海野十三全集 第1巻 遺言状放送 |
三一書房 |
1990(平成2)年10月15日 |
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷 |
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷 |
ぽっかり、眼が醒めた。 ガチャリ、ガチャリ、ゴーウウウ。 四十階急行のエレベーターが昇って来たのだった。 「誰か来たナ」 まだ半ば夢心地の中に、そう感じた。職業意識のあさましさよ、か。 この四五日というものは夜半から暁にかけてまでも活躍をつづけたので身体は綿のごとく疲れていた。それだのに、思ったほどの熟睡もとれず、神経は尖る一方であった。 今も急行エレベーターで昇って来た人間が、果して自分のところへ来るのだか、または他へ行くのだかわかりもしないのに、寝台の上で息を殺して待っている自分がおかしかった。 途端に身体に感ずる感電刺戟、執事の矢口が呼んでいるのだった。さてはいよいよお待ち兼ねのお客様であるか。寝床をヒラリと飛び下ると、直ぐ左手の衣裳室へ突進した。――二分間。 私はモーニングに身をかため、悠然と出て来た。左手を腰の上に、背を丸く曲げると、右手で入口の扉の鍵をカタリとねじって、 「オーライ、矢口」 と嗄れた声をはりあげた。 扉がスイと開いて矢口が今朝の新聞と、盆の上に一葉の名刺を載せて入ってきた。私はとる手も遅しとその名刺をつまみあげた。 「ウム――相良十吉。おひとりだろうナ」 「イエス、サー」 「では、こちらへ御案内申しあげるんだ」 矢口の案内で、入口に相良十吉の姿が現われた。見るからに、ひどい瘠せ型の、額の広いのが特に眼につく紳士である。その額には切り込んだような深い皺が、幾本も幾本も並行に走っていて、頭髪は私と同じように真白であった。それでいて眼光や声音から想像すると、まだ五十になったかならないか位らしい。 「栗戸探偵でいらっしゃいましょうか」 「栗戸利休はわしです。さあどうかそれへ」 「先生で……」 あとは口の中で消して、ゴクリと唾をのんだ。泣きださんばかりの激情が辛うじて堰きとめられていることが、彼の痙攣する唇から読みとれた。 「昨日も御来訪下すったそうですが、生憎で失礼をいたしました。……では御用件というのを承りましょうか」 私は、頬髭を軽くつまみあげながら、早速、話を切りだしたのであった。 「私は、先生が、御依頼した事件につき、非常に迅速に、しかも結論を簡単明瞭に、探しだして下さるという評判を承って、大いに喜んで参ったような次第なのですが……」 「それで――お識りになりたい点というのは」 「ハイ。その、それは、今から二十年前のことになりますが――先生もよっく御記憶かと存じますが――東京を出発して無着陸世界一周飛行の途にのぼったまま行方不明となった松風号の最後を識りたいのです」 「なに、松風号の最後?」と私は相良十吉の前に驚きの眼を瞠ってみせた。「あれは東京からコースを西にとり、確かインドシナあたりまでは飛んでいるのを見かけた者があるが、それっきり消息を断ってしまった、というのでしたね。各新聞社の蹶起を先頭として続々大仕掛けの捜査隊が派遣せられ、凡そ一年半近くも蒙古、新疆、西蔵、印度を始め、北極の方まで探し廻ったが、皆目消息がしれなかった、というのでしたね。海中に墜落しているのじゃないかと紫外線写真器でありとあらゆる洋上で撮影をやってみたのだが、矢張り駄目だったというのでしたね」 「おお、先生はよく覚えていて下さいました。実は、私もあの事件に関係がある人間なので捜査に奔走しましたが……」 「そうでしたね。相良さんは、松風号の設計家の一人だったのですな」 「やあ、これまで御存知でしたか。それで私はどんなにか手を尽して探したことでしょう。私自身も探検隊を組織して印度の国境からゴビの沙漠へかけて探しにゆきました。結果は何等得るところなしでした。全く行方がわからない。これ程さがして知れないものなら、松風号は空中爆発でもして一団の火焔となって飛散したのじゃないか、と随分無理なことまで思いめぐらして見たものでした」 「なるほど」 「ところが最近、恐しい発見にぶつかりました――というのはあの松風号にのって出発した二人の内、一人の方が……」ここで相良十吉は何を思い出したのか、ブルブルと身体をうちふるわせ、じっとあたりに気を配るようであったが、「一人の方が、現にこの東京に帰ってきているのを、この私が見たのです!」 そう言い終ると相良十吉はワナワナふるえる手を挙げて頭髪をかきむしった。 「それは人違いではないのですか」 「いえ、なんで人違いなもんですか。たといそれが彼の幽霊であったとしても、それは人違いではないのです」 相良十吉はもはや冷静を装いきれないという風に、息をはずませて早口に語り出した。 それによると、彼は今も越中島の航空機製作会社につとめているが、今では技師長の職に在る。それは今から七日程前のことだった。其の日は重役との相談が長引いたので、会社の門を出た時は、もう薄暗かった。彼の家は月島にあったので、いつも越中島の淋しい細道を通りぬけて行くのであった。そこは、越中島埋立の失敗から、途中に航空研究所と商船学校のある外は人家とてもなく、あたり一面、気味の悪い沼地になっていて、人の背丈ほどもある蒲が生い繁っていた。 沼地に沿って半道も来たときだった。突如、右側の沼地の中から全身にしずくをたらした真黒な人間が蛙のように匍い出して来たものである。相良は顔色をかえて後にとびすさったのを、知ってか知らでか、この気味のわるい人間は細道の中央につき立ち上りフラフラとよろめいたと思うと、今まで下げていた顔をパッと相良の方へ向け直したのであった。ああ其の顔は! 狭い額、厚い唇、そして四角に折れた顎骨。それに耳の下から頤へかけて斜に、二寸位の創痕をありありと見た。おお、松風号に同乗した機関士松井田四郎太! もう二十年前に、どこかで死んでしまった筈の松井田機関士。相良十吉は眼を蔽うて大地に崩れ坐った。 彼が再び顔をあげたときには、松井田の姿はどこへ行ったのかもう見えなかった。あれは幽霊だったのかとも思ったが、そこら一面にぐっしょり水にぬれていて、沼地から匍い上って来たのを証拠立てていた。彼は蒲の穂がガサガサすれ合うのを聞くと急に恐しくなって夢中で駈け出した。 其の日はこれですんだが、翌日は、やはりこの細道の電柱のかげから、松井田が現われた。今度は意外にも立ち消えはせず、彼の方へ向って、ノソノソ歩いて来るので、彼は懸命の勇気をふるって、 「松井田君! おい、松井田君じゃないか?」 と声をかけたのだが、その怪人物は、一言も発しないで、相良十吉の側をすれちがうと、海辺の方へヨロヨロと歩み去るのであった。 次の日は、夜に入って、彼が月島の自宅から、銭湯に行ってのかえりに、小橋の袂から、いきなり飛び出して来た。 相良十吉は思った。松井田は気が変になっているに違いないと。それにしては余りに穏かな行動だった――彼の目の前にずかずか現われて、気味をわるがらせる外は……。 又その次の日からは相良十吉の家の周りに現われるようになった。いよいよ気味が悪くなったので、妻にこんな人物を見かけなかったかと聞いたが、妻は知らぬと答えた。お手伝いさんや娘の真弓子も知らぬと言った。松井田を見るのは相良自身だけらしい。 昨夜は寝室のカーテンの蔭からのぞき込んでいた。いやらしい頬の傷跡をわざと見せつけたように思われた。 相良十吉は、この頃になって、自分の生命が松井田に脅されているのを感じないわけには行かなかった。彼の懐にしのばせた短刀には、既に松風号の操縦士、風間真人の血潮がしみついているのではなかろうか。 松井田が生きているとすれば、松風号はどうしたろう。風間操縦士は生きているのか? 風間と自分とは殊に深い友人だった。松風号の行方不明になった時も、あの位方々を探し廻ったほどだった。松井田がたとえ気が変になっているとしても、せめては風間真人の消息だけでも何とかして知りたいものである、と相良は述べたてた。 私は訊いてみた。 「じゃ何故、彼の腕をとって、貴方のお家へ連れこまないのですか」 「あいつは馬鹿力を持っています。彼奴の腕にさわることができても、それこそ工場のベルトに触れでもしたかのようにイヤという程、跳返されるばかりです」 「官憲の手を借りてはどうです」 「それも考えないじゃありません。が、先生。あの有名な事件の人物が二十年後の今日、発見されたことがわかったが最後、可哀想な松井田は警官と新聞記者とに殺到されて、あの男の頭はどこまで変になるか知れないのです。折角判るべき松風号の消息までもが絶えてしまうのは惜しいと思います。今は私共の手で出来るだけの事実を調べた上、松井田の精神状態が恢復してから、先生に真相を発表していただいても遅くはないでしょう」 「ごもっともです。ところで風間さんの遺族は今どうしていられますかね」 相良十吉はこの間にハッと表情を暗くしたようであった。 「実はそれも一つ困っている点なのです。御承知かも知れませんが、あの事件からずっと風間夫人、すま子と言います、それを私が引きとって世話をしています。只今は戸籍面も私の妻になっていますし、真弓という二十になる娘もあるようなわけです」 「なるほど、風間氏が生きていたら、甚だ事面倒になるわけですな」 「そのことについては私はもう決心をしています。だが風間は生きていましょうか。すま子には、まだ何事も話をしていないのです」 「よく調べて見ましょう。――それからもう一つ伺いたいのです。あなたは松風号のどの部分を御設計でしたか」 「プロペラです」 と十吉は、はき出すように答えた。 「プロペラの試験は、一番調子がよいとほめられた位です。あの設計は丸一年かかりました」 「それで只今のお仕事は」 「今は航空研究所の依頼品を監督して組立中です。何ものであるかは一寸申上げられませんが、航空機であることはたしかです」 私のききたいことは終った。相良は松風号の行方不明に関する切抜記事帳を、参考にまでと言って私に差出したが、私は書棚の奥から、それの三倍もある松風号事件参考簿を見せてそれを断った。相良は一寸いやな顔をした。 「ではいつ御返事願えましょうか」 「明晩までに」 私は驚く相良を尻目にかけて、きっぱり言った。 「当日お電話しますから、どこへもお出掛けないように」 相良が心配そうな顔をして室を出てゆくと入れちがいに執事の矢口が姿をあらわした。 「根賀地さんから、お電話です」 私は電話室の中に飛びこんだ。遠視電話のスクリーンには部下の根賀地の待ちくたびれた顔があった。私等は読唇術で用談を片付けた。 「馬車を……。矢口」 私はこの古風な乗物に揺られ乍ら推理をすすめて行くのが好きだった。 「中央天文台へ」 私は上機嫌で命じた。中央天文台までは、ここからたっぷり二時間はかかるのであった。 翌日は相良十吉に報告を約束した日だった。その朝も私は例のごとく十時に起きて、二三の訪客に接した。正午を過ぎると研究室に入って夕方まで机上執務を続けた。 そこへ中央天文台にやってある根賀地囃が一枚の天文写真を持って入って来た。その写真は私の気に入らなかった。今度は相良十吉を遠視電話でよび出すと、彼に六時頃新宿の十字路街で私の自動車を待っていて呉れるように伝えた。彼の顔色は前日に増して悪かった。そのくせ一層大きくなったように見える血走った両眼を、クワッと見ひらいて私の方を凝視しているのだった。私の顔付から何事かを読みとろうというような風だった。 間もなく私と根賀地とは、目白の坂を下りて早稲田の方へ走る自動車の中に在った。山吹の里公園の小暗い繁みの中に入ったとき、思いがけなくドカンという銃声と共に、ウィンドー・グラスが粉微塵にくだけちった。私はウムと左腕を抑えた。咄嗟に自動車はヘッドライトと共に右へ急角度に曲った。ヘッドライトに浮び上った人影があった。逃げるかと思いの外、ヒラリと運転台につかまった。根賀地が横手の扉をいちはやく開いて身体を車外にのり出すと怪漢は猶も二三発、撃ち出した。かまわずスピードを出そうとする運転手に、 「ストップだッ」 と命令した。でも車体は尚半丁ほど前進した。車外へ出てみると、後方に根賀地と怪漢との乱闘しているらしい姿を認めた。駈けつける途中に、一方が仆れた。と思う間もなく正面から大きい身体がぶつかって来て私はもうすこしで胸板をうちこわされるところであった。敵だ! 不運にも私の背後から駈け出して来た運転手が一撃のもとに仆された。相手は中々手強い。私の左腕はちぎれるように痛みを増した。急場だ、ヒラリと二度目に怪漢の腕をさけると、三度目には身を沈め、下から相手の脾腹を突き上げた。ウームと恐ろしい唸声がして私の目の前に大きな身体がドサリとぶったおれた。 やっと起き上って来た根賀地と運転手とが半ばきまりわる気に怪漢をグルグル捲きにしばった。 「先生お怪我は? してこいつは何奴でしょう」 「わからないな。ともあれ約束の時間が来る。運転手! お前はこいつを連れて事務所へかえれ。わしと根賀地とは公園を出たところでタキシを呼ぶから……。お客様は丁重に扱うんだぞ」 そう言いつけて車を返すと、私達二人は大急ぎで公園を駈けぬけて行った。 「先生、彼奴は昨日お話の松井田じゃありませんか」 「松井田にしちゃ年が若い。まだ二十五六の小僧だったぞ」 「エエ、そうですかい」 根賀地は走り乍ら苦わらいをしているらしかった。 「じゃ松井田の手先ですかい」 「何とも言えないね」 私達は運よくタキシーを捕えることが出来た。 「アッ。血が……。先生」 自動車の中で根賀地は私の左腕から迸る血潮に驚きの目を瞠った。 新宿へ出る迄に傷の手当を終り、衣服も一寸見ては血痕を発見しえないように整えることができた。十字路で約束通り相良十吉を拾い上げるようにして車内へ入れると、運転手に命じて灯火を滅させ急速力を出させた。行手は烏山の中央天文台、暗闇の中に夜光時計は七時二十分前を示す。今宵は十四日の明るい月に恵まれる筈だが、それはもうあと五分間のちのこと。そして三十分程ちらりちらりと月の顔を見ることが出来たと思うと、あとは又元のように密雲に蔽われてしまう筈である。月が顔を出している三十分の間に私は仕事をやらねばならない。タキシーの運転手は探偵章を見せられてからは必死にスピードを上げている。 はたして五分後に月が出た。あと十分すると前方にあたって烏山の天文台の丸いドームが月光の下に白く浮かび出でた。天を摩するような無線装置のポールが四本、くっきりと目の前に聳え立っているのであった。 「おお、こりゃ天文台だ」 と相良が低く叫んだ。私達は黙っていた。
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