千呪陀羅尼
毒ありと疑へばものも食はず、薬もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、優しきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、罵り叫びてあれたりしが、つひには声も出でず、身も動かず、われ人をわきまへず心地死ぬべくなれりしを、うつらうつら舁きあげられて高き石壇をのぼり、大なる門を入りて、赤土の色きれいに掃きたる一条の道長き、右左、石燈籠と石榴の樹の小さきと、おなじほどの距離にかはるがはる続きたるを行きて、香の薫しみつきたる太き円柱の際に寺の本堂に据ゑられつ、ト思ふ耳のはたに竹を破る響きこえて、僧ども五三人一斉に声を揃へ、高らかに誦する声耳を聾するばかり喧ましさ堪ふべからず、禿顱ならびゐる木のはしの法師ばら、何をかすると、拳をあげて一人の天窓をうたむとせしに、一幅の青き光颯と窓を射て、水晶の念珠瞳をかすめ、ハツシと胸をうちたるに、ひるみて踞まる時、若僧円柱をいざり出でつつ、ついゐて、サラサラと金襴の帳を絞る、燦爛たる御廚子のなかに尊き像こそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたたがみ天地に鳴りぬ。 端厳微妙のおんかほばせ、雲の袖、霞の袴ちらちらと瓔珞をかけたまひたる、玉なす胸に繊手を添へて、ひたと、をさなごを抱きたまへるが、仰ぐ仰ぐ瞳うごきて、ほほゑみたまふと、見たる時、やさしき手のさき肩にかかりて、姉上は念じたまへり。 滝やこの堂にかかるかと、折しも雨の降りしきりつ。渦いて寄する風の音、遠き方より呻り来て、どつと満山に打あたる。 本堂青光して、はたたがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつつ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝にはひあがりて、ひしとその胸を抱きたれば、かかるものをふりすてむとはしたまはで、あたたかき腕はわが背にて組合はされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る明かに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹降りのなかに陀羅尼を呪する聖の声々さわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの凄きに、身の置処あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋りながら顔もてその胸を押しわけたれば、襟をば掻きひらきたまひつつ、乳の下にわがつむり押入れて、両袖を打かさねて深くわが背を蔽ひ給へり。御仏のそのをさなごを抱きたまへるもかくこそと嬉しきに、おちゐて、心地すがすがしく胸のうち安く平らになりぬ。やがてぞ呪もはてたる。雷の音も遠ざかる。わが背をしかと抱きたまへる姉上の腕もゆるみたれば、ソとその懐より顔をいだしてこはごはその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく外をうかがふことだにならざる、静まるを待てば夜もすがら暴通しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜したまひぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に九ツ谺といひたる谷、あけがたに杣のみいだしたるが、忽ち淵になりぬといふ。 里の者、町の人皆挙りて見にゆく。日を経てわれも姉上とともに来り見き。その日一天うららかに空の色も水の色も青く澄みて、軟風おもむろに小波わたる淵の上には、塵一葉の浮べるあらで、白き鳥の翼広きがゆたかに藍碧なる水面を横ぎりて舞へり。 すさまじき暴風雨なりしかな。この谷もと薬研の如き形したりきとぞ。 幾株となき松柏の根こそぎになりて谷間に吹倒されしに山腹の土落ちたまりて、底をながるる谷川をせきとめたる、おのづからなる堤防をなして、凄まじき水をば湛へつ。一たびこのところ決潰せむか、城の端の町は水底の都となるべしと、人々の恐れまどひて、怠らず土を装り石を伏せて堅き堤防を築きしが、あたかも今の関屋少将の夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、嫩なりし常磐木もハヤ丈のびつ。草生ひ、苔むして、いにしへよりかかりけむと思ひ紛ふばかりなり。 あはれ礫を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたづらを叱り留めつ。年若く面清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛へたる淵に臨みて粛然とせり。
●表記について
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