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国貞えがく(くにさだえがく)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 13:11:35 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 コトコトと下駄げたの音して、何処どこまでくぞ、時雨しぐれあしさっと通る。あわれ、祖母としよりに導かれて、振袖ふりそでが、詰袖つめそでが、つまを取ったの、もすそを引いたの、鼈甲べっこうくし照々てらてらする、銀のかんざし揺々ゆらゆらするのが、真白なはぎも露わに、友染ゆうぜんの花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足はだしで田舎の、山近やまぢかな町の暗夜やみよ辿たど風情ふぜいが、雨戸の破目やぶれめ朦朧もうろうとしていて見えた。
 それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼いまなこくらまして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のそのさまを、のちに思えば鬼であろう。
 台所のともしびは、はるか奥山家おくやまが孤家ひとつやの如くにともれている。
 トその壁の上を窓からのぞいて、風にも雨にも、ばさばさと髪をゆすって、団扇うちわの骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚しゅろの樹が、その夜は妙にしんとして気勢けはいも聞えぬ。
 鼠も寂莫ひっそりと音をひそめた。……

       八

 台所と、この上框あがりがまちとを隔ての板戸いたどに、地方いなか習慣ならいで、あしすだれの掛ったのが、破れる、れる、その上、手の届かぬ何年かのすすがたまって、相馬内裏そうまだいり古御所ふるごしょめく。
 その蔭に、遠いあかりのちらりとするのを背後うしろにして、お納戸色なんどいろの薄いきぬで、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母としより背後影うしろかげを、じっと見送るさまたたずんだおんながある。
 一目見て、幼い織次はこの現世うつしよにない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
 その小児こども振向ふりむけた、真白な気高い顔が、雪のように、さっと消える、とキリキリキリ――と台所を六角ろっかく井桁いげたで仕切った、内井戸うちいど轆轤ろくろが鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
 ながしところに、浅葱あさぎ手絡てがらが、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪くろかみのおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっととおった横顔が仄見ほのみえて、白い拭布ふきんがひらりと動いた。
織坊おりぼう。」
 と父が呼んだ。
「あい。」
 ばたばたと駈出して、その時まで同じところに、いたようにじっとして動かなかった草色くさいろ半纏はんてん搦附からみつく。
「ああ、阿母おっかのような返事をする。肖然そっくりだ、今の声が。」
 と膝へ抱く。胸に附着くッつき、
「台所に母様おっかさんが。」
「ええ!」と父親が膝を立てた。
祖母おばあさんの手伝いして。」
 親父は、そのまま緊乎しっかと抱いて、
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書をみんな読むとね、母様おっかさんのいるところが分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくともい。……おいでよ、父上おとっさん。」
 と手を引張ひっぱると、猶予ためらいながら、とぼとぼと畳に空足からあしを踏んで、板のへ出た。
 その跫音あしおとより、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚しゅろの骨がばさりとのぞいて、其処そこに、手絡てがらの影もない。
 織次はわっと泣出した。
 父は立ちながらせなさすって、わなわな震えた。
 雨の音がさっと高い。
「おお、つめてえ、本降ほんぶり、本降。」
 と高調子たかぢょうしで門を入ったのが、此処ここ差向さしむかったこの、平吉のへいさんであった。
 からかさをがさりと掛けて、提灯ちょうちんをふっと消す、と蝋燭ろうそくにおいが立って、家中うちじゅう仏壇のかおりがした。
! 世話場せわばだね、どうなすった、とっさん。お祖母としよりは、何処どこへ。」
 で、父が一伍一什いちぶしじゅうを話すと――
立替たてかえましょう、可惜あったらものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干いくらに買うか知れないけれど、差当さしあたり、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処ここにあればわけだ、と先ず言ったわけだ。先方さき買直かいねがぎりぎりのところなら買戻かいもどすとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
 とひどく書生ぶって、
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、ただ立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子かねの出来るまで、僕が預かって置けばうがしょう。さ、それできまった。……一ツ莞爾にっこりとしてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児こどもに学問なんぞさせねえがいじゃないかね。くだらない、もうこれ織公おりこうも十一、※(「韋+鞴のつくり」、第3水準1-93-84)ふいごばたばたは勤まるだ。二銭三銭のたしにはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜ひじきだいが浮いて出ようというものさ。……実のところ、僕が小指レコの姉なんぞも、此家ここへ一人二度目妻にどめのを世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児こどもに本を買ってる苦労をするようじゃ、すえを見込んで嫁入きてがないッさ。ね、祖母としよりが、孫と君の世話をして、この寒空さむぞらに水仕事だ。
 因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
 ――その姉と言うのが、次室つぎのまの長火鉢のところに来ている。――

       九

 そこへ、祖母としよりが帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶あいさつもせぬ先に、
「さあ」と言って、本を出す。
 織次は飛んで獅子の座へなおったいきおい。上から新撰に飛付とびつく、とつんのめったようになって見た。黒表紙にはあやがあって、つやがあって、真黒な胡蝶ちょうちょう天鵝絨びろうどの羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流せせらぎのように動いて、何がなしに、言いようのない強いかおりぷんとして、目と口に浸込しみこんで、中にいた器械の図などは、ずッしりくろがねたてのように洋燈ランプの前にあらわでて、絵の硝子がらすばっと光った。
 さて、祖母としよりの話では、古本屋は、あの錦絵にしきえを五十銭からを付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬとことわる。ほしい物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端みせさきに腰を掛けて、時雨しぐれ白髪しらがを濡らしていると、其処そこの亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処ここにそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆たけべらの折返しの跡をつけた、古本の出物でものがある。定価から五銭引いて、ちょうどにつばを合わせて置く。で、孫に持って行ってるがい、とさばきを付けた。国貞くにさだの画がざっと二百枚、かろうじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
 平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
織坊おりぼう母様おっかさん記念かたみだ。お祖母ばあさんと一緒に行って、今度はお前が、背負しょって来い。」
「あい。」
 とその四冊を持って立つと、
みちが悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
 と祖母としより莞爾にっこりして、嫁の記念かたみを取返す、二度目の外出そとではいそいそするのに、手をかれて、キチンと小口こぐちを揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許ひざもとに残しながら、出しなに、台所をそっのぞくと、ともしび棕櫚しゅろ葉風はかぜおのずから消えたとおぼしく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
 雨は小止こやみで。
 織次は夜道をただ、夢中で本のいで歩行あるいた。
 古本屋は、今日この平吉のうちに来る時通った、確か、あの湯屋ゆやから四、五軒手前にあったと思う。四辻よつつじく時分に、祖母としより破傘やぶれがさをすぼめると、あおく光って、ふたを払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白くんで、うさぎのような雲が走る。
 織次はと幻に見た、夜店の頃の銀河の上のおんなを思って、先刻さっきとぼとぼと地獄へ追遣おいやられた大勢の姉様あねさんは、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
 一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着くッついたが、店も大戸おおども閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町はしんとして何処どこにもの影は見えぬ。
「もう寝たかの。」
 と祖母としよりがせかせかござって、
御許ごゆるさい、御許さい。」
 と遠慮らしく店頭みせさきの戸をたたく。
 天窓あまどの上でガッタリ音して、
「何んじゃ。」
 と言う太い声。箱のような仕切戸しきりどから、眉の迫った、頬のふくれた、への字の口して、小鼻の筋からおとがいへかけて、べたりと薄髯うすひげの生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜くやしさを、織次は如何いかにしても忘れられぬ。
 絵はもう人に売った、と言った。

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