あふ魔が時
わが思ふ処に違はず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突あたりに小さき稲荷の社あり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山の裾なる雑樹斜めに生ひて、社の上を蔽ひたる、その下のをぐらき処、孔の如き空地なるをソとめくばせしき。瞳は水のしたたるばかり斜にわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。 さればいささかもためらはで、つかつかと社の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽葉堆く水くさき土のにほひしたるのみ、人の気勢もせで、頸もとの冷かなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふ彼の女はハヤ見えざりき。何方にか去りけむ、暗くなりたり。 身の毛よだちて、思はず呀と叫びぬ。 人顔のさだかならぬ時、暗き隅に行くべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を惑はすと、姉上の教へしことあり。 われは茫然として眼をりぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手に坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き出づると思ふ黒闇々たる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を塞ぎ、呼吸をころしてひそみたるに、四足のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。 われは人心地もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの女のうつくしかりし顔、優かりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる児どものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここに潜め、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小提灯の火影あかきが坂下より急ぎのぼりて彼方に走るを見つ。ほどなく引返してわがひそみたる社の前に近づきし時は、一人ならず二人三人連立ちて来りし感あり。 あたかもその立留りし折から、別なる跫音、また坂をのぼりてさきのものと落合ひたり。 「おいおい分らないか。」 「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。」 とあとよりいひたるはわが家につかひたる下男の声に似たるに、あはや出でむとせしが、恐しきものの然はたばかりて、おびき出すにやあらむと恐しさは一しほ増しぬ。 「もう一度念のためだ、田圃の方でも廻つて見よう、お前も頼む。」 「それでは。」といひて上下にばらばらと分れて行く。 再び寂としたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し差出だして、外の方をうかがふに、何ごともあらざりければ、やや落着きたり。怪しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、愚なる、と冷かに笑ひしに、思ひがけず、誰ならむたまぎる声して、あわてふためき遁ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。 「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。
大沼
「ゐないツて私あどうしよう、爺や。」 「根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前様遊びに出します時、帯の結めを丁とたたいてやらつしやれば好いに。」 「ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。」 「それはハヤ不念なこんだ。帯の結めさへ叩いときや、何がそれで姉様なり、母様なりの魂が入るもんだで魔めはどうすることもしえないでごす。」 「さうねえ。」とものかなしげに語らひつつ、社の前をよこぎりたまへり。 走りいでしが、あまりおそかりき。 いかなればわれ姉上をまで怪みたる。 悔ゆれど及ばず、かなたなる境内の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。 涙ぐみて彳む時、ふと見る銀杏の木のくらき夜の空に、大なる円き影して茂れる下に、女の後姿ありてわが眼を遮りたり。 あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此処にあるを知られむは、拙きわざなればと思ひてやみぬ。 とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが優しき姉上の姿に化したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とて言はかけざりしと、打泣きしが、かひもあらず。 あはれさまざまのものの怪しきは、すべてわが眼のいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、術こそありけれ、かなたなる御手洗にて清めてみばやと寄りぬ。 煤けたる行燈の横長きが一つ上にかかりて、ほととぎすの画と句など書いたり。灯をともしたるに、水はよく澄みて、青き苔むしたる石鉢の底もあきらかなり。手に掬ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠めて、気を鎮めて、両の眼を拭ひ拭ひ、水に臨む。 われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかかるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわななきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、 「お、お、千里。ええも、お前は。」と姉上ののたまふに、縋りつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、 「あれ!」 といひて一足すさりて、 「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに衝と馳せ去りたまへり。 怪しき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつつ、ひたばしりに追いかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの口惜しければ、とにかくもならばとてなむ。 坂もおりたり、のぼりたり、大路と覚しき町にも出でたり、暗き径も辿りたり、野もよこぎりぬ。畦も越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。 道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く横はりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、大沼とも覚しきが、前途を塞ぐと覚ゆる蘆の葉の繁きがなかにわが身体倒れたる、あとは知らず。
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