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英本土上陸作戦の前夜(えいほんどじょうりくさくせんのぜんや)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-24 10:53:51 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     9


「あら、あなた、なにを読んでいらっしゃるの」
 眠っているとばかり思っていたアンが、いきなりむくむくと起き上って、フォーの持っていた新聞をひったくった。
 アンは、なぜか、けわしい目をして、新聞の面を大急ぎで見ていたが、
「あら、これ、ずいぶん古い新聞なのね」
 と、溜息ためいきと共にいった。
「こんな古新聞紙を、どこでお拾いになったんですの」
「おれのポケットに入っていたんだ。その前には、この中国服を包んであった。ブルートの監獄を出るとき、看守が渡してくれた」
「え、ブルートの監獄ですって」
 アンは、なにを思いだしたか、おそろしそうに、体をすくめた。
「アン。これごらんよ。こんな記事に、鉛筆でアンダーラインがしてあるんだが、誰が、これを引いたんだろうね」
 そういって、仏天青フォー・テンチンは、例の日本将校フクシ大尉の失踪しっそうに関するパリ電信の記事を見せた。
 アンは、その記事を読んで、仏の顔を見たが、首を左右に振った。
「誰がつけたのか、あたしは知らないわ。看守さんが引いたのじゃないかしら」
 彼も、それを聞いて、首を振った。
「アン。この記事を見て、なにか感想はないかね」
「感想? べつにないわ」
 と、アンは、突放つっぱなすように言って、
「あなたの方に感想がありそうね」
「この記事の日本将校はフクシ大尉だろう。それから、リバプールで、君の目の前で、桟橋さんばしから海へ飛び込んだ男は、フン大尉というんだろう。フクシ大尉にフン大尉、どこか、似ているじゃないか」
 仏天青は、前に自分の心に誓ったことなどはもう忘れて、アンの顔色を、鋭い眼で見つめた。
 アンは、ちょっと周章あわてているようであった。
「あれはフン大尉という人なんですか。知らなかったわ。フン大尉とフクシ大尉、名前の頭と、そして大尉とは似ているけれど、全く別人じゃない? 第一、フクシ大尉は日本将校だし、フン大尉というのは、白人なんでしょう」
「フクシ大尉は日本人で、フン大尉は白人か。なるほど、そいつは大きな違いだ」
 そんなことを言っているときに、列車は、ストークの駅についた。
 アンは、お腹がすいたから、サンドウィッチがたべたいといった。それからレモンすいも欲しいし、ついでにチョコレートと南京豆なんきんまめとを買ってちょうだいなと、彼に金を渡した。
 仏は、その金を握って、プラットホームに下りた。そしてアンにいわれた品物を、買い集めているうちに、列車は、ぽーっと鳴って動きだした。彼はもちっとで、ホームにりにされるところだったが、いそいで駈けつけたので、やっと最後の車に飛び乗ることが出来た。
 仏は、そのたくさんの買物をかかえて、十三号車まで辿たどりつくのに、人や荷物を分けていくため、たいへん骨が折れた。
 やっと十三号車に辿りついて、アンの待っているコンパートメントに入ろうとしたとき、内側で、ひそひそと話声がしているので、彼は、はっと思って、足を停めた。
 廊下に立って、そっと耳をましてみると話しているのは、アンと、そしてもう一人は男の声だった。言葉は、フランス語だった。男の声は、いやに疳高かんだかい。アンが、もうすこし低くしゃべってはと注意したが、その男の声は地声じごえとみえて一向いっこう低くならなかった。
「……桟橋から飛びこんだときは、後悔したよ。なぜって、海の水は、冷え切っているのだからねえ」
「もっと小さい声で……」
「とにかく、そんなわけで、もぐれるだけもぐっていたが、モーターボートの追跡陣ついせきじんは、厳重げんじゅうだ。もう駄目かと思ったときに、空襲警報が鳴った。これが、天の助けだ。そうでなければ、ボジャック氏は、今ごろは縄目なわめはじをうけていたわけだ」
「よかったのねえ」
「だが、どうにもに落ちないのは、あのものものしい騒ぎの一件だよ。われわれフランスからの避難民を、イギリスの奴等は、いやに犯罪人あつかいするじゃないか。フランスは、あんなにイギリスのために、ドイツの奴等をめ、血を流してまでも働いてやったのに」
「仕方がないよ。いまに、誤解がとけるだろうよ」
「しかし当分は、小さくなって隠れていなくてはね」
 仏天青は、廊下に立ってこの会話を盗み聴きしていたが、それ以上、聞くにたえなかった。ボジャック氏とかいう男は、リバプールの港へ飛び込んだ人物であり、そしてアンのれであった。すると、アンの亭主ではないか。アンを自分の妻君だと信じていた仏天青は、全身、血が一時に逆流ぎゃくりゅうを始めたような気がした。
(このまま、列車から飛び下りてしまおうか?)
 と、仏天青は、思った。
 だが、彼は、ついに、そうはしなかった。そして、コンパートメントへ入っていったのであった。
 彼は、初めて声の主ボジャック氏の姿に接した。長身の、目の落ちこんだ、鼻の高い男であった。言葉つきから想像したよりも、若くてたくましい青年だった。ボジャック氏は、驚いて、座席から、ぴょんととびあがった。
「そ、そのままで、どうぞ」
 そういった仏天青は、両腕に抱えていたサンドウィッチだの南京豆だのを、座席のうえに置いた。それから、アンの方へ向いて、
「私は、さよならを言いに来たのですよ。アン! そしてフン大尉?」
 そういうと、男は、怪訝けげんな顔をして、自分の頬へ手をやった。
「あなた。なにを言っていらっしゃるの、どうも変ね」
 アンは、立ち上って、仏の腕にすがりついた。
 仏は、アンの身体を、ふり放そうとしたが、それはうまくいかなかった。アンの力というよりも彼の方に、新しい疑惑ぎわくが湧いてきたがゆえだった。
(フン大尉と本名を呼んでやったのに、ボジャック氏は、変な顔をしたが、べつにおどろきはしなかったぞ)
 彼の当ははずれたのだった。ボジャック氏は、フン大尉ではないらしい。果して、そうかどうかは、まだはっきりしないが……
「あなた、なに仰有おっしゃるのよ。ボジャック氏に笑われますわよ。うちの人は、監獄にいる間に、頭がすこしどうかしてしまったのよ。御免ごめんなさい、ボジャックさん」
「わたしは、べつに何でもありませんがね。御亭主さん、気が立っているようだな」
 相手の二人の間には、今もまだ芝居めいたものが感じられたが、そうまで言われて、仏天青は、これ以上、すね者扱ものあつかいされるのがいやだった。それは、彼の短気というか、潔癖けっぺきのせいであったろう。とにかく、彼は機嫌を直したことにして、座席に座った。ボジャック氏は、どうか彼の素姓すじょうについては内密に願うと、くどくどと歎願たんがんしたのち、ずっと後方にあるという彼の座席へ帰っていった。


     10


「あの方、フランスにいたとき、パン屋の店を出していた人よ。リバプールで、ったんですけれど、警官に何かと間違えられて、桟橋さんばしから飛びこんだところまで、実はあたしが見ていたのよ。でも、可哀そうでしょう。あたしは、何もしゃべりたくはなかったから、何も関係ないと、いっただけなのよ」
 アンは、そういって弁解べんかいしたのち、いろいろと、フォー機嫌きげんをとった。
「さあ、機嫌をお直しになって、買ってきていただいたもの、二人で喰べましょうよ」
 アンは喰べながらも、ひとりで、くどくどと同じことを喋った。仏は、サンドウィッチを喰べたり南京豆を噛んだりしているうちに、こんどは彼の方が眠くなった。そして、いつしか時間を忘れてしまった。
 仏天青フォー・テンチンが、目をましたときには、列車はごとんと大きな音をたてて、立派な駅についたとこだった。ホームを見ると、バーミンガムと書いてあった。
「ああ、バーミンガムか。なにか、ありそうだな。アン、お金をお出し。おいしいものを見つけてくるから」
 仏は、アンの機嫌をとるつもりで、金を握ると、ホームへ下りていった。
 ホームは、ひどく雑閙ざっとうしていた。何を買おうかなと思っていると、改札口の向こうで、新聞売子が、新聞を高くさし上げて、何かわめいていた。彼は、これを買う気になってそこまでいった。
 新聞は、なによりの常識読本じょうしきどくほんだ。新聞を見ていると、忘れてしまった昔のことを、なにか思い出すよすがになるような気がする。
 彼が、新聞を買っているとき、不意にうしろから抱きついた者があった。
「ああ、やっとつかまえた」
 女の声だ。そしてフランス語だった。しかしアンの声ではない。
「誰!」
 仏が、ふりかえってみると、彼に抱きついていたのは、一人の中国人らしい若い女だった。
「あなた。あたし、どんなにか探していたわ。もう放れちゃ、いやよ」
「誰だ、君は」
「あなたの妻じゃありませんか。いやだわ、うちの人は。あたしを忘れてしまうなんて」
「人ちがいだ。放してくれ」
 仏は、女の様子に、変なところがあるので、彼女の手をふりほどいた。
仏天青フォー・テンチン。あたしを捨てていくつもり。ねえ、仏天青」
「仏天青。おれの名前を知っているのか」
「仏天青。あたしは、妻の金蓮じゃありませんか」
 仏は、おどろいた。全く、寝耳に水のおどろきであった。彼の名前をいいあてたばかりか、その金蓮という女は、自分は妻だというのである。
「おれの妻はアンだ。それに、今また仏天青の妻の金蓮だと名乗る女が現れた。一体、これは、どういうわけだろう。どっちが本当かしら」
 彼の頭は、こんがらがった麻糸あさいとのように乱れた。どうすればいいのやら、わけがわからなくなった。
 困惑こんわくしきっている間に、時間がたってしまった。ふと気がついてみると、列車は、動いていた。しかも最終の車両が、もうホームの真中あたりへ来て、相当のスピードを出していた。
「おい、列車、待て。ああ、アン!」
 だが、金蓮は、放さなかった。まるで、子供が母親のからだすがりついて放れないように、金蓮は、ますます強く、彼の躯をしめつけた。
「こらこら、また始めたな。困るね。さあ、放した放した」
 駅員が来て、放そうとしたが、金蓮は、頑張っている。
「この女、困っちまうな。中国の男の方を見れば、すぐこのとおりなんですよ」
 と駅員はいった。そのとき列車は、ホームを出ていってしまった。
「おい、放せというのに。金蓮さん、よく見てみなさい。君の主人だかどうだか、分るでしょう。ほら違う人だろう」
「あ――」
「どうだ、人違いだろう」
「ああ、違う。違うんだ、今、ここにいた仏天青は、どうした。あ、仏天青を、戻しておくれ。仏天青は、こんな顔じゃない。もっと顔が長くてりっぱないい男だ。こんな若僧わかぞうじゃない。早く、返しておくれ」
 女は、前とはうってかわって、彼をつき飛ばした。
「おい、金蓮。君の探している仏天青とは、どんな字を書くのかね」
 こんどは、彼が逆に金蓮の腕をつかんだ。
「どんな字を書くって。こういう字だよ。あれっ、あたしは、忘れちまったよ。あそこに、書いたものを落して来た。ああ、誰かに拾われると、たいへんだ。仏天青を拾っちゃいけないよォ」
 金蓮は、彼をはげしく突き飛ばすと、駅の入口の方へ走り出した。
 仏は、おどろいて、その後を追おうとした。すると駅員が、彼の腕をおさえてめた。
「およしなさい。あの女は、頭が変なんです。誰にでも、ああするのです。かまわない方がいいですよ」
「しかし仏天青というのは……」
「仏天青という名前は、私たちも、耳にたこの出来るほど聞いていますよ。あの女のいうところに従えば、その御亭主は、大使館参事官さんじかんで、そして世界一の美男子びだんしだそうです」
「大使館参事官?」
「どうも、あてにはなりませんがね」
 駅員の話を聞いていると、あの女は、現在こそ変になっているが過去の事柄については、かなり正確な記憶を持っているように思われた。彼女のいう仏天青は、大使館参事官であって、彼よりも年配ねんぱいの者であり、そして美男子である――と、これだけのことが、ようやくはっきりしたのであった。
 すると、彼女のいう“仏天青”と、彼自身とは、一体どんな関係に置かれているのだろうか。
 発音が同じで、文字が違う同発音異人いじんという者もないではないが、仏天青という文字以外に、常識的に使われる文字は、そうないのであった。この上のことは、彼女に会って聞くより仕方がない。が、金蓮は、いつまでたってもかえって来なかった。彼はぼんやり、ホームの長いベンチのうえに腰を下ろして、考えつづけていた。しかし結局、金蓮のいう“仏天青”と彼自身とは容貌に於いて別個べっこの人間だと思われ、また彼自身も、いきなりホームで抱きつかれた金蓮に対する印象があわく、どうしようかと考えているうちに、そこへロンドン急行の別の列車がホームへ入ってきたので、彼は金蓮を待つことをやめて、その列車に乗り込んだのだった。
 列車は、間もなく動きだした。思いがけない情痴じょうち事件の駅を後にして……。

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