというと、上陸したという意味ですか。それなら、二回だけです。そして、どっちの場合も大失敗でした。上陸する間もなく、生命からがら離陸しなくてはなりませんでした。火星は全く苦手です」 「あんたでも、そうなのかね。これは意外だ」 「だから今度は、どうしてもうまく上陸して、火星人とも十分に話し合いたいと思います」 「火星人と話し合う。ふーん、そうかね」 モウリ博士は、大きく目をむいた。
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