自動車が庁舎の前のゆるい勾配を一気に駈け上ると、根賀地が第一番に広場の砂利の上に降り立った。入口にピタリと身体をつけていたが、やがて大きな鉄扉が、地鳴りのような怪音と共に、静かに左右へ開いた。私達三人は滑るようにして内へ駈けこんだ。 「天文台のドームの中に入っただけで、気が変になるような気がする」と言った人がある。全くドームの中の鬼気人に迫る物凄じさはドームへ入ったことのある者のみが、知り能うところの実感だ。そこには恐しく背の高い半球状の天井がある。天井の壁も鼠色にぬりつぶされている。二百畳敷もあろうかと思われる円形の土間の中央には、奇怪なプリズム形をした大望遠鏡が斜に天の一角を睨んでいる。傍らのハンドルを廻すとカラカラと音がして、球形の天井が徐々に左右へ割れ、月光が魔法使いの眼光でもあるかのように鋭くさしこむ。今一つのハンドルを廻すと、囂々たる音響と共に、この大きな半球型の天井が徐々にまわり始めるのだった。 「先生、あと五分しかありません」 襲撃事件でわれ等は貴重なる時間を空費し過ぎた。 「それでは。――相良さん。御依頼の件の御報告をいたします。口で申上げるよりも、根賀地研究員のおさしず通りにやって下さるのがいいと思います。じゃ根賀地君。順序通りにやって下さい」 先程から相良十吉はワナワナと慄えているのだった。彼は冷静と放胆とを呼びもどそうと、懸命に頭を打ちふり、頤をなでているのだった。 「相良さん、これから覗いて下さい。これは一番倍率の低い望遠鏡で見た月の表面です」 相良十吉は、おそるおそる前へ出て、大望遠鏡の主体についた小さい副望遠鏡をのぞきこむのであった。 「では、こんどはこちらを……。少し倍率が大きくなりました。カルレムエ山脈が、少し大きく見えるでしょう。それは更にこちらの方を御覧になるともっと大きくなります。 それでは、いよいよメーンの望遠鏡です。カルレムエ山脈第一の高峰ウルムナリ山巓が見えるでしょう。こんなに大きく見える望遠鏡を持っているのはこの中央天文台だけです。有名なウィルスン天文台の一番大きい望遠鏡でもこの千分の一しか出ません」 相良十吉は望遠鏡に吸いついたようになっていた。月が隠れるまでにもうあと二分弱。 「こちらに把手があります。これをねじると、ピントが月の表面からだんだんと地球の方へ近よって来ます。隕石が飛んでいるのが見えるでしょう。これで二千キロメートルだけ近くなりました。この調子でかえて行きますよ。見えますか。さて、気をつけていて下さい。左下の部分に現われて来るものに……」 キャーッと魂切る悲鳴が起った。死人の胸のようなドームの壁体がユラユラと振動してウワンウワンウワンと奇怪な唸り音がそれに応じたようであった。支える遑もなく相良十吉は気を失って、うしろにどうと仆れてしまった。 私は直ぐさま眼をレンズにつけたが、惜しむや数秒のちがいで、かねて計算通りに襲い来った密雲で、視野はすっかり閉じられてしまった。 「とうとうあれを見たのですよ」 根賀地が低くささやいた。 相良の身体を抱きおこして、ウィスキーを呑ませたり、名をよんでみたりした。五分程して彼は、うっすら眼を開いたが、ひどく元気がなかった。 「松井田!」 聞きとれ難いほど低い声で、こう相良は唸った。私はポケットから調書をとり出すと彼の耳のところで、しっかりした言調を選んでよみ聞かせてやった。 「松井田は世人を欺いていた。たしかに生きている。だがそれには無理ならぬ事情もあるのだ。風間操縦士が一周機の運用能率上、松井田の下機を突如命じた。それは広島近くの出来事だった。月影さえない真暗闇の中だった。 松井田はしばらく風間と争論した。この飛行を成功させるという点に於て、又風間の説くところの最大能率発揮のため急角度に高空へ昇るのにも、又、飛行機のバランス復旧をはかる上に於ても、搭乗者が一人減ることが大変好ましいことも肯けた。いろいろ前々からの事情もあって、出発のときには松井田の同乗を断れなかった。で、兎も角もここで下りてほしい。成功した上はあとで君のために説明をつける。失敗しても一定時日のあとで君が釈明して呉れればよいではないか。落下傘は用意してある。急いで下りてくれ、とのことだった。 松井田にもいろいろと言い分もあり、それでは困る事情もあったが、風間への恩義と友情とそれから真理のため、その請をきき入れねばならなかった。そこで最後の握手をすると松風号からヒラリと飛び下りた。落下傘はうまくひらいた。一時間あまりかかって下りたところは、島根県のある赤禿げ山の顛きだった。彼は少量の携帯食糧に飢を凌いだが、襲い来った山上の寒気に我慢が出来なかった。仕方なく落下傘を少しずつやぶっては燃料にした。 松井田の姿は軈てこっそり麓村に現われた。それから間もなく、一周機の失跡も知った。彼は名のって出るべきでありながら一向それをしようとはしなかった。松井田は極く若い青年時代にある事情から殺人罪を犯している身の上だった。いま名乗って出れば、松風号の失跡について、なにからなにまでうさんくさく調べられることがわかっていた。かれは自分の身の上までの露見を恐れたのだ。それからというものは、彼はずっと島根県にブラブラしていた。それがこの頃、東京へ出て来たのには訳がある。彼は一つの疑問を持っていた……」 ここまで私が喋りつづけると、いきなり相良が金切声をあげて叫んだことである。 「あとは判った。イヤなにもかも判ったです。その辺に松井田が現われたら、彼に言って下さい。お前は大馬鹿者だ、トナ」 猶も相良は口の中でブツブツ呟いていた。 自動車が三人を乗せて新宿まで来たときに、私一人は降り、根賀地に相良を自宅まで送りとどけるように命じたのであった。新宿街のペイブメントには、流石に遊歩者の姿も見当らず、夜はいたくも更けていた。
次の日の朝であった。例によって私は午前十時に目を醒ました。窓を開いて見ると珍らしく快晴だった。ベルを鳴らすと、執事の矢口と、根賀地が入って来た。 「先生、あの若僧はどうしましょう。先生の傷はどうですか」 と根賀地が尋ねた。私は左腕を少し曲げてみたが、針でさすような疼痛につきあたった。 「昨夜、あれから手術をやって貰ったのでもう心配はない。それからあの若先生だが、もう三十分もしたらこっちへ来て貰うのだナ。昨夜相良氏はどうした?」 「あの男は、今朝も例のとおり、会社へ出かけてゆきましたよ。青い顔はしていましたが不思議に元気でしたよ。昨夜の容子じゃ、自殺するかナ、と思いましたが、今朝の塩梅じゃ、相良十吉少々気が変なようですね」 「なにか手に持っていたか」 「近頃になく持ちものが多いようでしたよ。手さげ鞄に小さい包が二つ」 ここで私は黙り込んだ。不図眼をあげると根賀地が常になく難しい面持をしていた。そして急に私を呼びかけたのである。 「先生。今度の事件ばかりは、僕にちっとも内容がつかめないのですがな。先生は僕を半年前から中央天文台に祭り上げてしまいました。先生の教えて下すった天文機械学の要点は割合にうまくのみこめて、台長や主任からも別に怪まれずに居ます。相良氏が舞台へ現われて来て、いよいよ事件は白熱化したと思いました。私は一生懸命で天文台の職分を守り、又先生の御命令に弁じています。随分妙なくどき方ですが、これも今度の事件が私にちっとも呑み込めないことなんです。先生、一体相良氏は悪人ですか、それとも同情すべき善人なのでしょうか。それから、私はまだ松井田に出会わないのです。しかし先生は松井田の告白書をお持ちのようです。先生は松井田の居所をつきとめていらっしゃるのですか」 私は微笑を以て、静かに言った。 「案外簡単な事件なんだよ、根賀地君。何を置いてもあの若先生に伺ってみるのが一番面白かろうよ、じゃ連れて来給え」 其のとき、矢口が訪客のあるのを告げた。「相良真弓子」 根賀地が室を出てゆくと、入れちがいに真弓子が入って来た。 帽子からスカート迄、白ずくめの服装をしていた。ただコートの折りかえしだけが眼が痛くなるような紫の天鵞絨だった。上気した頬と、不安らしくひそめた眉と、決心しているらしい下唇とが私の眼に映じたのであった。 「栗戸さんでいらっしゃいますか」 私に軽く首を下げた。
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