七
「うむ、それでは神崎、現在ゐる、此処は一体何処だと思ふか。」 海野は太くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内をしながら、 「左様、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」 「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」 顔に苔むしたる髯を撫でつつ、立ちはだかりたる身の丈豊かに神崎を瞰下ろしたり。 「此処はな、柳が家だ。貴様に惚れてゐる李花の家だぞ。」 今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと微笑めり。 神崎は夢の裡なる面色にてうつとりとその眼をりぬ。 「ぼんやりするない。柳が住居だ。女の家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、故と此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族は皆追出してしまつて、李花はわれわれの手の内のものだ。それだけ予め断つて置く、可か。 さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすれば可、むしろ他のことはしない方が当前だ。敵情を探るのは探偵の係で、戦にあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、敵愾心を起すのは常業のない閑人で、進で国家に尽すのは好事家がすることだ。人は自分のすべきことをさへすれば可、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と煎じ詰めた処さういふのだな。」 神崎は猶予らはで、 「左様、自分は看護員です。」 この冷かなる答を得え百人長は決意の色あり。 「しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!」 「出来ないです。余裕があれば綿繖糸を造るです。」 応答はこれにて決せり。 百人長はいふこと尽きぬ。 海野は悲痛の声を挙げて、 「駄目だ。殺しても何にもならない。可、いま一ツの手段を取らう。権! 吉! 熊! 一件だ。」 声に応じて三名の壮佼は群を脱して、戸口に向へり。時に出口の板戸を背にして、木像の如く突立ちたるまま両手を衣兜にぬくめつつ、身動きもせで煙草をのみたる彼の真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、渠らを室外に出しやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる三人の軍夫は、二人左右より両手を取り、一人後より背を推して、端麗多く世に類なき一個清国の婦人の年少なるを、荒けなく引立て来りて、海野の傍に推据へたる、李花は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養はれて、浮世の風は知らざる身の、爾くこの室に出でたるも恐らくその日が最初ならむ、長き病に俤窶れて、寝衣の姿なよなよしく、簪の花も萎みたる流罪の天女憐むべし。 「国賊!」 と呼懸けつ。百人長は猿臂を伸ばして美しき犠牲の、白き頸を掻掴み、その面をば仰けざまに神崎の顔に押向けぬ。 李花は猛獣に手を取られ、毒蛇に膚を絡はれて、恐怖の念もあらざるまで、遊魂半ば天に朝して、夢現の境にさまよひながらも、神崎を一目見るより、やせたる頬をさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、俄に総の身を震はして、 「あ。」と一声血を絞れる、不意の叫声に驚きて、思はず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して後居にはたと僵れたり。 看護員は我にもあらで衝とその椅子より座を立ちぬ。 百人長は毛脛をかかげて、李花の腹部を無手と蹈まへ、ぢろりと此方を流眄に懸けたり。 「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」 同時に軍夫の一団はばらばらと立懸りて、李花の手足を圧伏せぬ。 「国賊! これでどうだ。」 海野はみづから手を下ろして、李花が寝衣の袴の裾をびりりとばかり裂けり。
八
時に彼の黒衣長身の人物は、ハタと煙管を取落しつ、其方を見向ける頭巾の裡に一双の眼爛々たりき。 あはれ、看護員はいかにせしぞ。 面の色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に露はさで、渠はなほよく静を保ち、徐ろにその筒服を払ひ、頭髪のややのびて、白き額に垂れたるを、左手にやをら掻上げつつ、卓の上に差置きたる帽を片手に取ると斉しく、粛然と身を起して、 「諸君。」 とばかり言ひすてつ。 海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫の隙より、真白く細き手の指の、のびつ、屈みつ、洩れたるを、纔に一目見たるのみ。靴音軽く歩を移して、そのまま李花に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆疾く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、李花のなきがらぞ蒼かりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、濶歩坐中に動ぎ出て、燈火を仰ぎ李花に俯して、厳然として椅子に凭り、卓子に片肱附きて、眼光一閃鉛筆の尖を透し見つ。電信用紙にサラサラと、
月 日 海城発 予は目撃せり。 日本軍の中には赤十字の義務を完して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれどもまた敵愾心のために清国の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり。委細はあとより。
じよん、べるとん
英国ロンドン府、アワリー、テレグラフ社編輯行
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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