二十二
「お雪さん。」 ややあって男は改めて言って、この時はもう、声も常の優しい落着いた調子に復し、 「お雪さん、泣いてるんですか。悪かった、悪かった。真を言えばお前さんに心配を懸けるのが気の毒で、無暗と隠していたのを、つい見透かされたもんだから、罪なことをすると思って、一刻に訳も分らないで、悪いことをいった。知ってる、僕は自分極めかも知らないが、お前さんの心は知ってる意だ。情無い、もう不具根性になったのか、僻も出て、我儘か知らぬが、くさくさするので飛んだことをした、悪く思わないでおくれ。」 その平生の行は、蓋し無言にして男の心を解くべきものがあったのである。お雪は声を呑んで袂に食着いていたのであるが、優しくされて気も弛んで、わっと嗚咽して崩折れたのを、慰められ、賺されてか、節も砕けるほど身に染みて、夢中に躙り寄る男の傍。思わず縋る手を取られて、団扇は庭に落ちたまま、お雪は、潤んだ髪の濡れた、恍惚した顔を上げた。 「貴方、」 「可いよ。」 「あの、こう申しますと、生意気だとお思いなさいましょうが、」 「何、」 「お気に障りましたことは堪忍して下さいまし、お隠しなさいますお心を察しますから、つい口へ出してお尋ね申すことも出来ませんし、それに、あの、こないだ総曲輪でお転びなすった時、どうも御様子が解りません、お湯にお入りなさいましたとは受取り難うございますもの、往来ですから黙って帰りました。が、それから気を着けて、お知合のお医者様へいらっしゃるというのは嘘で、石滝のこちらのお不動様の巌窟の清水へ、お頭を冷しにおいでなさいますのも、存じております。不自由な中でございますから、お怨み申しました処で、唯今はお薬を思うように差上げますことも出来ませんが、あの……」 と言懸けて身を正しく、お雪はあたかも誓うがごとくに、 「きっとあの私が生命に掛けましても、お目の治るようにして上げますよ。」と仇気なく、しかも頼母しくいったが、神の宣託でもあるように、若山の耳には響いたのである。 「気張っておくれ、手を合わして拝むといっても構わんな。実に、何だ、僕は望がある、惜い体だ。」といって深く溜息を吐いたのが、ひしひしと胸に応えた。お雪は疑わず、勇ましげに、 「ええ、もう治りますとも。そして目が開いて立派な方におなりなさいましても、貴方、」 「何だ。」 「見棄てちゃあ、私は厭。」 「こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。」 「ふ、」と泣くでもなし、笑うでもなし、極悪げに、面を背けて、目が見えないのも忘れたらしい。 「お雪さん。」 「はい。」 「どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。」 「私にも分りません。」 「なぜだろう、」 莞爾して、 「なぜでしょうねえ。」 表の戸をがたりと開けて、横柄に、澄して、 「おい、」
二十三
声を聞くとお雪は身を窘めて小さくなった。 「居るか、おい、暗いじゃないか。」 「唯今、」 「真暗だな。」 例の洋杖をこつこつ突いて、土間に突立ったのは島野紳士。今めかしくいうまでもない、富山の市で花を売る評判の娘に首っ丈であったのが、勇美姫おん目を懸けさせたまうので、毎日のように館に来る、近々と顔を見る、口も利くというので、思が可恐しくなると、この男、自分では業平なんだから耐らない。 花屋の庭は美しかろう、散歩の時は寄ってみるよ、情郎は居ないか、その節邪魔にすると棄置かんよ、などと大上段に斬込んで、臆面もなく遊びに来て、最初は娘の謂うごとく、若山を兄だと思っていた。 それ芸妓の兄さん、後家の後見、和尚の姪にて候ものは、油断がならぬと知っていたが、花売の娘だから、本当の兄もあるだろうと、この紳士大ぬかり。段々様子が解ってみると、瞋恚が燃ゆるようなことになったので、不埒でも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当擦ったり、つんと拗ねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変、吃驚、畜生、殺生なことであった。 かつてまた、白墨狂士多磨太君の説もあるのだから、肉が動くばかりしばしも耐らず、洋杖を握占めて、島野は、 「暗いじゃあないか、おい、おい。」とただ忙る。 「はい、」と潤んだ含声の優しいのが聞えると、※[#「火+發」、276-15]と摺附木を摺る。小さな松火は真暗な中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭の懸った下に、中腰で洋燈の火屋を持ったお雪の姿を鮮麗に照し出した。その名残に奥の部屋の古びた油団が冷々と見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形が顕われる。 島野は睨み見て、洋杖と共に真直に動かず突立つ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手で鬢の後毛を掻上げざま、向直ると、はや上框、そのまま忙しく出迎えた。 ちょいと手を支いて、 「まあ、どうも。」 「…………」島野は目の色も尋常ならず、尖った鼻を横に向けて、ふんと呼吸をしたばかり。 「失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚穢うございますが、」と極り悪げに四辺を すのを、後の男に心を取られてするように悪推する、島野はますます憤って、口も利かず。 (無言なり。) 「お晩うございましたのね。」と何やらつかぬことを言って、為方なしにお雪は微笑む。 「お邪魔をしましたな。」という声ぎっすりとして、車の輪の軋むがごとく、島野は決する処あって洋杖を持換えた。 「お前ねえ、」 邪気自から膚を襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、易からぬ色をして、 「はい。」 「あのな、」と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。 「どうぞ、まあ、」 「入っちゃあおられん。」 「どちらへか。」 「なあに。」 「お急ぎでございますか。」と畳に着く手も定まらない。 「ちょっと出てもらおう、」 「え、え。」 「用があるんだ。」
二十四
「後を頼むとって、お前様、どこさ行かっしゃる。」 ちょいとどうぞと店前から声を懸けられたので、荒物屋の婆は急いで蚊帳を捲って、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻子の帯もきりりとして、胸をしっかと下〆に女扇子を差し、余所行の装、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄然しているのであった。 「お婆さん、私は直帰るんですが、」 「あい、」 「どうぞねえ、」と何やら心細そうで気に懸ると、老人の目も敏く、 「内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、」 と目を遣ると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町の埃が懸るといったように、四辺を払って島野が彳む。南無三悪い奴と婆さんは察したから、 「何にせい、夜分出歩行くのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概なら止にさっしゃるが可かろうに。」 と目で知らせながら、さあらず言う。 「いえ、お召なんでございます。四十物町のお邸から、用があるッて、そう有仰るのでございますから。」 「四十物町のお花主というと、何、知事様のお邸だッけや。」 「お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。」 「うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私が留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋じゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。」 「はい、ですけれども。」 「殊に闇じゃ、狼が後を跟けるでの、たって止めにさっせえよ。」と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。 島野は耐えかねてずッと出て、老人には目も遣らず、 「さあ、」 「…………」黙って俯向く。 「おい、」とちと大きくいって、洋杖でこと、こと、こと。 お雪は覚悟をした顔を上げて、 「それじゃあお婆さん。」 「待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。」 顧みもせず島野は、己ほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや! 婆さんも躍気になって、 「旦那様、もし。」 「おれか。」 「へい、婆がお願でござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。」 「何だ、お前は。」 「へい、」 「さあ、行こう。」 お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮方なげで哀である。 「お前様、何といっても、」と空しく手を掉って、伸上った、婆は縋着いても放したくない。 「知事様のお使だ。」と島野が舌打して言った。 これが代官様より可恐しく婆の耳には響いたので、目を って押黙る。 その時、花屋の奥で、凜として澄んで、うら悲しく、
雲横秦嶺家何在 雪擁藍関馬不前
と、韓湘が道術をもって牡丹花の中に金字で顕したという、一聯の句を口吟む若山の声が聞えて止んだ。 お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、 「どうぞ、ねえ。」
二十五
恩になる姫様、勇美子が急な用というに悖い得ないで、島野に連出されたお雪は、屠所の羊の歩。 「どういう御用なんでございましょう。いつも御贔屓になりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、馴れませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。」 島野は澄まして冷かに、 「そうですか。」 「貴下御存じじゃあないのですか。」 「知らないね。」と気取った代脉が病症をいわぬに斉しい。 わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取附島もなく悄れて黙った。 二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣が挟んで、樹が押被さった径を四五間。 「兄さんに聞いたら可かろう。」島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、 「何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃情人が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂われるばかりさ。」 「厭でございます。」 「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」 と呼吸がはずむ。 「ほんとうでございますか。」 「まったくよ。」 「あら、それでは、あの私は御免蒙りますよ。」 お雪は思切って立停まった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。 「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可いのか。――御免蒙る――」 「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私は辛うございます。」 「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主を無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為になりやしないかね。仏蘭西の友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子は生命がけでも欲いのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。 お雪は深い溜息して、 「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」 詮方なげに見えて島野に縋るようにいった。お雪は止むことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。 紳士は殊の外その意を得た趣で、 「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨い話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子も自から欲くなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行き出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、 「貴下、どちらへ参るんでございます。」
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