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ゴールデン・バット事件(ゴールデン・バットじけん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-24 16:14:20 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     6


 どうしたというものか、それからは毎晩のように帆村が私のところへやってきた。やってきては、毎晩はんこで押したように、私を誘ってゴールデン・バットへ出掛けた。
 そんなことが、およそ一週間も続いたのちのことだった。その晩も帆村と私とは、ゴールデン・バットのボックスに身体をめていた。その日はいつもとは違い、カフェの中にはなんとなく変な空気がただよっていることに気がついたが、しかしその夜のうちに、あの愛慾の大殿堂だいでんどうゴールデン・バットがピタリと大戸を閉じてしまうなどとは夢にも気がつかなかった。実にこれが有名なる「ゴールデン・バット事件」の当夜とうやなのだった。
「どうも解らないことがあるのだがネ」と神ならぬ私は呑気のんきな口調で帆村に呼びかけていた。「君の話では、金という男は、ここの女たちに、劇薬をみこませた煙草を与えてモルヒネ中毒者にしていたということだが、金が死んでしまった今日こんにちも、彼女たちは別に中毒者らしい顔もしないで平気でいるのは、ちょっと訳が解らないネ」
「なるほど。それでどうだというのだ」
「どうだといって、彼女たちは金からモルヒネ剤の供給を断たれたわけだから、大なり小なり、中毒症状をあらわして狂暴になったり、痙攣けいれんが起ったりする筈だと思うんだ。ところが案外みんな平気なのはどういうわけだろうか」
「いや、君の探偵眼も近頃大いに発達してきたのに敬服する」と帆村は真面目な顔付になっていった。「しかしその回答は、まだ僕の口からは出来ないのだ。まあ、もう少し待っていたまえ」
 そこへ珍らしく私達の番のチェリーが、洋酒の盃をもって来た。彼女は黙々もくもくとして、ウイスキーを私達の前に並べたが、
「あの、ちょっと、顔を貸して下さらない」と私に言った。
「えッ」
「ちょっと話があるのよオ」
 私は顔があかくなった。私の眼の前には、チェリーの真白なムチムチ肥えたあらわな二の腕が、それ自身一つの生物せいぶつのように蠢動しゅんどうしていた。
「いいから、行ってこいよ」帆村は云った。
「じゃ、ちょっと――」
 私は心臓をはずませて、席を立った。彼女のなやましい体臭たいしゅうの影にぴったりとついて行くと、チェリーは楽手がくしゅのいないピアノの側へつれていった。
「用て、なんだい」私はいた。
「解ってるでしょう――」そういうチェリーの顔には、何となく険悪けんあくな気がみなぎっているのを発見した。
「あんた、早く返さないと悪いわよ」
 彼女は私の思いがけないことを云った。
「早く返せ。な、なにをだい?」
「白っぱくれるなんて、男らしくないわよ」
「なッなんだって?」
「こうなりゃハッキリ云ったげるわよ。――あんたせんに丘田さんのところで、盗んでいったものがあるでしょう」
「なにを云うんだ」私はおどろきといかりとで思わず大声になった。
「ほら、やましいから、赤くなったじゃないの。悪いことは云わないから、これからぐ帰って、あの薬をあたしンところへ持っていらっしゃい。いいこと。あたしから丘田さんにうまくあやまって置いてあげますからネ」
 薬といわれて、私はすこし気がついた。
「よし、考えとくよ」
「考えとくじゃないわよ。早くしないと困るのよ」
「まアいいよ。すこし考えさせろよ」
「あんたお金のことを云っているのネ。すこし位のお金なら、あたしからあげてもいいわ」
莫迦ばかなことを……」
 そういって私は席に戻った。帆村はホープの煙を濛々もうもうと立ち昇らせながら、眼をクルクルさせていた。
「どうした」
 そこで私は思いがけないチェリーの云いがかりについて、彼に報告した。そのあとに私はつけたして云った。
「薬を盗んだというが、それなら君に云いそうなものじゃないか」
「うん。そりゃ君のことさ。だから僕があのとき袖を引いて注意をしてやったじゃないか」
 そこで私は、帆村が袖を引張ったことを思いだした。そうだ、あのとき私は、銀玉に見惚みとれていた。横に細いみぞのある銀玉だった。ああ、そうすると……あの銀玉に薬が入っていたのだ。
 その瞬間だった。バラバラと私達の卓子テーブルに飛びついて来た人間があった。
「やい泥棒」いきなり卓子越テーブルごしに顔をつきだしたの男は、なんと丘田医師だったのである。丘田医師には違いないが、日頃の彼の温良なる風貌はなく、髪は逆立ち、顔面は蒼白そうはくとなり、眼は血走り、ヌッとつき出した細い腕はワナワナとふるえていた。
「さあ返せ、返せといったら返さないか」私は腰をあげた。
「畜生、黙っているのは、返さない心算つもりだな。よオし、殺しちまうぞ」
 そう呶鳴どなると丘田医師はたちまち身をひるがえして、そば棕櫚しゅろ鉢植はちうえに手をかけた。彼の細腕は、五十キロもあろうと思われるその重い鉢植を軽々ともちあげて、頭上にふりかぶろうという気勢を示した。
「危い。逃げろッ」
 と帆村が私の腕を引張った。私はパッと身をかわすと、夢中になって駆けだした。なんだか背後うしろで、ガーンという物のこわれる物凄い音を聞いたが、多分それは丘田医師の手を放れた鉢植が粉々にくだった音だろうと思う。
     *   *   *
 帆村と私とは、やっと流し円タクを拾ってその中に転げこんだ。
「いやどうもおどろいた――」私はまだふるえが停らなかった。
「あれでいいんだ」と帆村は呑気のんきなことを云った。「あれで筋書どおりにはこんだわけだ」
「筋書って、君はあのような場面を予期していたのかネ」と私はあきれて問いかえした。
「そうなんだが、あんなにうまくゆくとは思っていなかった。ここで一つ君に頭を下げて置かねばならぬことがあるが……」と彼はちょっとことばを切って「君がいつかきん青年の殺人犯人のことで、『犯人は気が変だ。それが馬鹿力を出して金を殺し、その直後に正気しょうきに立ちかえって逃走した』というような意味のことを云ったが、あれに対して僕は男らしく頭を下げるよ」
「というと……」
「あの丘田医師の大変な力のことを云っているのだ。気が変になったればこそ、あのような力が出る」
「すると金青年に重い砲丸をげつけて重傷を負わせたのは、丘田医師だったのかい」
「もうすこしすれば、誰が犯人か、自然にわかはずだよ」
 真犯人のことを知ったのは、それから三日のちのことだった。ゴールデン・バットのチェリー――それが真犯人だった。
 これは一部の人に大変奇異きいな思いをいだかせた。何故ならば、どうしてチェリーのように脆弱かよわい女性が、あの重い砲丸を金青年の肩の上にげつけることが出来たろうかという疑問が第一。それから彼女に真逆まさか金を殺すだけの十分な動機が見つかりそうもないという疑問がその第二だった。
 しかしそれは、彼女達の告白によって、すべてがあきらかになった。私は今、彼女達という複数の言葉を使ったが、あのゴールデン・バットの女たちは、あの晩の騒ぎをキッカケとして、去っていったのだった。彼女たちは、洋酒を盆の上に載せる代りに、みんなが白いベッドの上に載せられていた。それは某内科の病室に収容せられた風景だった。
 チェリーはベッドの上から、切れ切れに一切を予審判事よしんはんじに告白した。
 金が重傷をうけたあの頃は、チェリーが君江よりも一歩進んだ、金の寵愛ちょうあいを得ているときだった。金は前にも云ったように、魔薬まやくの入った煙草でもって女たちを自由にしていた。その資本は、金が秘蔵していた一袋のヘロインというモルヒネ剤だった。
 ところがこの大切な資本が、或る日金の部屋から見えなくなったのだ。それは大事件だった。命に関する出来ごとだった。彼は気が変になったように部屋の中を探したが、どうしても出て来なかった。そのうちにだんだんと中毒症状が出てきたので彼はかねてかかりつけの丘田医師をよんで、投薬とうやくを頼んだ。それから以来というものは、一日に何回となく丘田医師のもとに哀訴あいそを繰りかえさねばならなかった。ただしかし中毒者のことであるから、服薬したあとの数時間は、普通とことならぬ爽快な気分で暮らすことが出来た。
 しかしここに困ったことが出来た。それは金がかね魔薬まやく入りのゴールデン・バットをバラいていた女たちに与えるものがなくなったことだった。女たちの中でも、一番おそろしい苦悩におそわれたものは、実にチェリーだった。チェリーはその頃、金の寵愛ちょうあいを集めていただけに、服薬量が大変多量にのぼっていた。だからチェリーは金を訪ねて、ヘロインをせびったのだった。
 しかし金にとって、もういくらもたくわえのないヘロイン入りのゴールデン・バットだった。ひとに与えれば、忽ち自分が地獄のような苦悶に転げまわらねばならない。だから最愛の情人であるチェリーの切なるいではあったが、バットを与えることを断然だんぜんこばんだわけだった。
 チェリーは拒絶きょぜつされると、もう我慢しきれなくなった。どうしてもあの薬を手に入れなければならなかった。暴力に訴えても、たとえ殺人をしても……。彼女は全く気が変になって、あの重い砲丸を頭上に持ち上げた。金はこの思いがけない危険に室内を逃げ廻っているうちに、とうとうチェリーのために鉄の砲丸をげつけられてしまった。そしてあのような悲惨な最期さいごげたのだった。
 さてそれから、チェリーは室内をいまわって、魔薬まやくの入った煙草を探した。ついに煙草の隠匿いんとく場所がわかって、八本の特製のゴールデン・バットを手に入れた。彼女はそこでむさぼるように、あの煙草を喫ったのだった。喫っているうちに、次第に薬の効目ききめはあらわれた、彼女は平衡へいこうな心を取りかえしたのだった。彼女がソッと現場げんじょうを逃げだしたのは、それからだった。――(海原力三うなばらりきぞうが殺人の目的で忍びこんだときは、既に金が重傷を負っていたのちのことだった)
 チェリーは外へ逃げだしたが、そこで深夜の街を歩いていた丘田医師につかまったのだった。掴るというよりも、むしろ助けられたといった方が当っていた。丘田はチェリーのただならぬ様子からそれと察して、幸い独身者の気楽な自分の家へ連れてかえったのだ。その後、二人の仲が如何に発展したか、それは云うまでもないことである。
 ところで金のところにあったヘロインの袋は一体誰が盗んだのか。これはいまだに明瞭めいりょうではないのであるが、帆村の説によると、既に金のところへ度々呼ばれて行った丘田医師が、金のすきをみて秘かに奪いとったものではなかろうかと云っている。あの種の中毒患者にはそんな隙などはザラにあることに違いなかった。
 丘田医師は、盗みとった魔薬を悪用し、金と同じ手を用いて、カフェ・ゴールデンバットに君臨くんりんしたのだった。幸い医者だった彼は、その後の中毒女たちに投薬することに非常にたくみだった。だから女たちは、中毒者のようには見えなかったのだ。しかし最後に来て、運命の悪戯いたずらというか、天罰というか、丘田医師が魔薬を失い、遂に彼自身は金と同じように気が変になり、女たちも薬をたれて、一勢に中毒者としてその筋に発見されるに至ったのだった。中でもチェリーの中毒症状は殆んど致命的ちめいてきだと診断をくだされた。しかし一体誰が、丘田医師のところからヘロインを盗み出したのだ。丘田医師はかねてヘロインを手にしてからというものは、パントポンの代りに、この粗製品を使って世間を胡魔化ごまかしていたことは、帆村の調査によって証拠だてられたところだ。――実をいうと、帆村はこのことについて何も云わないのであるが、丘田医師のところへしらべに行った夜、ゴールデン・バットのそばの橋の上から、なにか白い紙包を川中に投じたが、あれが丘田医師のところにあったヘロインではあるまいかと、私は考えている。あの高い棚の上にあった銀玉ぎんだまはきっと真中から二つに割れるボンボン入れのようなものであったろう。
 海原力三うなばらりきぞうは無罪となり、放免された。
 しかし丘田医師は、あの夜から、どこへ逃げたものか、行方不明である。――しかし後日談を云うと、あれから三ヶ月ほどして、帆村は大阪の天王寺てんのうじのガード下に、彼らしい姿を発見したという。しかし顔色はいたく憔悴しょうすいし、声をかけてもしばらくは判らなかったという。丘田医師は、今もさる病院の一室で、根気こんきのよい治療を続けているという。流石さすがは医師である彼のことだと、医局では感心しているそうだ。だが元々医師であって、モルヒネ劇薬の中毒が恐ろしいことはよく判っている筈なのに、どうして彼がモヒ中毒におちいったのか。これはまことに興味ある疑問である。
 そのことについては、吾が友人帆村荘六も大いに知りたがっていたところだが、或る時とうの丘田医師から聞きだしたといって、ひそかに話してくれた。うそまことかは知らぬけれども、「……丘田氏は、自分でモヒを用いた覚えのないのに、中毒症状を自分の身体の上に発見したそうだ。注射もせず、喫いも呑みもせぬのにどうして中毒が起ったか。その答は、たった一つある。いわく、粘膜ねんまくという剽軽者ひょうきんものさ」
 そういわれた瞬間、私の眼底がんていには、どういうものか、あのムチムチとした蠱惑こわくにみちたチェリーの肢体したいが、ありありと浮び上ったことだった。





底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
   1933(昭和8)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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