英本土上陸作戦の前夜(えいほんどじょうりくさくせんのぜんや)
9「あら、あなた、なにを読んでいらっしゃるの」 眠っているとばかり思っていたアンが、いきなりむくむくと起き上って、仏(フォー)の持っていた新聞をひったくった。 アンは、なぜか、険(けわ)しい目をして、新聞の面を大急ぎで見ていたが、「あら、これ、ずいぶん古い新聞なのね」 と、溜息(ためいき)と共にいった。「こんな古新聞紙を、どこでお拾いになったんですの」「おれのポケットに入っていたんだ。その前には、この中国服を包んであった。ブルートの監獄を出るとき、看守が渡してくれた」「え、ブルートの監獄ですって」 アンは、なにを思いだしたか、恐(おそろ)しそうに、体をすくめた。「アン。これごらんよ。こんな記事に、鉛筆でアンダーラインがしてあるんだが、誰が、これを引いたんだろうね」 そういって、仏天青(フォー・テンチン)は、例の日本将校フクシ大尉の失踪(しっそう)に関するパリ電信の記事を見せた。 アンは、その記事を読んで、仏の顔を見たが、首を左右に振った。「誰がつけたのか、あたしは知らないわ。看守さんが引いたのじゃないかしら」 彼も、それを聞いて、首を振った。「アン。この記事を見て、なにか感想はないかね」「感想? べつにないわ」 と、アンは、突放(つっぱな)すように言って、「あなたの方に感想がありそうね」「この記事の日本将校はフクシ大尉だろう。それから、リバプールで、君の目の前で、桟橋(さんばし)から海へ飛び込んだ男は、フン大尉というんだろう。フクシ大尉にフン大尉、どこか、似ているじゃないか」 仏天青は、前に自分の心に誓ったことなどはもう忘れて、アンの顔色を、鋭い眼で見つめた。 アンは、ちょっと周章(あわ)てているようであった。「あれはフン大尉という人なんですか。知らなかったわ。フン大尉とフクシ大尉、名前の頭と、そして大尉とは似ているけれど、全く別人じゃない? 第一、フクシ大尉は日本将校だし、フン大尉というのは、白人なんでしょう」「フクシ大尉は日本人で、フン大尉は白人か。なるほど、そいつは大きな違いだ」 そんなことを言っているときに、列車は、ストークの駅についた。 アンは、お腹がすいたから、サンドウィッチがたべたいといった。それからレモン水(すい)も欲しいし、序(ついで)にチョコレートと南京豆(なんきんまめ)とを買ってちょうだいなと、彼に金を渡した。 仏は、その金を握って、プラットホームに下りた。そしてアンにいわれた品物を、買い集めているうちに、列車は、ぽーっと鳴って動きだした。彼はもちっとで、ホームに置(お)き去(ざ)りにされるところだったが、いそいで駈けつけたので、やっと最後の車に飛び乗ることが出来た。 仏は、そのたくさんの買物を抱(かか)えて、十三号車まで辿(たど)りつくのに、人や荷物を分けていくため、たいへん骨が折れた。 やっと十三号車に辿りついて、アンの待っているコンパートメントに入ろうとしたとき、内側で、ひそひそと話声がしているので、彼は、はっと思って、足を停めた。 廊下に立って、そっと耳を澄(す)ましてみると話しているのは、アンと、そしてもう一人は男の声だった。言葉は、フランス語だった。男の声は、いやに疳高(かんだか)い。アンが、もうすこし低く喋(しゃべ)ってはと注意したが、その男の声は地声(じごえ)とみえて一向(いっこう)低くならなかった。「……桟橋から飛びこんだときは、後悔したよ。なぜって、海の水は、冷え切っているのだからねえ」「もっと小さい声で……」「とにかく、そんなわけで、もぐれるだけもぐっていたが、モーターボートの追跡陣(ついせきじん)は、厳重(げんじゅう)だ。もう駄目かと思ったときに、空襲警報が鳴った。これが、天の助けだ。そうでなければ、ボジャック氏は、今ごろは縄目(なわめ)の恥(はじ)をうけていたわけだ」「よかったのねえ」「だが、どうにも腑(ふ)に落ちないのは、あのものものしい騒ぎの一件だよ。われわれフランスからの避難民を、イギリスの奴等は、いやに犯罪人あつかいするじゃないか。フランスは、あんなにイギリスのために、ドイツの奴等を喰(く)い止(と)め、血を流してまでも働いてやったのに」「仕方がないよ。いまに、誤解がとけるだろうよ」「しかし当分は、小さくなって隠れていなくてはね」 仏天青は、廊下に立ってこの会話を盗み聴きしていたが、それ以上、聞くにたえなかった。ボジャック氏とかいう男は、リバプールの港へ飛び込んだ人物であり、そしてアンの連(つ)れであった。すると、アンの亭主ではないか。アンを自分の妻君だと信じていた仏天青は、全身、血が一時に逆流(ぎゃくりゅう)を始めたような気がした。(このまま、列車から飛び下りてしまおうか?) と、仏天青は、思った。 だが、彼は、遂(つい)に、そうはしなかった。そして、コンパートメントへ入っていったのであった。 彼は、初めて声の主ボジャック氏の姿に接した。長身の、目の落ちこんだ、鼻の高い男であった。言葉つきから想像したよりも、若くて逞(たくま)しい青年だった。ボジャック氏は、驚いて、座席から、ぴょんととびあがった。「そ、そのままで、どうぞ」 そういった仏天青は、両腕に抱えていたサンドウィッチだの南京豆だのを、座席のうえに置いた。それから、アンの方へ向いて、「私は、さよならを言いに来たのですよ。アン! そしてフン大尉?」 そういうと、男は、怪訝(けげん)な顔をして、自分の頬へ手をやった。「あなた。なにを言っていらっしゃるの、どうも変ね」 アンは、立ち上って、仏の腕に縋(すが)りついた。 仏は、アンの身体を、ふり放そうとしたが、それはうまくいかなかった。アンの力というよりも彼の方に、新しい疑惑(ぎわく)が湧いてきたが故(ゆえ)だった。(フン大尉と本名を呼んでやったのに、ボジャック氏は、変な顔をしたが、べつに愕(おどろ)きはしなかったぞ) 彼の当は外(はず)れたのだった。ボジャック氏は、フン大尉ではないらしい。果して、そうかどうかは、まだはっきりしないが……「あなた、なに仰有(おっしゃ)るのよ。ボジャック氏に笑われますわよ。うちの人は、監獄にいる間に、頭がすこしどうかしてしまったのよ。御免(ごめん)なさい、ボジャックさん」「わたしは、べつに何でもありませんがね。御亭主さん、気が立っているようだな」 相手の二人の間には、今もまだ芝居めいたものが感じられたが、そうまで言われて、仏天青は、これ以上、すね者扱(ものあつか)いされるのがいやだった。それは、彼の短気というか、潔癖(けっぺき)のせいであったろう。とにかく、彼は機嫌を直したことにして、座席に座った。ボジャック氏は、どうか彼の素姓(すじょう)については内密に願うと、くどくどと歎願(たんがん)したのち、ずっと後方にあるという彼の座席へ帰っていった。 10「あの方、フランスにいたとき、パン屋の店を出していた人よ。リバプールで、行(い)き逢(あ)ったんですけれど、警官に何かと間違えられて、桟橋(さんばし)から飛びこんだところまで、実はあたしが見ていたのよ。でも、可哀そうでしょう。あたしは、何も喋(しゃべ)りたくはなかったから、何も関係ないと、いっただけなのよ」 アンは、そういって弁解(べんかい)したのち、いろいろと、仏(フォー)の機嫌(きげん)をとった。「さあ、機嫌をお直しになって、買ってきていただいたもの、二人で喰べましょうよ」 アンは喰べながらも、ひとりで、くどくどと同じことを喋った。仏は、サンドウィッチを喰べたり南京豆を噛んだりしているうちに、こんどは彼の方が眠くなった。そして、いつしか時間を忘れてしまった。 仏天青(フォー・テンチン)が、目を覚(さ)ましたときには、列車はごとんと大きな音をたてて、立派な駅についたとこだった。ホームを見ると、バーミンガムと書いてあった。「ああ、バーミンガムか。なにか、ありそうだな。アン、お金をお出し。おいしいものを見つけてくるから」 仏は、アンの機嫌をとるつもりで、金を握ると、ホームへ下りていった。 ホームは、ひどく雑閙(ざっとう)していた。何を買おうかなと思っていると、改札口の向こうで、新聞売子が、新聞を高くさし上げて、何か喚(わめ)いていた。彼は、これを買う気になってそこまでいった。 新聞は、なによりの常識読本(じょうしきどくほん)だ。新聞を見ていると、忘れてしまった昔のことを、なにか思い出すよすがになるような気がする。 彼が、新聞を買っているとき、不意にうしろから抱きついた者があった。「ああ、やっと掴(つか)まえた」 女の声だ。そしてフランス語だった。しかしアンの声ではない。「誰!」 仏が、ふりかえってみると、彼に抱きついていたのは、一人の中国人らしい若い女だった。「あなた。あたし、どんなにか探していたわ。もう放れちゃ、いやよ」「誰だ、君は」「あなたの妻じゃありませんか。いやだわ、うちの人は。あたしを忘れてしまうなんて」「人ちがいだ。放してくれ」 仏は、女の様子に、変なところがあるので、彼女の手をふりほどいた。「仏天青(フォー・テンチン)。あたしを捨てていくつもり。ねえ、仏天青」「仏天青。おれの名前を知っているのか」「仏天青。あたしは、妻の金蓮じゃありませんか」 仏は、おどろいた。全く、寝耳に水の愕(おどろ)きであった。彼の名前をいいあてたばかりか、その金蓮という女は、自分は妻だというのである。「おれの妻はアンだ。それに、今また仏天青の妻の金蓮だと名乗る女が現れた。一体、これは、どういうわけだろう。どっちが本当かしら」 彼の頭は、こんがらがった麻糸(あさいと)のように乱れた。どうすればいいのやら、わけがわからなくなった。 困惑(こんわく)しきっている間に、時間がたってしまった。ふと気がついてみると、列車は、動いていた。しかも最終の車両が、もうホームの真中あたりへ来て、相当のスピードを出していた。「おい、列車、待て。ああ、アン!」 だが、金蓮は、放さなかった。まるで、子供が母親の躯(からだ)に縋(すが)りついて放れないように、金蓮は、ますます強く、彼の躯をしめつけた。「こらこら、また始めたな。困るね。さあ、放した放した」 駅員が来て、放そうとしたが、金蓮は、頑張っている。「この女、困っちまうな。中国の男の方を見れば、すぐこのとおりなんですよ」 と駅員はいった。そのとき列車は、ホームを出ていってしまった。「おい、放せというのに。金蓮さん、よく見てみなさい。君の主人だかどうだか、分るでしょう。ほら違う人だろう」「あ――」「どうだ、人違いだろう」「ああ、違う。違うんだ、今、ここにいた仏天青は、どうした。あ、仏天青を、戻しておくれ。仏天青は、こんな顔じゃない。もっと顔が長くてりっぱないい男だ。こんな若僧(わかぞう)じゃない。早く、返しておくれ」 女は、前とはうってかわって、彼をつき飛ばした。「おい、金蓮。君の探している仏天青とは、どんな字を書くのかね」 こんどは、彼が逆に金蓮の腕をつかんだ。「どんな字を書くって。こういう字だよ。あれっ、あたしは、忘れちまったよ。あそこに、書いたものを落して来た。ああ、誰かに拾われると、たいへんだ。仏天青を拾っちゃいけないよォ」 金蓮は、彼をはげしく突き飛ばすと、駅の入口の方へ走り出した。 仏は、おどろいて、その後を追おうとした。すると駅員が、彼の腕を抑(おさ)えて留(と)めた。「およしなさい。あの女は、頭が変なんです。誰にでも、ああするのです。構(かま)わない方がいいですよ」「しかし仏天青というのは……」「仏天青という名前は、私たちも、耳にたこの出来るほど聞いていますよ。あの女のいうところに従えば、その御亭主は、大使館参事官(さんじかん)で、そして世界一の美男子(びだんし)だそうです」「大使館参事官?」「どうも、あてにはなりませんがね」 駅員の話を聞いていると、あの女は、現在こそ変になっているが過去の事柄については、かなり正確な記憶を持っているように思われた。彼女のいう仏天青は、大使館参事官であって、彼よりも年配(ねんぱい)の者であり、そして美男子である――と、これだけのことが、ようやくはっきりしたのであった。 すると、彼女のいう“仏天青”と、彼自身とは、一体どんな関係に置かれているのだろうか。 発音が同じで、文字が違う同発音異人(いじん)という者もないではないが、仏天青という文字以外に、常識的に使われる文字は、そうないのであった。この上のことは、彼女に会って聞くより仕方がない。が、金蓮は、いつまでたってもかえって来なかった。彼はぼんやり、ホームの長いベンチのうえに腰を下ろして、考えつづけていた。しかし結局、金蓮のいう“仏天青”と彼自身とは容貌に於いて別個(べっこ)の人間だと思われ、また彼自身も、いきなりホームで抱きつかれた金蓮に対する印象が淡(あわ)く、どうしようかと考えているうちに、そこへロンドン急行の別の列車がホームへ入ってきたので、彼は金蓮を待つことをやめて、その列車に乗り込んだのだった。 列車は、間もなく動きだした。思いがけない情痴(じょうち)事件の駅を後にして……。
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