七
「池があるんだわね。」 と手を支いて、壁に着いたなりで細りした頤を横にするまで下から覗いた、が、そこからは窮屈で水は見えず、忽然として舳ばかり顕われたのが、いっそ風情であった。 カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾模様の後姿で、すらりとした芸者が通った。 向うの座敷に、わやわやと人声あり。 枝折戸の外を、柳の下を、がさがさと箒を当てる、印半纏の円い背が、蹲まって、はじめから見えていた。 それには差構いなく覗いた女が、芸者の姿に、密と、直ぐに障子を閉めた。 向直った顔が、斜めに白い、その豌豆の花に面した時、眉を開いて、熟と視た。が、瞳を返して、右手に高い肱掛窓の、障子の閉ったままなのを屹と見遣った。 咄嗟の間の艶麗な顔の働きは、たとえば口紅を衝と白粉に流して稲妻を描いたごとく、媚かしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡翠に化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。 一帆は思わず坐り直した。 処へ、女中が膳を運んだ。 「お一ツ。」 「天気は?」 「可塩梅に霽りました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。」 「いいえ、結構。」 「もし、貴女。」 女が、もの馴れた状で猪口を受けたのは驚かなかったが、一ツ受けると、 「何うぞ、置いて去らしって可うござんす。」と女中を起たせたのは意外である。 一帆はしばらくして陶然とした。 「更めて、一杯、お知己に差上げましょう。」 「極が悪うござんすね。」 「何の。そうしたお前さんか。」 と膝をぐったり、と頭を振って、 「失礼ですが、お住所は?」 「は、提灯よ。」 と目許の微笑。丁と、手にした猪口を落すように置くと、手巾ではっと口を押えて、自分でも可笑かったか、くすくす笑う。 「町名、町名、結構。」 一帆は町名と聞違えた。 「いいえ、提灯なの。」 「へい、提灯町。」 と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。 また笑って、 「そうじゃありません。私の家は提灯なんです。」 「どこの? 提灯?」 「観音様の階段の上の、あの、大な提灯の中が私の家です。」 「ええ。」と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。 「お名は。」 「私? 名ですか。娘……」 「娘子さん。――成程違いない、で、お年紀は?」 「年は、婆さん。」 「年は婆さん、お名は娘、住所は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」 と訊いた。 後に舟崎が語って言うよう―― いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜いといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢の娘に向って、お商売? はちと思切った。 しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣がある。 その時、ちと更まるようにして答えたのが、 「私は、手品をいたします。」 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席でも一向入りのない処から、座敷を勤めさして頂く。 「ちょいと嬰児さんにおなり遊ばせ。」 思懸けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。 「お笑い遊ばしちゃ、厭ですよ。」と云う。 「これは拝見!」と大袈裟に開き直って、その実は嘘だ、と思った。 すると、軽く膝を支いて、蒲団をずらして、すらりと向うへ、……扉の前。――此方に劣らず杯は重ねたのに、衣の薫も冷りとした。 扇子を抜いて、畳に支いて、頭を下げたが、がっくり、と低頭れたように悄れて見えた。 「世渡りのためとは申しながら……前へ御祝儀を頂いたり、」 と口籠って、 「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。 いや、そこどころか。 あの、籠の白い花を忘れまい。 すっと抜くと、掌に捧げて出て、そのまま、子窓の障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一舳、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃って浮く。 空は晴れて、霞が渡って、黄金のような半輪の月が、薄りと、淡い紫の羅の樹立の影を、星を鏤めた大松明のごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波は敷妙の銀の波。 ト瞻めながら、 「は、」と声が懸る、袖を絞って、袂を肩へ、脇明白き花一片、手を辷ったか、と思うと、非ず、緑の蔓に葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。 ただ一攫みなりけるが、船の中に落つると斉しく、礫打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽のごとく舳にまで咲きこぼれる。 その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透る水に映って、ちらちらと揺めいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大さ、やがて扇ばかりな真白な一羽の胡蝶、ふわふわと船の上に顕われて、つかず、離れず、豌豆の花に舞う。 やがて蝶が番になった。 内は寂然とした。 芸者の姿は枝折戸を伸上った。池を取廻わした廊下には、欄干越に、燈籠の数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。 蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴に乱れ、卍と飛交う。 時にそよがした扇子を留めて、池を背後に肱掛窓に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱をついて、呆気に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背いて、胸越しに半面を蔽うて差俯向く時、すらりと投げた裳を引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄を寄せたのである。
フト現から覚めた時、女の姿は早やなかった。 女中に聞くと、 「お車で、たった今……」
明治四十四(一九一一)年二月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 尾页
|