「それでは、川股を御存知の筈です。なにも仰有らずに返して下さい」 私は咄嗟に彼女の言葉を了解した、それで私は聞いた。 「川股と貴女との御関係は?」 「父の助手で、私のためには未来の夫なのでございます」 ううむと私は心の中で唸ったのである。相良の家庭は調べたが、助手までは考えていなかった。昨夜の襲撃の意味も漸くわかりかけたように思った。私はずかずかと室の一隅にすすみよると、扉の把手をまわした。 猛然と、昨夜の若者は室内に躍り出でた。真弓子の姿を見ると、いきなり走りよって、私から遠くへ身をもってかばった。 「お嬢さん、こやつ怪しからぬ偽紳士ですよ。探偵なんて、どうだかあやしいものだ。一昨日の晩は、私のお預りしていた金庫に手を懸けたやつです。そればかりじゃない。先生を脅迫しているのも、こやつの差金に違いありません。私は何もかも知っているのです。こやつを生かして置いては……」 川股と呼ぶ若者は真弓子の方にすりよって、なにものかを求めるようであった。真弓子は渡したものかどうか躊躇の色が流れている。 このとき二人が背にしていた入口の扉が音もなく開いてピストルが顔を出した。 「二人とも手を上げろ、命がないぞ」 根賀地の声だった。川股と真弓子は観念して両手を高くさしあげた。見れば根賀地は真紅な顔をしていた。彼の眼と唇とは私に読唇術で呼びかけていた。 それに答えると、根賀地の唇は無音ながら高速度に開いたり閉ったり左右へ動いた。 「ヤヤッ!」 私は根賀地の語るところの重大事件に、思わず驚きの声を発してしまった。 「お二人さん。お気の毒ながら、その室で少し休憩していて下さい。いずれのち程、お迎えに誰かを寄越します。一秒を争うので、少し荒っぽい方法で失礼ですが……」 根賀地はすかさず、二人を川股の入っていた室に閉じこめた。 一大事! 私達二人は屋上に出て、格納庫の扉をひらくと飛行機を引っぱり出した。われ等の搭乗機は直ちに急角度で上昇を始めた。既に天空には夥しき飛行機が入り乱れて飛んでいた。どれもこれも言い合わせたように、東へ向って舵をとっていた。太陽は中天に赫々と輝いていた。 「天文台へ!」 わが搭乗機だけが機首を[#「機首を」は底本では「機種を」]西南に向けて飛翔する。プロペラはものすさまじい悲鳴をあげていた。すれちがう毎に他の飛行機からは、赤旗をうちふってわれ等の快速力を咎めるのであった。 「先生、東に何が見えましたか?」 「いや見えない。宇宙艇が越中島を飛び出したのは何時何分だった?」 「張り込んでいた中井の電話では十一時三十三分だそうです」 「もう十八分経っている。――相良が宇宙艇にのりこんだのは本当だろうね」 「宇宙艇係の特別職工が言明したのだから間違いじゃないでしょう。相良一人が乗りこんで試験をしていたのが、どうした拍子にか空へ飛び出したというのです。職工は言っています。相良さんが乗りこんでいる内、機械が故障になって飛び出したのだと」 「そりゃどちらでもよい。会社はさわいでいるか」 「そりゃ大変なものだそうです。いままで秘密も秘密、大秘密にしてあった宇宙艇の建造のことですからね。重役は青くなって今も協議中ですが、会社の建造方針や、相良技師長苦心の設計事情について、直ちにステートメント発表の文案を起草中だそうです」 「そうか。実は昨夜も会社へしのび込んだのだが、あの中までは到頭入れなかったのだ。宇宙艇とまでは気がつかなかった」 「相良氏はどこへ行くつもりなのでしょう。会社では火星航路を開くためだったと言っていますが」 「そいつは今少したってみないと一寸わからない。――根賀地。今日は決っしてピストルを手離しちゃならぬぞ」
二人は、未だ何事も起らぬように静かな天文台へ、こっそり忍びいることが出来た。同時に事務所の矢口を呼びだして、部下の総動員を命じた。もう十五分もすれば、この天文台は私の部下によって完全に占領されるであろう。 根賀地は早速、世界唯一の天文望遠鏡に、蜥蜴の如くへばりついて調整に努力した。 間もなく、国道と空とから私の部下は天文台さして集って来た。其の中には真弓子と川股助手とを護送して来た矢口も交っていた。天文台は苦もなく占領され、台員一同はお気の毒ながら、一時地下室に入って貰った。外部から天文台への通信に対しては矢口にうまくごまかすことを命じた。真弓子と川股とは隣室に入って貰う。 「入りました、先生」 二十分許りして根賀地が叫んだことである。 私は躍る心を抑えて望遠鏡の対眼レンズに眼を押しつけた。眼前に浮び出づる直径五十センチばかりの白円の中にうつりいだされたるは鳶色の円筒であった。よくよく見ればそれは後へかすかな瓦斯体を吹き出している。急速度で進行している証拠は、少しずつピントが外れて来るので判る、おお宇宙艇。 「八千キロメートル」 根賀地が叫んだ。 把手をまわして見ると、宇宙艇の尾部に明かにそれと読みとれる日の丸の旗印と、相良の会社の銀色マーク。私は歎息した。 根賀地と計算をはじめる。相良の乗った宇宙艇の進路は、大体火星に向けられていることが、仰角と方位と速度から判った。だが、それには猶少しの疑問がないでもなかった。相良は、いつ只今の状態を自由に変えるか、こちらの方からは到底知れなかったし、六時頃その行手にあらわれる十五夜の月の影響が、一体どうであろうかを考えたのである。 夕方になった。私達は、宇宙艇の行方をじっと見つめていた。天文台の内外は、少しずつ騒がしくなって来た。警官隊や、附近の青年団などがやって来て、私の部下と懸命に争っているのであろう。この調子では、根賀地か私かが、彼等に当らねば、もちきれないかも知れないと思った。 「先生、宇宙艇の進路がかわって来ます」 私は大急ぎで望遠鏡をのぞいた。なる程、少し左へ傾きかけた。 「月の軌道より外へ出ているのか」 「そうです。正に一万キロメートル外方です」 外の騒ぎは少しずつはげしくなった。月はだいぶん高く上って来た。私は真弓子と川股とを隣室から連れて来させた。二人は心配そうな表情を浮べていたが、大変温和しくなっていた。 私は彼等に呼びかけた。 「お聞きなさい」 と私は何やら感激に胸をふるわせた。 「お聞きなさい。これからお聞かせしたり御見せしたりするものは、貴方がたにかなり勇気を要求いたします。先ず第一に、真弓さん、貴女の本当のお父さまは、無着陸世界一周飛行を敢行した操縦士風間真人氏なのです。詳しいことは言っていられないが、ここに風間氏の手記があり、これからお家へおかえりになってお母様にお聞きになっても、それにちがいなかったのだと、仰有るでしょう。 今までお父様だと思っていた相良十吉氏は貴女たちにはよい人でしたが、ある恐しい半面の所有者でした。このことの一部は、川股さんも御存知の筈です。恐しい半面。そうです。貴女のお父様である風間氏は、相良氏に殺されたのです。いや、それは全く本当なのです」 其時、隣室にガラガラと壁体の崩れる音がした。若き二人は目を見はって相抱いた。 「どうしたのです、あの物音は?」 私はもうこれまでだと思った。 「根賀地君。私の命令は守ってくれるのだ。君の顔をかえるために、私はいいものを貸してやるぞ」 私は自分の白髪頭を両手でつかむと、すっぽり帽子のように脱いだ。次に耳の下からつらなる頬髯と口髭とをとった。 「おお、あなたは!」三人の男女は声をふるわせて叫んだ。 「栗戸利休、実は松井田四郎太じゃ。根賀地君。これをつけて直ぐ防禦に立て。あと三十分だッ!」 根賀地は眼と鼻とをすすり上げて室外へ飛び出した。 「相良氏は松風号のプロペラ設計に当って恐しい仕掛けをつくったのです。それはこの地上で試験しては何一つ欠点のないプロペラです。しかし一万メートル以上の高空では気圧の低下によって、或る恐しい振動が現われることになっていたのです。其の怪振動は一秒間三十万回の超可聴周波です。耳にもきこえない振動なのです。この怪振動こそは今から二十二三年前に、ジョン・ホプキンス大学のウッド博士が発明した殺人音波の変形応用なのです。ここに相良氏のプロペラ設計書類があります。ウッド博士の公式が巧みにつかわれています。これは昨夜、川股さんが私共の事務所にお泊りのとき、例の金庫から項戴したのです。この殺人音波に気がついたのはずっとのちのことですが。最初に疑いを生じたのは、風間さんと私とが、箱根の上を飛ぶとき、五千メートルの高度にのぼったのです。そのとき実にいやな気持におそわれました。もっと高度の高いところで飛ぼうものなら、一たまりもなかったのでしょう。このことは風間君に、はっきり判っていたのかどうか存じません。しかし風間君がある覚悟を持っていたことは本当です。言わずとしれたことですが、相良氏は風間夫人であるすま子さんに不倫な恋心を持っていたのです。それを風間君は知っていたのです。だが其の頃、真弓さんがお母様の胎内にポッチリ宿っていたことについては風間君は知らなかったのです。先にお渡ししたのは関係者四人の血型検査報告で、事実は明瞭に出ています。 さて、風間氏はこの無着陸飛行を達するには出来るだけ高空にのぼって、飛行機の速力を出すつもりだったのです。そして相良氏のつくった穽に、うまくかかってしまいました。松風号は風間氏の遺骸を載せたまま尚も航空をつづけたのです。其の行方は地球上の何処にも発見せられなかったようでした。松風号はどういうわけだか、地球をはなれて、月の引力圏内にまで入ってゆきました。燃料はもうすっかり無くなっていましたが、あとは月に引かれて、月のまわりを惑星のようにグルグル廻りつづけているのです。私の命令で此の天文台に働いていた根賀地君は到頭、今から一週間前に、それを発見したのです」 私は相良氏に、松風号が空間に夢の如く浮遊しているのを見せて、失心させたことも話した。その結果、相良氏が、兼ねて研究中の宇宙艇にとびのって火星へ発足した決死的冒険をも話してきかせた。二人は蒼白の顔を私の方へもたげたまま一語も発しはしなかった。 「オヤッ」 と私は低く叫んだ。左へコースを曲げたと思った宇宙艇は、今では思いがけなく、右へすすんでいるではないか。月は既に宇宙艇をやや右に通り越しているところだった。左へ曲るも右へ曲るも畢竟、月の引力を受けていたのだ。故意か偶然か、宇宙艇は遂に火星へ飛ぶべき進路を妨げられてしまった。 宇宙艇の船腹には太陽の光がとどいているので鳶色の船体がくっきり浮び出ていた。其の時、望遠鏡の円い視界の中に、左端からしずしずと動き出でたものがあった。銀色に光る小さいTの字。おお、それは紛れもない松風号だった。 ――松風号は宇宙艇のすぐうしろにつづいてこれを静かに追っているかのように見えた。追うも追われるも、これ倶に屍体にあやつられる浮船である。私が企てた復仇を待つまでもなく今天涯にのがれ出でた相良十吉であったが、風間真人の執念は未だにくつることなく彼の人の上にかかっているようだ。二つの浮船の行手間近かに聳え立つは荒涼として死の国の城壁かと思わるる月陰の地表である。凄惨限りなき空中墳墓! おおこの奇怪きわまりなき光景を望んで気が変にならないでいられるものがあり得ようか。私は、真弓子と其の愛人に望遠鏡をゆずることさえ忘れて、其の場に立ちつくしていたのである。
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