三
「いらっしゃいまし。」 縁側に手を支えて、銀杏返の小間使が優容に迎えている。後先になって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快い薫がした。縁の上も、床の前も、机の際も、と見ると芳い草と花とで満されているのである。ある物は乾燥紙の上に半ば乾き、ある物は圧板の下に露を吐き、あるいは台紙に、紫、紅、緑、樺、橙色の名残を留めて、日あたりに並んだり。壁に五段ばかり棚を釣って、重ね、重ね、重ねてあるのは、不残種類の違った植物の標本で、中には壜に密閉してあるのも見える。山、池、野原、川岸、土堤、寺、宮の境内、産地々々の幻をこの一室に籠めて物凄くも感じらるる。正面には、紫の房々とした葡萄の房を描いて、光線を配らった、そこにばかり日の影が射して、明るいようで鮮かな、露垂るばかりの一面の額、ならべて壁に懸けた標本の中なる一輪の牡丹の紅は、色はまだ褪せ果てぬが、かえって絵のように見えて、薄暗い中へ衝と入った主の姫が、白と紫を襲ねた姿は、一種言うべからざる色彩があった。 「道、」 「は、」と、答をし、大人しやかな小間使は、今座に直った勇美子と対向に、紅革の蒲団を直して、 「千破矢様の若様、さあ、どうぞ。」 帽子も着たままで沓脱に突立ってた滝太郎は、突然縁に懸けて後ざまに手を着いたが、不思議に鳥の鳴く音がしたので、驚いて目を って、また掌でその縁の板の合せ目を圧えてみた。 「何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可訝いな。」 「お縁側が昔のままでございますから、旧は好事でこんなに仕懸けました。鶯張と申すのでございますよ。」 小間使が老実立っていうのを聞いて、滝太郎は恐入った顔色で、 「じゃあ声を出すんだろう、木だの、草だの、へ、色々なものが生きていら。」 「何をいってるのよ。」と勇美子は机の前に、整然と構えながら苦笑する。 「どう遊ばしましたの。」 取為顔の小間使に向って、 「聞きねえ、勇さんが、ね、おい。」 「あれ、また、乱暴なことを有仰います。」と微笑みながら、道は馴々しく窘めるがごとくに言った。 「御容子にも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいな言ばっかし。不可えだの、居やがるだのッて、そんな言は御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不可ませんお道楽でございますねえ。」 「生意気なことをいったって、不可えや、畏ってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。」 「そのお口だものを、」といって驚いて顔を見た。 「黙って、見るこッた、折角お珍らしいのに言句をいってると古くしてしまう。」といいながら、急いで手巾を解いて、縁の上に拡げたのは、一掴、青い苔の生えた濡土である。 勇美子は手を着いて、覗くようにした。眉を開いて、艶麗に、 「何です。」 滝太郎は背を向けてぐっと澄まし、 「食いつくよ、活きてるから。」
四
「まあ、若様、あなた、こっちへお上り遊ばしましな。」と小間使は一塊の湿った土をあえて心にも留めないのであった。 「面倒臭いや、そこへ入り込むと、畏らなけりゃならないから、沢山だい。」といって、片足を沓脱に踏伸ばして、片膝を立てて頤を支えた。 「また、そんなことを有仰らないでさ。」 「勝手でございますよ。」 「それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。」 黙っている。心易立てに小間使はわざとらしく、 「若様、もし。」 「堪忍しねえ、 いやな。」 滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯向いて、足に近い飛石の辺を屹と見た。渠は いといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双の眼は、極めて冷静なものである。小間使は詮方なげに、向直って、 「お嬢様、お茶を入れて参りましょう。」 勇美子は余念なく滝太郎の贈物を視めていた。 「珈琲にいたしましょうか。」 「ああ、」 「ラムネを取りに遣わしましょうか。」 「ああ、」とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、 「それでは、」といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。 「道、」 「はい。」 「冷水が可いぜ、汲立のやつを持って来てくんねえ、後生だ。」 といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなり地の上へ手を伸ばした、疾いこと! 掴えたのは一疋の小さな蟻。 「おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、譬にも謂わあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。」といいいい取って返して、縁側に俯向いて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳を件の土産に寄せて、 「見ねえ。」 勇美子は傍目も触らないでいた。 しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞爾と微笑み、 「ほら、ね、どうだい、だから難有うッて、そう言いねえな。」 「どこから。」といって勇美子は嬉しそうな、そして頭を下げていたせいであろう、耳朶に少し汗が染んで、 の染まった顔を上げた。 「どこからです、」 「え、」と滝太郎は言淀んで、面の色が動いたが、やがて事も無げに、 「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛の子位は殺つけるだろう。こら、恐いなあ、まあ。」 心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛う位、薄樺色で、見ると、柔かそうに湿を帯びた、小さな葉が累り合って生えている。葉尖にすくすくと針を持って、滑かに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒にしたのである。 滝太郎は、見て、その験あるを今更に驚いた様子で、 「ね、特別に活きてるだろう。」
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