英本土上陸作戦の前夜(えいほんどじょうりくさくせんのぜんや)
3 トラックの上には、いろいろな種類の人間が乗っていた。いずれも皆、そのあたりを歩いていた町の人々らしかった。 トラックは、それから暫(しばら)く走ったが、やがて「防空壕アリ」と建札(たてふだ)のあるビルディングのところまで来ると、ぴたりと停った。「さあ、防空壕へはいった。しずかに、そして早く……」 指導員らしいのが叫んだ。 仏天青(フォー・テンチン)も、人々のうしろから、柵の中にはいった。狭い下(くだ)り坂(ざか)を、ついていくと、やがて、電灯のついただだっ広(ぴろ)い部屋が見えた。ぷーんと饐(す)えくさい空気が、彼の鼻をうった。 彼の頭は、急に、ずきんずきんと痛みだした。よほど廻れ右をしようかと思ったが、あとからまた押してくる人で、それは不可能だった。 婦人の金切声(かなきりごえ)と、子供の泣き叫ぶ声とで、壕の中は、さらに息ぐるしかった。天井は、角材を格子(こうし)に組んであったが、非常に低かった。換気(かんき)もよろしくない。監獄の防空室にくらべると、たいへん劣(おと)る。「おい、立ち停(どま)らんで、もっと奥へはいってくれ」「そう押しても、駄目だよ。前には、子供がいるんだ」「おい、煙草の火を消せ。消さないと、つまみ出すぞ」 人気(にんき)は荒かった。彼は押されているうちに斜面(しゃめん)を滑(すべ)って、避難の市民の頭のうえに墜(お)ちそうになった。 すると、下から、彼の服を引張った者がある。「おい、乱暴するな。墜ちるじゃないか」 彼は、眩(まぶ)しい電灯の下にあったので、顔をしかめて、下を見た。「あなたァ、ここよ。早く早く」「え」 見ると、見も知らぬ若い白人の女が、しきりに、彼の中国服の裾(すそ)を引張(ひっぱ)っているのであった。「誰です、君は。人違(ひとちが)いでしょう」 彼は、そう叫びかえしたが、その女には、すこしも聞こえないらしい。「あなたァ、そっちへいっちゃ駄目よ。いいから、そこを滑(すべ)り下(お)りて……」 そのときには、彼の躯(からだ)は、早くも斜面の端(はし)からはみ出し、ずるずると下に落ちていった。「あなたァ、どうなさったかと思っていたわ。まあ、よかった。おお神さま」 見ると女は、口先だけで、神の名を称(とな)え、そしてその眼は、仏天青の眼に、じっと注(そそ)がれていた。「君は……」 といおうとすると、「あなたァ……」 といって、いきなり女の両の腕が、仏(フォー)の首(くび)にまきついた。後は、何もいうことが出来なかった。彼の口は、女の唇で、ぴたりと蓋をされてしまったのである。彼は、気が遠くなる想(おも)いで、躯の自由をうしなってしまった。 ただそのとき覚えているのは、やや、しばらくして、女が、はげしい息づかいとともに、彼の耳に、いくども囁(ささや)いた言葉だった。「……なんにも言わないで……なんにも考えないで……そしてもうあたしを捨てていかないでよゥ」 彼は、名状(めいじょう)すべからざる困惑(こんわく)を感じた。しかし遂(つい)に、彼は女の躯から手を放そうとはしなかった。自分の胸の中で、鳴咽(おえつ)するその女が、ただもういじらしくて仕方がなかったし、それに、(うむ、ひょっとすると、この女は、自分の女房(にょうぼう)であるかもしれない) と思ったのである。 彼は、女の髪をやさしく撫(な)でてやった。 女は、また更に大きな声をあげて、彼の胸の上で泣きだした。(……おれは、女房にめぐり合ったんだ。どうも、それに違いない。女房のやつ、おれがもう監獄から出てくるかと思って、今日もこのへんをうろうろしていたんだ。そこへ空襲警報が鳴り響き、この防空壕へとびこんだ。そして神の名を呼んでいると、その前へ、いきなりおれの顔が電灯の光の中に現れた。そこで必死になって、おれの服をもって引き下ろしたのだ。どうも、そうらしい。いや、それに違いない) 彼は、女の髪の上に、そっと唇を押しつけた。(……おれの女房は、空襲が終ったら、おれを自分の家へ連れていってくれるだろう。そして、おれが知りたいと願っていたおれの過去について、すっかり説明をしてくれるだろう) 彼は、女の背に、手をまわした。「おう、可愛い私の……」 彼は、その先の言葉につまった。「私のアン……」 女が、そういった。「そうだ。可愛い可愛い私のアン。私はもう、どこへもいきはしないよ」 彼は、そういうと、唇をかんだ。頬を、止(と)め度(ど)もなく、熱い涙がほろほろと、滾(こぼ)れ落ちた。 4 仏天青(フォー・テンチン)は、アンと抱きあっていた。 それから暫(しばら)くして、彼は、アンの腰のあたりに、変に硬いものが当るので、ふしぎに思って、そこを見た。「おや、アン。これはどうしたのかね」 彼は、アンの腰に、丈夫(じょうぶ)な綱(ロープ)がふた巻もしてあるのを発見した。しかもその綱の先は、防空壕の肋(ろく)材の一本に、堅く結んであった。まるで囚人(しゅうじん)をつないであるような有様であった。「いいのよ、あなた」「よかないよ。説明をおし。これじゃ、まるで……おや、手も、そうじゃないか」 アンの手首は、いつの間にか綱(ロープ)でしばられていた。「大丈夫。手首はぬけるのよ」 といって、アンは、綱のくくり目から、手首をぬいてみせた。しかし腰の紐(ひも)までは、ぬいてみせなかった。もちろん、それは抜けないように二重に縛ってあった。「アン。なにもかもお話し。一体……」「しっ」 そのとき、仏天青のうしろから、どら声を張りあげたものがあった。「こら、女。逃げると承知しないぞ」 仏は、むっとして、うしろを振り向いた。胸に徽章(きしょう)を輝かした私服警官が立っていた。 アンは、綱でしばられたまま手首をつと動かして、仏の服をおさえた。「あなた、黙ってて……」 アンは、彼に注意を与えると、私服警官の方へ仰向(あおむ)き、「あたしの夫が、帰って来てくれました。このとおり、あたしを抱いていてくれます。人違(ひとちが)いだとお分りでしょう。このいましめの綱を、解いてくださいませ」「なんじゃ。お前の亭主が帰って来たと。なるほど、中国人らしい面じゃ……だが、本当かどうか信用できるものか」「そんなことは、ありません。ねえ、あなた。この警官は、なにか大へん勘ちがいをしていらっしゃるのですよ。結婚のとき取交(とりか)わしたあたしの名前を彫(ほ)った指環(ゆびわ)を見せてあげてください……」「指環? 指環どころか一切の所持品は……」 盗られてしまったと、仏(フォー)はいいかけたのを、アンは素早く引取って、話題を転じた。「けさのことよ。リバプールの桟橋(さんばし)から、海へ飛びこんだ男があったのよ。そのとき、たいへんな騒ぎが起ったんですけれど、この警官たち、あたしが、その自殺男の妻君(さいくん)にちがいないとおきめになって、とうとうこんな目に……」「自殺男じゃない」と、私服警官は、アンを怒鳴(どな)りつけたが「まあ、もう少し温和(おとな)しくして待っていろ、空襲が終り次第、どっちが、お前の本当の亭主だか、よく調べてやる」 仏は、黙りこくって、唇を噛んだ。 そのとき、とつぜん、飛行機の爆音を耳にした。「ひえーッ、敵機が……」「ああ神よ、われらを護(まも)り給(たま)わんことを」 防空壕の人々の中からは、一せいに悲鳴(ひめい)と祈りとが起った。と、あまり遠くないところで、轟然(ごうぜん)たる爆発音が聞え、大地はびしびしと鳴った。「墜(お)ちた、近いぞ」 わァと喚(わめ)いて、逃げ腰になる。それを、叱りつける者がある。 仏とアンとの傍に立っていた私服警官は、二人を睨(にら)みつけておいて、そのまま身を翻(ひるがえ)すと、防空壕の入口の方へ駈け上っていった。 また、爆音が聞えた。今度は、よほど近い。ばらばらと、天井から砂が落ちて来た。大地は、地震のように鳴動(めいどう)した。「マスクは、出してお置きなさい。マスクのない人は、奥へいってください」 あっちでもこっちでも、お祈りの声だ。「今度は、あぶない」「おい、もっと奥へいこう」 揉(も)みあっている一団があった。「騒いじゃ、駄目だ、敵機の音が聞えやしない」「あたしゃ、昨日の空爆で、両親と夫を、失ったんだ。こんどは、あたしの番だよ。自分がこれから殺されるというのに、黙っていられるかい」「まだ子供がいるだろう。年をとった別嬪(べっぴん)さん」「なにをいうんだね。子供なんか、初めから一人もないよ」「そうかい。だからイギリスは、兵隊が少くて、戦争に負けるんだ」「なにィ……」 そのときだった。 天地もひっくりかえるような大音響(だいおんきょう)が起った。入口の方からは、目もくらむような閃光(せんこう)が、ぱぱぱぱッと連続して光った。防空壕は、船のように揺れた。そして異様(いよう)な香りのある煙が、侵入してきた。がらがらと壁が崩れる音、電灯は、今にも消えそうに点滅(てんめつ)した。避難の市民たちは一どきに立ち上って、喚いた。「逃げろ。爆弾が、こんどはこの防空壕をこわすぞ」「貴様、うちの子供の上に……」「あ、毒瓦斯(どくガス)。マスクだ、マスクだ」「国歌を歌おう」「毒瓦斯だ。そう来るだろうと思ったんだ、ナチ奴(め)!」 だが、それは毒瓦斯ではなく、単に硝煙(しょうえん)であった。破甲爆弾(はこうばくだん)が、この防空壕の、すぐ傍(わき)に墜ちたのだった。 入口から、ばらばらと数人の者が駆けこんで来た。何か長いものを持ちこんで来たと思ったら、それは負傷者だった。「胸だ、胸だ。シャツを裂(さ)け」「こっちへ寄せろ。電灯(あかり)の方へ……」 胸を真赤に染めた男の顔が、電灯の光に、ぱっと照らし出された。その男は、紙のように、真白な顔色をしていて、目が引きつっていた。よく見ると、それは、さっき、アンを咎(とが)めた私服警官であった。「あなた、逃げましょう」「えっ」「綱を切ってよ。ナイフは、ここにあるわ」「よし、こっちへ貸せ」 どこから出したものか、アンの手にはジャック・ナイフがあった。仏天青は、刃を出すと、ぷすっと綱を切(き)った。「ああ、助かった。さあ、逃げるのです」「アン、どこへいく。あ、今、外へいっちゃ、危い。入口でやられた人があるじゃないか」「いいのよ。こうなれば、どこにいても同じことよ。さあ一緒に逃げてよ」 アンは、ぐいぐいと仏天青の手を引張った。「危い。もうすこしの間、待て」「いいえ、待てないわ。じゃ、あたしひとりでいきますわ」 アンは、入口の方へ上っていった。「おい、アン、待て。おれも出る」 仏は、そういうと、中国服の裾(すそ)を摘(つま)んで、アンの後を追った。
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