六
「さて、どうも更りましては、何んとも申訳のない御無沙汰で。否、もう、そりゃ実に、烏の鳴かぬ日はあっても、お噂をしない日はありませんが、なあ、これえ。」 「ええ。」と言った女房の顔色の寂しいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。 平吉は畳み掛け、 「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠い方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印を捺しますより、事も大層になります処から、何とも申訳がございやせん。 何しろ、まあ、御緩りなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」 と膝をすっと手先で撫でて、取澄ました風をしたのは、それに極った、という体を、仕方で見せたものである。 「串戯じゃない。」と余りその見透いた世辞の苦々しさに、織次は我知らず打棄るように言った。些とその言が激しかったか、 「え。」と、聞直すようにしたが、忽ち唇の薄笑。 「ははあ、御同伴の奥さんがお待兼ねで。」 「串戯じゃない。」 と今度は穏かに微笑んで、 「そんなものがあるものかね。」 「そんなものとは?」 「貴下、まだ奥様はお持ちなさりませんの。」 と女房、胸を前へ、手を畳にす。 織次は巻莨を、ぐいと、さし捨てて、 「持つもんですか。」 「織さん。」 と平吉は薄く刈揃えた頭を掉って、目を据えた。 「まだ、貴下、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて貴下、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった父様に代って、一説法せにゃならん。例の晩酌の時と言うとはじまって、貴下が殊の外弱らせられたね。あれを一つ遣りやしょう。」 と片手で小膝をポンと敲き、 「飲みながらが可い、召飯りながら聴聞をなさい。これえ、何を、お銚子を早く。」 「唯、もう燗けてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その裾端折で。 織次は、酔った勢で、とも思う事があったので、黙っていた。 「ぬたをの……今、私が擂鉢に拵えて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、可いか、手綺麗に装わないと食えぬ奴さね。……もう不断、本場で旨いものを食りつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも入らない、ああ、入らないとも。」 と独りで極めて、もじつく女房を台所へ追立てながら、 「織さん、鰯のぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」 ああ、しばらく。座にその鰯の臭気のない内、言わねばならぬ事がある…… 「あの、平さん。」 と織次は若々しいもの言いした。 「此家に何だね、僕ン許のを買ってもらった、錦絵があったっけね。」 「へい、錦絵。」と、さも年久しい昔を見るように、瞳を凝と上へあげる。 「内で困って、……今でも貧乏は同一だが。」 と織次は屹と腕を拱んだ。 「私が学校で要る教科書が買えなかったので、親仁が思切って、阿母の記念の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻して、蔵っといてくれた。その絵の事だよ。」 時雨の雲の暗い晩、寂しい水菜で夕餉が済む、と箸も下に置かぬ前から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請った、新撰物理書という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通われぬと言うのではない。科目は教師が黒板に書いて教授するのを、筆記帳へ書取って、事は足りたのであるが、皆が持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時金八十銭と、覚えている。
七
親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火の赤黒い、火屋の亀裂に紙を貼った、笠の煤けた洋燈の下に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場に立ちもせず、袖に継のあたった、黒のごろの半襟の破れた、千草色の半纏の片手を懐に、膝を立てて、それへ頬杖ついて、面長な思案顔を重そうに支えて黙然。 ちょっと取着端がないから、 「だって、欲いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行く、と向うの隅に、霜が見える……祖母さんが頭巾もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷い音で洗ってござる。 「買っとくれよ、よう。」 と聞分けもなく織次がその袂にぶら下った。流は高い。走りもとの破れた芥箱の上下を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈が蜘蛛の巣の中に茫とある…… 「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干で可いからさ。」 祖母は、顔を見て、しばらく黙って、 「おお、どうにかして進ぜよう。」 と洗いさした茶碗をそのまま、前垂で手を拭き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後向きに、まだ俯向いたなりの親父を見向いて、 「の、そうさっしゃいよ。」 「なるほど。」 「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」 「それでは、母親、御苦労でございます。」 「何んの、お前。」 と納戸へ入って、戸棚から持出した風呂敷包が、その錦絵で、国貞の画が二百余枚、虫干の時、雛祭、秋の長夜のおりおりごとに、馴染の姉様三千で、下谷の伊達者、深川の婀娜者が沢山いる。 祖母さんは下に置いて、 「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。 「いや、見ますまい。」 と顔を背向ける。 祖母は解き掛けた結目を、そのまま結えて、ちょいと襟を引合わせた。細い半襟の半纏の袖の下に抱えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処で、 「可哀やの、姉様たち。私が許を離れてもの、蜘蛛男に買われさっしゃるな、二股坂へ行くまいぞ。」 と小さな声して言聞かせた。織次は小児心にも、その絵を売って金子に代えるのである、と思った。……顔馴染の濃い紅、薄紫、雪の膚の姉様たちが、この暗夜を、すっと門を出る、……と偶と寂しくなった。が、紅、白粉が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍った。 「待ってござい、織や。」 ごろごろと静かな枢戸の音。 台所を、どどんがたがた、鼠が荒野と駈廻る。 と祖母が軒先から引返して、番傘を持って出直す時、 「あのう、台所の燈を消しといてくらっしゃいよ、の。」 で、ガタリと門の戸がしまった。
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