外科室・海城発電 |
岩波文庫、岩波書店 |
1991(平成3)年9月17日 |
2000(平成12)年9月5日第18刷 |
1993(平成5)年11月5日第9刷 |
鏡花全集 別巻 |
岩波書店 |
1976(昭和51)年3月26日 |
一
「自分も実は白状をしやうと思つたです。」 と汚れ垢着きたる制服を絡へる一名の赤十字社の看護員は静に左右を顧みたり。 渠は清国の富豪柳氏の家なる、奥まりたる一室に夥多の人数に取囲まれつつ、椅子に懸りて卓に向へり。 渠を囲みたるは皆軍夫なり。 その十数名の軍夫の中に一人逞ましき漢あり、屹と彼の看護員に向ひをれり。これ百人長なり。海野といふ。海野は年配三十八、九、骨太なる手足あくまで肥へて、身の丈もまた群を抜けり。 今看護員のいひ出だせる、その言を聴くと斉しく、 「何! 白状をしやうと思つたか。いや、実際味方の内情を、あの、敵に打明けやうとしたんか。君。」 いふ言ややあらかりき。 看護員は何気なく、 「左様です。撲つな、蹴るな、貴下酷いことをするぢやあありませんか。三日も飯を喰はさないで眼も眩むでゐるものを、赤條々にして木の枝へ釣し上げてな、銃の台尻で以て撲るです。ま、どうでしやう。余り拷問が厳しいので、自分もつひ苦しくつて堪りませんから、すつかり白状をして、早くその苦痛を助りたいと思ひました。けれども、軍隊のことについては、何にも知つちやあゐないので、赤十字の方ならば悉しいから、病院のことなんぞ、悉しくいつて聞かして遣つたです。が、其様なことは役に立たない。軍隊の様子を白状しろつて、益々酷く苛むです。実は苦しくつて堪らなかつたですけれども、知らないのが真実だからいへません。で、とうとう聞かさないでしまひましたが、いや、実に弱つたです。困りましたな、どうも支那人の野蛮なのにやあ。何しろ、まるでもつて赤十字なるものの組織を解さないで、自分らを何がなし、戦闘員と同一に心得てるです。仕方がありませんな。」 とあだかも親友に対して身の上談話をなすが如く、渠は平気に物語れり。 しかるに海野はこれを聞きて、不心服なる色ありき。 「ぢやあ何だな、知つてれば味方の内情を、残らず饒舌ツちまう処だつたな。」 看護員は軽く答へたり。 「いかにも。拷問が酷かつたです。」 百人長は憤然として、 「何だ、それでも生命があるでないか、譬ひ肉が爛れやうが、さ、皮が裂けやうがだ、呼吸があつたくらゐの拷問なら大抵知れたもんでないか。それに、苟も神州男児で、殊に戦地にある御互だ。どんなことがあらうとも、いふまじきことを、何、撲られた位で痛いといふて、味方の内情を白状しやうとする腰抜が何処にあるか。勿論、白状はしなかつたさ。白状はしなかつたに違ないが、自分で、知つてればいはうといふのが、既に我が同胞の心でない、敵に内通も同一だ。」 といひつつ海野は一歩を進めて、更に看護員を一睨せり。 看護員は落着済まして、 「いや、自分は何も敵に捕へられた時、軍隊の事情をいつては不可ぬ、拷問を堅忍して、秘密を守れといふ、訓令を請けた事もなく、それを誓つた覚もないです。また全く左様でしやう、袖に赤十字の着いたものを、戦闘員と同一取扱をしやうとは、自分はじめ、恐らく貴下方にしても思懸はしないでせう。」 「戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気なことをいやがんでい。」 軍夫の一人つかつかと立懸りぬ。百人長は応揚に左手を広げて遮りつつ、 「待て、ええ、屁でもない喧嘩と違うぞ。裁判だ。罪が極つてから罰することだ。騒ぐない。噪々しい。」 軍夫は黙して退きぬ。ぶつぶつ口小言いひつつありし、他の多くの軍夫らも、鳴を留めて静まりぬ。されど尽く不穏の色あり。眼光鋭く、意気激しく、いづれも拳に力を籠めつつ、知らず知らず肱を張りて、強ひて沈静を装ひたる、一室にこの人数を容れて、燈火の光冷かに、殺気を籠めて風寒く、満州の天地初夜過ぎたり。
二
時に海野は面を正し、警むるが如き口気以て、 「おい、それでは済むまい。よしむば、われわれ同胞が、君に白状をしろといつたからツて、日本人だ。むざむざ饒舌るといふ法はあるまいぢやないか、骨が砂利にならうとままよ。それをさうやすやすと、知つてれば白状したものをなんのツて、面と向つてわれわれにいはれた道理か。え? どうだ。いはれた義理ではなからうでないか。」 看護員は身を斜めにして、椅子に片手を投懸けつつ、手にせる鉛筆を弄びて、 「いや。しかし大きに左様かも知れません。」 と片頬を見せて横を向きぬ。 海野は りたる眼を以て、避けし看護員の面を追ひたり。 「何だ、左様かも知れません? これ、無責任の言語を吐いちやあ不可ぞ。」 またじりりと詰寄りぬ。看護員はやや俯向きつ。手なる鉛筆の尖を嘗めて、筒服の膝に落書しながら、 「無責任? 左様ですか。」 渠は少しも逆らはず、はた意に介せる状もなし。 百人長は大に急きて、 「唯(左様ですか)では済まん。様子に寄つてはこれ、きつとわれわれに心得がある。しつかり性根を据へて返答せないか。」 「何様な心得があるのです。」 看護員は顔を上げて、屹と海野に眼を合せぬ。 「一体、自分が通行をしてをる処を、何か待伏でもなすつたやうでしたな。貴下方大勢で、自分を担ぐやうにして、此家へ引込むだはどういふわけです。」 海野は今この反問に張合を得たりけむ、肩を揺りて気兢ひ懸れり。 「うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、先づ聞くことを聞いてからのこととしやう。」 「は、それでは何か誰ぞの吩附ででもあるのですか。」 海野は傲然として、 「誰が人に頼まれるもんか。吾の了簡で吾が聞くんだ。」 看護員はそとその耳を傾けたり。 「ぢやあ貴下方に、他を尋問する権利があるので?」 百人長は面を赤うし、 「囀るない!」 と一声高く、頭がちに一呵しつ。驚破といはば飛蒐らむず、気勢激しき軍夫らを一わたりずらりと見渡し、その眼を看護員に睨返して、 「権利はないが、腕力じゃ!」 「え、腕力?」 看護員は犇々とその身を擁せる浅黄の半被股引の、雨風に色褪せたる、譬へば囚徒の幽霊の如き、数個の物体を はして、秀でたる眉を顰めつ。 「解りました。で、そのお聞きにならうといふのは?」 「知れてる! 先刻からいふ通りだ。何故、君には国家といふ観念がないのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしやうと思ふ。その精神が解らない。(いや、左様かも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじや了見せんぞ、しつかりと返答しろ。」 咄々迫る百人長は太き仕込杖を手にしたり。 「それでどういへば無責任にならないです?」 「自分でその罪を償ふのだ。」 「それではどうして償ひましやう。」 「敵状をいへ! 敵状を。」 と海野は少し色解てどかと身重げに椅子に凭れり。 「聞けば、君が、不思議に敵陣から帰つて来て、係りの将校が、君の捕虜になつてゐた間の経歴について、尋問があつた時、特に敵情を語れといふ、命令があつたそうだが、どういふものか君は、知らない、存じませんの一点張で押通して、つまりそれなりで済むだといふが。え、君、二月も敵陣にゐて、敵兵の看護をしたといふでないか。それで、懇篤で、親切で、大層奴らのために尽力をしたさうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送つたさうだ。その位信任をされてをれば、種々内幕も聞いたらう、また、ただ見たばかりでも大概は知れさうなもんだ。知つてていはないのはどういふ訳だ。余り愛国心がないではないか。」 「いえ、全く、聞いたのは呻吟声ばかりで、見たのは繃帯ばかりです。」
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