二十六
「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋で両隣が畠でな、聾の婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄いことをいう。この紳士は権柄ずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。 勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。 「路も遠うございますから、晩くなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可ませんか。」 「何、遠慮することはないさ。」 これだもの。………… 「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰る機掛もなし、声を立てる数でもなし、理窟をいう分にも行かず、急にお腹が痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。 径ややその半を過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾かに見返って、 「どうだ、御飯でも食べて、それからその家へ行くとしようか。」 お雪はものもいい得ない。背後から大きな声で、 「奢れ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮に喚いてぬいと出た、この野面を誰とかする。白薩摩の汚れた単衣、紺染の兵子帯、いが栗天窓、団栗目、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履を穿ちたる、豈それ多磨太にあらざらんや。 島野は悪い処へ、という思入あり。 「おや、どちらへ。」 「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」 「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目になって押えようとする、と肩を揺って、 「知事が処じゃ。」 「今ッからね。」 「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」 「へい、」と妙な顔をする。 多磨太、大得意。 「何よ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆が留守をしとる、ちっとも気遣はいらんのじゃ、万事私が心得た。」 「驚いたね。」 「どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。」 「何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。」 「豈しからん、この美肉をよ、貴様一人で賞翫してみい、たちまち食傷して生命に係るぞ。じゃから私が注意して、あらかじめ後を尾けて、好意一足の藁草履を齎らし来った訳じゃ、感謝して可いな。」 島野は苦々しい顔色で、 「奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。」 「豚肉は不可ぞ。」 「ええ、もうずっとそこン処はね。」 「何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍鶏なんじゃろ、しからずんば鰻か。」 「はあ、何でも、」と頷くのを、見向もしないで。 「非ず、私が欲する処はの、熊にあらず、羆にあらず、牛豚、軍鶏にあらず、鰻にあらず。」 「おやおや、」 「小羊の肉よ!」 「何ですって、」 「どうだ、 、蟷螂、」といいながら、お雪と島野を交る交る、笑顔で しても豪傑だから睨むがごとし。
二十七
島野は持余した様子で、苦り切って、ただ四辺を見廻すばかり。多磨太は藁草履の片足を脱いで、砂だらけなので毛脛を擦った。 「蚋が螫す、蚋が螫すわ。どうじゃ、歩き出そうでないか。堪らん、こりゃ、立っとッちゃあ埒明かん、さあ前へ行ね、貴公。美人は真中よ、私は殿を打つじゃ、早うせい。」 島野は堪りかねて、五六歩傍へ避けて目で知らせて、 「ちょいと、君、雀部さん、ちょいと。」 「何じゃ、」と裾を掴み上げて、多磨太はずかずかと寄る。 島野は真顔になって、口説くように、 「かねて承知なんじゃあないか、君、ここは一番粋を通して、ずっと大目に見てくれないじゃあ困りますね。」と情なそうにいった。 「どうするんかい、」 「何さ、どうするッて。」 「貴公、どこへしょびくんじゃ、あの美人をよ、巧く遣りおるの。うう、」と団栗目を細うして、変な声で、えへ、えへ、えへ。 「しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。」 「嘘を吐けい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯じゃよ、詐偽じゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張るでな、左様思え、はははは。」 「串戯をいっちゃあ不可ません。」 「何、構わず遣るぞ。癪じゃ、第一、あの美人は、私が前へ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情男なことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇懃を通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打棄っておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向面へ廻って断乎として妨害を試みる、汝にジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対手になるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。」 と腕まくりをして大乗気、手がつけられたものではない。島野もここに至って、あきらめて、ぐッと砕け、 「どうです、一ツ両雄並び立とうではありませんか、ものは相談だ。」と思切っていう。多磨太は目を って耳を聳てた。 「ふむ、立つか、見事両雄がな。」 「耳を、」肩を取って、口をつけ、二人は木の下蔭に囁を交え、手を組んで、短いのと、長いのと、四脚を揃えたのが仄かに見える。お雪は少し離れて立って、身を切裂かるる思いである。 当座の花だ、むずかしい事はない、安泊へでも引摺込んで、裂くことは出来ないが、美人の身体を半分ずつよ、丶丶丶の令息と、丶丶の親類とで慰むのだ。土民の一少婦、美なりといえどもあえて物の数とするには足らぬ。 「ね、」 (笑って答えず。) 多磨太は頷いて身を退いて、両雄いい合わせたように屹とお雪を見返った。 径に被さった樹々の葉に、さらさらと渡って、裙から、袂から冷々と膚に染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦悚とした。もう前後も弁えず、しばらくも傍には居たたまらなくなって、そのまま、 「島野さん、お連様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、」も震え声で口の裡、返事は聞きつけないで、引返そうとする。 「待ちなさい、」 「待て、おい、おい、おい、待て!」といいさま追い縋って、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。 「あれ、」と遁げにかかる、小腕をむずと取られた。形も、振も、紅、白脛。
二十八
「 くない、 、わはは、はは、」多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引立てた。 「あれ、放して、」 「おい、声を出しちゃあ不可、黙っていな、優しくしてついてお出。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。」と島野は落着いたものである。多磨太は案を拍たないばかりで、 「しかり、あきらめて覚悟をせい。魚の中でも鯉となると、品格が可いでな、俎に乗ると撥ねんわい。声を立てて、助かろうと思うても埒明かんよ。我輩あえて憚らず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をすると咎めりゃ、黙れとくらわす。此女取調の筋があるで、交番まで引立てる、私は雀部じゃというてみい、何奴もひょこひょこと米搗虫よ。」 「呑気なものさね、」と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。 「さあ、行こう、何も冥途へ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部や私を望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難有く思うが可いさ。」 法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引挟み、縛って宙に釣ったよりは恐しい手籠の仕方。そのまま歩き出した、一筋路。少い女を真中に、漢が二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかって歩を停め、間を置いて前屈みになって透かしたが、繻子の帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜榎の下で、銀流の粉を売った婦人であった。 お雪は呼吸さえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、 「まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、」と漫である。 「可いわ、放すから遁げちゃあならんぞ、」 「何、逃げれば、捕える分のことさ、」 あらかじめ因果を含めたからと、高を括って、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。 「やい、汝!」 藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻掴む、鉄拳に握らせて、自若として、少しも騒がず、 「色男!」といって呵々と笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識に窘んだ。 「島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。」 紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、 「誰、誰です。」 「己だ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯じゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。」 先刻荒物屋の納戸で、媼と蚊の声の中に言を交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途次、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、家は窮屈で為方がねえ、と言っては、夜昼寛ぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、――その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転込んで胸を打って歎くので、一人の婦人を待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷から救に来たのであった。
二十九
子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草俵町の質屋の赤煉瓦と、屑屋の横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲荷さんの声を聞いて、番太の菓子を噛った江戸児である。 母親と祖父とがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀杏の樹に近い処に、立派な旅籠屋兼帯の上等下宿、三階造の館の内に、地方から出て来る代議士、大商人などを宿して華美に消光していたが、滝太郎が生れて三歳になった頃から、年紀はまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄哥、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取る数ではないから、家業はそれっきりである上に、俳優狂を始めて茶屋小屋入をする、角力取、芸人を引張込んで雲井を吹かす、酒を飲む、骨牌を弄ぶ、爪弾を遣る、洗髪の意気な半纏着で、晩方からふいと家を出ては帰らないという風。 滝太郎の祖父は母親には継父であったが、目を閉じ、口を塞いでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。謂うまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居食をしたが、見す見す体に鉋を懸けて削り失くすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんの汁を吸っても、渇えて死ぬには増だという、祖父の繰廻しで、わずか残った手廻の道具を売って動をつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着馴れぬ半纏被に身を窶して、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御徒町辺の古道具屋を見歩いたが、いずれも高直[#「高直」はママ]で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着けて売物という札を貼ってあった、屋台を一個、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町に曳いて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、件の赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込むことが出来ないので、そのまま夜一夜置いたために、三晩とは措かず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。 後は母親が手一ツで、細い乳を含めて遣る、幼児が玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色の褪せるのも、汗で美しい襦袢の汚れるのも厭わず、意とせず、些々たる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、膳も別にして食べさせたいので、手内職では追着かないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越して一製糸場に通っていた。 留守になると、橋手前には腕白盛の滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足で駆歩行く、袖が切れれば素裸で躍出る。砂を掴む、小砂利を投げる、溝泥を掻廻す、喧嘩はするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもある徒は、除物にして苛めるのを、太腹の勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向いて見るほどの兄哥に向って、べらぼうめ!
三十
その悪戯といったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町まで刎ね廻って、片時の間も手足を静としてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房達は、金魚だ金魚だとそういった。蓋し美しいが食えないという意だそうな。 滝太はその可愛い、品のある容子に似ず、また極めて殺伐で、ものの生命を取ることを事ともしない。蝶、蜻蛉、蟻、蚯蚓、目を遮るに任せてこれを屠殺したが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙蝠などは一たび干棹を揮えば、立処に落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪雑棒で猫を撃って殺すようになった。あのね、ぶん撲るとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッと酷くくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。呻っておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツ打つところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこで止しちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄念が可恐しい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不可いと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびも俺のせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。 井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、ト唾で破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を石 でこつこつやったり、柱を釘で疵をつけたり、階子を担いで駆出すやら、地蹈鞴を蹈んで唱歌を唄うやら、物真似は真先に覚えて来る、喧嘩の対手は泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取占められて路地内へ遁げ込むのを、容赦なく追詰めると、滝は廂を足場にある長屋の屋根へ這上って、瓦を捲くって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終蔭言ばかり言っていた女房達、耐りかねて、ちと滝太郎を窘なめるようにと、夜に入ってから帰る母親に告げた事がある。 しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉物だった母親が、毫もこれを真とはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通り優しい声。 それもその筈、滝は他に向って乱暴狼藉[#ルビの「ろうぜき」は底本では「ろうせき」]を極め、憚らず乳虎の威を揮うにもかかわらず、母親の前では大な声でものも言わず、灯頃辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩行く跫音もしない位、以前の俤の偲ばるる鏡台の引出の隅に残った猿屋の小楊枝の尖で字をついて、膝も崩さず母親の前に畏って、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母親は本当にしないのだと、隣近所では切歯をしてもどかしがった。 学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴合をして遁げて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守に迎に来て連れて行って、そのために先生は他の生徒の父兄等に信用を失って、席札は櫛の歯の折れるように透いて無くなったが、あえて意にも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見処があったのであろう。
三十一
しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪智慧を着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装上げたから、この町を通る腕車荷車は不残路地口の際を曳いて通ることがあった。雨が続いて泥濘になったのを見澄して、滝太が手で掬い、丸太で掘って、地面を窪めておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、窪は雨溜で探りが入らず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥羂に懸っては、後へも前へも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心の笑を洩らして滝太、おじさん押してやろう、幾干かくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさる計もしはせまい、憎まれものの殺生好はまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐しい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世を憚る監視中の顔をあてて、匍匐になって見ていた、窃盗、万引、詐偽もその時二十までに数を知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だという凄い女、渾名を白魚のお兼といって、日向では消えそうな華奢姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐しい悪党。すべて滝太郎の立居挙動に心を留めて、人が爪弾をするのを、独り遮って賞めちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通でなかった処。…… 滝太郎が、その後十一の秋、母親が歿ると、双葉にして芟らざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをお銭にして、それで出合の涙金を添えて持たせ、道で鳶にでも攫われたら、世の中が無事で好い位な考えで、俵町から滝太郎を。
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