二
誰も知った通り、この三丁目、中橋などは、通の中でも相の宿で、電車の出入りが余り混雑せぬ。 停まった時、二人三人は他にも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。 乗ったのは、どの口からも一帆一人。 入るともう、直ぐにぐいと出る。 ト前の硝子戸を外から開けて、その女が、何と! 姿見から影を抜出したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。 そして、ぱっちりした、霑のある、涼しい目を、心持俯目ながら、大きくいて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟と見た。 見た、と思うと、今立った旧の席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。 その女は、丈長掛けて、銀の平打の後ざし、それ者も生粋と見える服装には似ない、お邸好みの、鬢水もたらたらと漆のように艶やかな高島田で、強くそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬も、なぜか紫の俤立つ。 空いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側で、一帆はちと慌しいまで、急いで腰を落したが。 胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先も見えなかったが、一目見られた瞳の力は、刻み込まれたか、と鮮麗に胸に描かれて、白木屋の店頭に、つつじが急流に燃ゆるような友染の長襦袢のかかったのも、その女が向うへ飛んで、逆にまた硝子越しに、扱帯を解いた乱姿で、こちらを差覗いているかと疑う。 やがて、心着くと標示は萌黄で、この電車は浅草行。 一帆がその住居へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。 もっとも、わざととはなしに、一帳場ごとに気を注けたが、女の下りた様子はない。 で、そこまで行くと、途中は厩橋、蔵前でも、駒形でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行くように信じられた。 何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪はずれが堅気と見えぬ。――何だろう。 とそんな事。……中に人の数を夾んだばかり、つい同じ車に居るものを、一年、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々な事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓の薄暗くなって来たのさえ、確とは心着かぬ。 が、蔵前を通る、あの名代の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄じく暗くなった。 頸許がふと気になると、尾を曳いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透して、雫のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際上の空でいたのであった。 さあ、浅草へ行くと、雷門が、鳴出したほどなその騒動。 どさどさ打まけるように雪崩れて総立ちに電車を出る、乗合のあわただしさより、仲見世は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女の姿。 風立つ中を群って、颯と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。 きちがい日和の俄雨に、風より群集が狂うのである。 その紛れに、女の姿は見えなくなった。 電車の内はからりとして、水に沈んだ硝子函、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫の風情に見えて、束の間は塵も留めず、――外の人の混雑は、鯱に追われたような中に。―― 一帆は誰よりも後れて下りた。もう一人も残らないから、女も出たには違いない。
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