見知越の仁ならば、知らせて欲い、何処へ行って頼みたい、と祖母が言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後へ行く飛脚だによって、脚が疾い。今頃はもう二股を半分越したろう、と小窓に頬杖を支いて嘲笑った。 縁の早い、売口の美い別嬪の画であった。主が帰って間もない、店の燈許へ、あの縮緬着物を散らかして、扱帯も、襟も引さらげて見ている処へ、三度笠を横っちょで、てしま茣蓙、脚絆穿、草鞋でさっさっと遣って来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価をつけて、ずばりと買って、濡らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯を結び添えて、雨の中をすたすたと行方知れずよ。…… 「分ったか、お婆々。」と言った。
十
断念めかねて、祖母が何か二ツ三ツ口を利くと、挙句の果が、 「老耄婆め、帰れ。」 と言って、ゴトンと閉めた。 祖母が、ト目を擦った帰途。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中へ小口を半分差込んで、圧えるように頤をつけて、悄然とすると、辻の浪花節が語った…… 「姫松殿がエ。」 が暗から聞える。――織次は、飛脚に買去られたと言う大勢の姉様が、ぶらぶらと甘干の柿のように、樹の枝に吊下げられて、上げつ下ろしつ、二股坂で苛まれるのを、目のあたりに見るように思った。 とやっぱり芬とする懐中の物理書が、その途端に、松葉の燻る臭気がし出した。 固より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時町を通るものか。足許を見て買倒した、十倍百倍の儲が惜さに、貉が勝手なことを吐く。引受けたり平吉が。 で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻してくれた錦絵である。 が、その後、折を見て、父が在世の頃も、その話が出たし、織次も後に東京から音信をして、引取ろう、引取ろうと懸合うけれども、ちるの、びるので纏まらず、追っかけて追詰めれば、片音信になって埒が明かぬ。 今日こそ何んでも、という意気込みであった。 さて、その事を話し出すと、それ、案の定、天井睨みの上睡りで、ト先ず空惚けて、漸と気が付いた顔色で、 「はあ、あの江戸絵かね、十六、七年、やがて二昔、久しいもんでさ、あったっけかな。」 と聞きも敢えず…… 「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と何故かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易くは我が手に入らない因縁のように、寝覚めにも懸念して、此家へ入るのに肩を聳やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立ち焦る。 平吉は他処事のように仰向いて、 「なあ、これえ。」 と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を頤で呼んで、 「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」 「唯、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然言った。 「難有う、お琴さん。」 とはじめて親しげに名を言って、凝と振向くと、浪の浅葱の暖簾越に、また颯と顔を赧らめた処は、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに俤が幽に似通う。…… 「お一つ。」 とそこへ膳を直して銚子を取った。変れば変るもので、まだ、七八ツ九ツばかり、母が存生の頃の雛祭には、緋の毛氈を掛けた桃桜の壇の前に、小さな蒔絵の膳に並んで、この猪口ほどな塗椀で、一緒に蜆の汁を替えた時は、この娘が、練物のような顔のほかは、着くるんだ花の友染で、その時分から円い背を、些と背屈みに座る癖で、今もその通りなのが、こうまで変った。 平吉は既う五十の上、女房はまだ二十の上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉の前の家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半の嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした処では肖しくなって、女房ぶりも哀に見える。 これも飛脚に攫われて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。 いや、何んにつけても、早く、とまた屹と居直ると、女房の返事に、苦い顔して、横睨みをした平吉が、 「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」 と幾度も一人で合点み、 「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁、親類中の評判で、平吉が許へ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、集るほどに、丁と片時も落着いていた験はがあせん。」 と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下…… 「手前じゃ、まあ、持物と言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、貴下から預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、指垢、手擦、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば喧嘩になる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、余所の蔵に秘ってありますわ。ところが、それ。」 と、これも気色ばんだ女房の顔を、兀上った額越に、ト睨って、 「その蔵持の家には、手前が何でさ、……些とその銭式の不義理があって、当分顔の出せない、といったような訳で、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ銭式の事ですからな。 それに、織さん、近頃じゃ価が出ましたっさ。錦絵は……唯た一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下にも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。価は惜まぬ、ね、価は惜まぬから手放さないか、と何度も言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。憚りながら平吉売らないね。預りものだ、手放して可いものですかい。 けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲れ、熱い処を。ね、御緩り。さあ、これえ、お焼物がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒に尾頭は附物だわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった婦だ。へへへへへ、鰯を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」 と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額をぬすみ見る女房の様は、湯船へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。 坐り直って、 「あなたえ。」 と怨めしそうな、情ない顔をする。 ぎょろりと目を剥き、険な面で、 「これえ。」と言った。 が、鰯の催促をしたようで。 「今、焼いとるんや。」 と隣室の茶の室で、女房の、その、上の姉が皺びた声。 「なんまいだ。」 と婆が唱える。……これが――「姫松殿がえ。」と耳を貫く。……称名の中から、じりじりと脂肪の煮える響がして、腥いのが、むらむらと来た。 この臭気が、偶と、あの黒表紙に肖然だと思った。 とそれならぬ、姉様が、山賊の手に松葉燻しの、乱るる、揺めく、黒髪までが目前にちらつく。 織次は激くいった。 「平吉、金子でつく話はつけよう。鰯は待て。」
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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