渡船
夢幻ともわかぬに、心をしづめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまひし元のまま柔かに力なげに蒲団のうへに垂れたまへり。 片手をば胸にあてて、いと白くたをやかなる五指をひらきて黄金の目貫キラキラとうつくしき鞘の塗の輝きたる小さき守刀をしかと持つともなく乳のあたりに落して据ゑたる、鼻たかき顔のあをむきたる、唇のものいふ如き、閉ぢたる眼のほほ笑む如き、髪のさらさらしたる、枕にみだれかかりたる、それも違はぬに、胸に剣をさへのせたまひたれば、亡き母上のその時のさまに紛ふべくも見えずなむ、コハこの君もみまかりしよとおもふいまはしさに、はや取除けなむと、胸なるその守刀に手をかけて、つと引く、せつぱゆるみて、青き光眼を射たるほどこそあれ、いかなるはずみにか血汐さとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両の拳もてしかとおさへたれど、留まらで、たふたふと音するばかりぞ淋漓としてながれつたへる、血汐のくれなゐ衣をそめつ。うつくしき人は寂として石像の如く静なる鳩尾のしたよりしてやがて半身をひたし尽しぬ。おさへたるわが手には血の色つかぬに、燈にすかす指のなかの紅なるは、人の血の染みたる色にはあらず、訝しく撫で試むる掌のその血汐にはぬれもこそせね、こころづきて見定むれば、かいやりし夜のものあらはになりて、すずしの絹をすきて見ゆるその膚にまとひたまひし紅の色なりける。いまはわれにもあらで声高に、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、効なくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと覚し。顔あたたかに胸をおさるる心地に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。 われはハヤゆうべ見し顔のあかき老夫の背に負はれて、とある山路を行くなりけり。うしろよりは彼のうつくしき人したがひ来ましぬ。 さてはあつらへたまひし如く家に送りたまふならむと推はかるのみ、わが胸の中はすべて見すかすばかり知りたまふやうなれば、わかれの惜しきも、ことのいぶかしきも、取出でていはむは益なし。教ふべきことならむには、彼方より先んじてうちいでこそしたまふべけれ。 家に帰るべきわが運ならば、強ひて止まらむと乞ひたりとて何かせん、さるべきいはれあればこそ、と大人しう、ものもいはでぞ行く。 断崖の左右に聳えて、点滴声する処ありき。雑草高き径ありき。松柏のなかを行く処もありき。きき知らぬ鳥うたへり。褐色なる獣ありて、をりをり叢に躍り入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去年の落葉道を埋みて、人多く通ふ所としも見えざりき。 をぢは一挺の斧を腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、茨など生ひしげりて、衣の袖をさへぎるにあへば、すかすかと切つて払ひて、うつくしき人を通し参らす。されば山路のなやみなく、高き塗下駄の見えがくれに長き裾さばきながら来たまひつ。 かくて大沼の岸に臨みたり。水は漫々として藍を湛へ、まばゆき日のかげも此処の森にはささで、水面をわたる風寒く、颯々として声あり。をぢはここに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を抱きたまふ、衣の袖左右より長くわが肩にかかりぬ。 蘆間の小舟の纜を解きて、老夫はわれをかかへて乗せたり。一緒ならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに棹を立てぬ。船は出でつ。わツと泣きて立上りしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後にゐたまへりとおもふ人の大なる環にまはりて前途なる汀にゐたまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左手なる汀に見えき。見る見る右手なる汀にまはりて、やがて旧のうしろに立ちたまひつ。箕の形したる大なる沼は、汀の蘆と、松の木と、建札と、その傍なるうつくしき人ともろともに緩き環を描いて廻転し、はじめは徐ろにまはりしが、あとあと急になり、疾くなりつ、くるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の前にうつくしき顔の たけたるが莞爾とあでやかに笑みたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は繁く丈よりも高き汀に、船はとんとつきあたりぬ。
ふるさと
をぢはわれを扶けて船より出だしつ。またその背を向けたり。 「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの家ぢや。」と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてただ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるるやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある板塀のあたりに来て、日のややくれかかる時、老夫はわれを抱き下して、溝のふちに立たせ、ほくほく打ゑみつゝ、慇懃に会釈したり。 「おとなにしさつしやりませ。はい。」 といひずてに何地ゆくらむ。別れはそれにも惜しかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。指す方もあらでありくともなく歩をうつすに、頭ふらふらと足の重たくて行悩む、前に行くも、後ろに帰るも皆見知越のものなれど、誰も取りあはむとはせで往きつ来りつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつつ行くが、冷かに嘲るが如く憎さげなるぞ腹立しき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず向直りて、とぼとぼとまた山ある方にあるき出しぬ。 けたたましき跫音して鷲掴に襟を掴むものあり。あなやと振返ればわが家の後見せる奈四郎といへる力逞ましき叔父の、凄まじき気色して、 「つままれめ、何処をほツつく。」と喚きざま、引立てたり。また庭に引出して水をやあびせられむかと、泣叫びてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、 「しつかりしろ。やい。」 とめくるめくばかり背を拍ちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。立騒ぐ召つかひどもを叱りつも細引を持て来さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き一室に引立てゆきてそのまま柱に縛めたり。近く寄れ、喰さきなむと思ふのみ、歯がみして睨まへたる、眼の色こそ怪しくなりたれ、逆つりたる眦は憑きもののわざよとて、寄りたかりて口々にののしるぞ無念なりける。 おもての方さざめきて、何処にか行きをれる姉上帰りましつと覚し、襖いくつかぱたぱたと音してハヤここに来たまひつ。叔父は室の外にさへぎり迎へて、 「ま、やつと取返したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つてゐて、すきがあると駈け出すぢや。魔どのがそれしよびくでの。」 と戒めたり。いふことよくわが心を得たるよ、しかり、隙だにあらむにはいかでかここにとどまるべき。 「あ。」とばかりにいらへて姉上はまろび入りて、ひしと取着きたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん情手にこもりて抱かれたるわが胸絞らるるやうなりき。 姉上の膝に臥したるあひだに、医師来りてわが脈をうかがひなどしつ。叔父は医師とともに彼方に去りぬ。 「ちさや、どうぞ気をたしかにもつておくれ。もう姉様はどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」 といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、涙痕したたるばかりなり。 その心の安んずるやう、強ひて顔つくりてニツコと笑うて見せぬ。 「おお、薄気味が悪いねえ。」 と傍にありたる奈四郎の妻なる人呟きて身ぶるひしき。 やがてまた人々われを取巻きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて疑を解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、根問ひ、葉問ひするに一々説明かさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつつ心に何をかいひたる。 やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること皆人の疑を増すをいかにせむ。ひしと取籠めて庭にも出さで日を過しぬ。血色わるくなりて痩せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、後見の叔父夫婦にはいとせめて秘しつつ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、門辺にありたる多くの児ども我が姿を見ると、一斉に、アレさらはれものの、気狂の、狐つきを見よやといふいふ、砂利、小砂利をつかみて投げつくるは不断親しかりし朋達なり。 姉上は袖もてわれを庇ひながら顔を赤うして遁げ入りたまひつ。人目なき処にわれを引据ゑつと見るまに取つて伏せて、打ちたまひぬ。 悲しくなりて泣出せしに、あわただしく背をばさすりて、 「堪忍しておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」 といひかけて、 「私あもう気でも違ひたいよ。」としみじみと掻口説きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を確に、心を鎮めよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を危ぶむやうそのたびになりまさりて、果はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。 たとへば怪しき糸の十重二十重にわが身をまとふ心地しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく思あり。それをば刈払ひ、遁出でむとするにその術なく、すること、なすこと、人見て必ず、眉を顰め、嘲り、笑ひ、卑め、罵り、はた悲み憂ひなどするにぞ、気あがり、心激し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。 口惜しく腹立たしきまま身の周囲はことごとく敵ぞと思わるる。町も、家も、樹も、鳥籠も、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには一たびわれを見てその弟を忘れしことあり。塵一つとしてわが眼に入るは、すべてものの化したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて現じたるものならむ。さればぞ姉がわが快復を祈る言もわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、一たびおもひては堪ふべからず、力あらば恣にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴飛ばしやらむ、掻むしらむ、透あらばとびいでて、九ツ谺とをしへたる、たうときうつくしきかのひとの許に遁げ去らむと、胸の湧きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。
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