三十二
「広く行渉(ゆきわた)るばかりを望んで、途中で群消(むらぎ)えになるような情を掛けずに、その恵の露を湛(たた)えて、ただ一つのものの根に灌(そそ)いで、名もない草の一葉だけも、蒼々(あおあお)と活かして頂きたい。 大勢寄ってなさる仕事を、貴女方、各々(めいめい)御一人宛(ずつ)で、専門に、完全に、一人(にん)を救って下さるわけには参りませんか。力が余れば二人です、三人です、五人ですな。余所(よそ)の子供の世話を焼く隙(ひま)に、自分の児(こ)に風邪を感(ひ)かせないように、外国の奴隷に同情をする心で、御自分お使いになる女中を勦(いたわ)ってやって欲しいんですが、これじゃ大掴(おおづか)みのお話です、何もそれをかれこれ申上げるわけではないのです。 ところが、差当り、今目の前に、貴女の一雫(ひとしずく)の涙を頂かないと、死んでも死に切れない、あわれな者があるんです。 この事に就きましては、私(わたくし)は夜の目も合わないほど心を苦めまして。」 とようよう少し落着いて、 「前(ぜん)から、貴女の御憐愍(ごれんみん)を願おうと思っていたんですけれど、島山さんのと違って、貴女には軽々(かろがろ)しくお目に懸(かか)る事も出来ませんし、そうかと云って、打棄(うっちゃ)って置けば、取返しのなりません一大事、どうしようかと存じておりました処へ、実(まこと)に何とも思いがけない、不思議な御光来(おいで)で、殊にそれが慈善会にいらっしゃる途中などは、神仏の引合わせと申しても宜しいのです。 どうぞ、その、遍(あまね)く御施しになろうという如露の水を一雫、一滴で可(よ)うございます、私(わたくし)の方へお配分(すそわけ)なすってくださるわけには参りませんか。 御存じの風来者でありますけれども、早瀬が一生の恩に被(き)ます。」 と拳(こぶし)を握り緊(し)めて云うのを、半ば驚き、半ば呆れ、且つ恐れて聞いていたようだった。重かった夫人の眉が、ここに至ると微笑(ほほえみ)に開けて、深切に、しかし躾(たしな)めるような優しい調子で、 「お金子(かね)が御入用なんでございますか。」 と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、直(すぐ)にも帯の間へ辷(すべ)って、懐紙(ふところがみ)の間から華奢(きゃしゃ)な(嚢物(ふくろもの))の動作(こなし)である。道子はしばしば妹の口から風説(うわさ)されて、その暮向(くらしむき)を知っていた。 ト早瀬の声に力が入って、 「金子(かね)にも何にも、私(わたくし)が、自分の事ではありません。」 「まあ、失礼な事を云って、」 と襟を合わせて面(おもて)を染め、 「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」 「ええ、勿論、救って頂きたい者は他(ほか)にあるんです。」 「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、喧(やかま)しゅうございますから。」 ……差俯向(さしうつむ)いて物寂しゅう、 「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」 「いや、貴女でなくては不可(いか)んのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、翌日(あす)も待たないという容体なんです。 六十近い老人で、孫子はもとより、親類(みより)らしい者もない、全然(まるっきり)やもめで、実際形影相弔うというその影も、破蒲団(やぶれぶとん)の中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、褥摺(とこず)れに摺切れているじゃありませんか。 日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、夫人(おくさん)の顔が見たいと云います。」 「ええ、」 「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、言(ことば)をお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗(まっくら)な地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の端(は)の月の光とも思って、一生の思出に、莞爾(にっこり)したいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人(おくさん)、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」 と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、 「どこの、どんな人でございますの。」 「直(じ)きこの安東(あんとう)村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁(べっとう)をしたもので、……夫人(おくさん)、貴女の、実の……御父上(おとうさん)……」
三十三
「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の御父上(おとうさん)、英臣(ひでおみ)さんが、御出征中、貴女の母様(おっかさん)が御宅の馬丁貞造と……」 早瀬はちょっと言(ことば)を切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に飜然(ひらり)と一葉、半紙に書いた女文字。その玉章(たまずさ)の中には、恐ろしい毒薬が塗籠(ぬりこ)んででもあったように、真蒼(まっさお)になって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、頤(おとがい)深く差入れた、俤(おもかげ)を屹(きっ)と視て、 「……などと云う言(ことば)だけも、貴女方のお耳へ入れられる筈(はず)のものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げる暇(いとま)もありません。 で、そのために貴女がおできなすったんで、まだお腹(はら)にいらっしゃる間には、貴女の母様(おっかさん)が水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃安八(あはち)の者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行ってお在(いで)なすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。 馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄を食(は)んだ旧藩の御馬廻の忰(せがれ)で、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の奥様(おくさん)と出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ惚気(のろけ)を云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、児(こ)をなくすという恐(おそろし)い相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所に遁(に)げておくんなさい。お肯入(ききい)れ無く、思切った業(わざ)をなさりゃ、表向きに坐込む、と変った言種(いいぐさ)をしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが凱旋(がいせん)でしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日が経(た)って、貴女は九月児(ここのつきご)でお在(いで)なさる。 が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、河野さんは、お家が医者だから。……そうでないと、大抵九月児は育たんものだと申します。また旧弊な連中(れんじゅう)は、戦争で人が多く死んだから、生れるのが早い、と云ったそうです。 名誉に、とお思いなすったか、それとも最初(はじめて)の御出産で、お喜びの余りか、英臣さんは現に貴女の御父上(おとうさん)だ。 貞造は、無事に健かに産れた児の顔を一目見ると、安心をして、貴女の七夜の御祝いに酔ったのがお残懐(なごり)で、お暇を頂いて、お邸を出たんです。 朝晩お顔を見ていちゃ、またどんな不了簡(ふりょうけん)が起るまいものでもない、という遠慮と、それに肺病の出る身体(からだ)、若い内から僂麻質(リョウマチス)があったそうで。旁々(かたがた)お邸を出るとなると、力業(ちからわざ)は出来ず、そうかと云って、その時分はまだ達者だった、阿母(おふくろ)を一人養わなければならないもんですから、奥さんが手切(てぎれ)なり心着(こころづけ)なり下すった幾干(いくら)かの金子(かね)を資本(もとで)にして、初めは浅間の額堂裏へ、大弓場を出したそうです。 幸い商売が的に当って、どうにか食って行かれる見込みのついた処で、女房を持ったんですがね。いや、罰(ばち)は覿面(てきめん)だ。境内へ多時(しばらく)かかっていた、見世物師と密通(くッつ)いて、有金を攫(さら)って遁(に)げたんです。しかも貴女、女房が孕(はら)んでいたと云うじゃありませんか。」 「まあ、」 と、夫人は我知らず嘆息した。 「忌々しい、とそこで大弓の株を売って、今度は安東村の空地を安く借りて、馬場を拵(こさ)えて、貸馬を行(や)ったんですな。 貴女、それこそ乳母(おんば)日傘で、お浅間へ参詣にいらしった帰り途、円い竹の埒(らち)に掴(つかま)って、御覧なすった事もありましょう。道々お摘みなすった鼓草(たんぽぽ)なんぞ、馬に投げてやったりなさいましたのを、貞造が知っています。 阿母(おふくろ)が死んだあとで、段々馬場も寂れて、一斉(いっとき)に二頭(ひき)斃死(おち)た馬を売って、自暴(やけ)酒を飲んだのが、もう飲仕舞で。米も買えなくなる、粥(かゆ)も薄くなる。やっと馬小屋へ根太を打附(ぶッつ)けたので雨露を凌(しの)いで、今もそこに居るんですが、馬場のあとは紺屋の物干になったんです。……」
三十四
「私(わたくし)は不思議な縁で、去年静岡へ参って……しかもその翌日でした。島山さんのと、浅間を通った時、茶店へ休んで、その貞造に逢ったんです。それからこういう秘密な事を打明けられるまで、懇意になって、唯今の処じゃ、是非貴女のお耳へ入れなくってはなりませんほど、老人危篤(きとく)なのでございます。 私でさえ、これは一番(ひとつ)貴女に願って、逢ってやって頂きたいと思いましたから、今迄幾度(いくたび)か病人に勧めても見ましたけれども、いやいや、何にも御存じない貴女に、こういう事をお聞かせ申すのは、足を取って地獄へ引落すようなもの。あとじゃ月も日も、貴女のお目には暗くなろう。お最惜(いとし)い、と貞造が頭(かぶり)を掉(ふ)ります。 道理(もっとも)だと控えました。もっとも私も及ばずながら医師(いしゃ)の世話もしたんです、薬も飲ませました。名高い医学士でお在(いで)なさるから一ツ河野さんの病院へ入院してはどうか、余所(よそ)ながらお道さんのお顔を見られようから、と云いましたが、もっての外だ、と肯(き)きません。 清い者です。 人の悪い奴で御覧なさい、対手(あいて)が貴女の母様(おっかさん)で、そのお手紙が一通ありゃ、貞造は一生涯朝から刺身で飲めるんですぜ。 またちっとでも強情(ねだ)りがましい了見があったり、一銭たりとも御心配を掛(かけ)るような考(かんがえ)があるんなら、私は誓って口は利かんのです。 そうじゃない! ただ一目拝みたいと云う、それさえ我慢をし抜いた、それもです……老人自分じゃ、まだ治らないとは思っていなかったからなので。煎じて飲むのがまだるッこし、薬鍋の世話をするものも無いから、薬だと云う芭蕉の葉を、青いまんまで噛(かじ)ったと言います―― その元気だから、どうかこうか薬が利いて、一度なんざ、私と一所に安倍川へ行って餅を食べて茶を喫(の)んで帰った事もあったんですが、それがいいめ[#「いいめ」に傍点]を見せたんで、先頃からまたどッと褥(とこ)に着いて、今は断念(あきら)めた処から、貴女を見たい、一目逢いたいと、現(うつつ)に言うようになったんです。 容態が容態ですから、どうぞ息のある内にと心配をしていたんですが、人に相談の出来る事じゃなし、御宅へ参ってお話をしようにも、こりゃ貴女と対向(さしむか)いでなくっては出来ますまい。 失礼だけれども、御主人の医学士は、非常に貴女を愛していらっしゃるために、恐ろしく嫉妬深い、と島山さんのに、聞きました。 ほとんど当惑していた処へ、今日のおいでは実に不思議と云っても可い。一言(父よ。)とおっしゃって、とそれまでも望むんじゃないのです。弥陀(みだ)の白光(びゃっこう)とも思って、貴女を一目と、云うのですから、逢ってさえ下されば、それこそ、あの、屋中(うちじゅう)真黒(まっくろ)に下った煤(すす)も、藤の花に咲かわって、その紫の雲の中に、貴女のお顔を見る嬉しさはどんなでしょう。 そうなれば、不幸極まる、あわれな、情ない老人が、かえって百万人の中に一人も得られない幸福なものとなって、明かに端麗な天人を見ることを得て、極楽往生を遂げるんです、――夫人(おくさん)。」 と云った主税の声が、夫人の肩から総身へ浸渡るようであった。 「貞造は、貴女の実(うみ)の父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。」 「は……い。」 「会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜も更(ふ)けると申しますから、人目を紛らすのに仔細(しさい)ありません。得難い機会です。私(わたくし)がお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。」 と片手に燐寸(マッチ)を持ったと思うと、片手が衝(つ)と伸びて猶予(ため)らわず夫人の膝から、古手紙を、ト引取って、 「一度お話した上は、たとい貴女が御不承知でも、もうこんなものは、」 と※(ぱっ)と火を摺(す)ると、ひらひらと燃え上って、蒼くなって消えた。が、靡(なび)きかかる煙の中に、夫人の顔がちらちらと動いて、何となく、誘われて膝も揺ら揺ら。 居坐(いずまい)を直して、更(あらた)まって、 「お連れ下さいまし、どうぞ。」 がらがらと格子の開く音。それ、言わぬことか。早や座に見えた菅子の姿。眩(まばゆ)いばかりの装いで、坐りもやらず、 「まあ、姉さん!」
私 語(さゞめごと)
三十五
「もう遅いわ、姉さん、早くいらっしゃらないでは、何をしているの、」 と菅子は立ったままで急込(せきこ)んで云う。戸外(おもて)の暑さか、駈込んだせいか、赫(かっ)と逆上(のぼ)せた顔の色。 胸打騒げる姉夫人、道子がかえって物静かに、 「先刻(さっき)から待っていたんですよ。」 「待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、」 「何ですねえ、邪険な、和女(あなた)を待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。」 「私は用があるわ。」 「寄道をするんですか。」 「じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。」 とまだ坐りもせぬ。 主税は腕組をしながら、 「はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。」 「承わって参りましょうか。」 と姉夫人が立ちかけた膝をまた据えて、何となく残惜そうな風が見えると、 「早くいらっしゃらなくっちゃ……私は可(い)いけれども、姉さん、貴女は兄さん(医学士)がやかましいんだもの、面倒よ。」 と見下(みおろ)す顔を、斜めに振仰いだ、蒼白(あおじろ)い姉の顔に、血が上(のぼ)って、屹(きっ)となったが、寂しく笑って、 「ああ、そうね、私は前(さき)に参りましょう。会場の様子は分らないけれど、別にまごつくような事はありますまいから。」 とおとなしく云って、端然(きちん)と会釈して、 「お邪魔をいたしましてございます。」とちょいと早瀬の目を見たが――双方で瞬きした。 「まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。」 「いいえ、そうしてはおられません、もっと、」 と声に力が籠って、 「種々(いろいろ)お話を伺いとう存じますけれども……」 「私も、直(じき)だわ。」 「待っていますよ。」 と優しい物越、悄々(しおしお)と出る後姿。主税は玄関へ見送って、身を蔽(おおい)にして、密(そっ)とその袂(たもと)の端を圧(おさ)えた。 「さようなら!」 勢(いきおい)よく引返すと、早や門の外を轣轆(れきろく)として車が行く。 「暑い、暑い、どうも大変に暑いのね。」 菅子はもうそこに、袖を軽く坐っていたが、露の汗の悩ましげに、朱鷺(とき)色縮緬の上〆(うわじめ)の端を寛(ゆる)めた、辺(あたり)は昼顔の盛りのようで、明(あかる)い部屋に白々地(あからさま)な、衣(きぬ)ばかりが冷(すず)しい蔭。 「久振だわね。」 「久振じゃないじゃありませんか。今の言種(いいぐさ)は何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、傍(そば)で聞いていられやしない。」 「だって事実だもの。病院に入切(はいりきり)で居ながら、いつの何時(なんどき)には、姉さんが誰と話をしたッて事、不残(のこらず)旦那様御存じなの、もう思召(おぼしめし)ったらないんですからね。 それでも大事にして置かないと、院長は家中(うちじゅう)の稼ぎ人で、すっかり経済を引受けてるんだわ。お庇様(かげさま)で一番末の妹の九ツになるのさえ、早や、ちゃんと嫁入支度が出来てるのよ。 道楽一ツするんじゃなし、ただ、姉さんを楽(たのし)みにして働いているんですからね。ちっとでも怒らしちゃ大変なのだから、貴下も気をつけて下さらなくっちゃ困るわ。」 「何を云ってるんです、面白くもない。」 「今の様子ッたら何です、厭(いや)に御懇(ごねんごろ)ね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。」 「可い加減になさい。串戯(じょうだん)も、」 「だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と対向(さしむか)いで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。」 「まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。」
三十六
しめやかな声で、夫人が―― 「貴下……どうするのよ。」 「…………」 「私がこれほど願っても、まだ妙子さんを兄さん(英吉)には許してくれないの。今までにもどんなに頼んだか知れないのに、それじゃ貴下、あんまりじゃありませんか。 去年から口説(くどき)通しなんだわ。貴下がはじめて、静岡(こちら)へ来て、私と知己(ちかづき)になったというのを聞いて、(精一杯御待遇(おもてなし)をなさい。)ッて東京から母さんが手紙でそう云って寄越したのも、酒井さんとの縁談を、貴下に調えて頂きたければこそだもの。 母さんだって、どのくらい心配しているか知れないんだわ。今まで、ついぞ有った験(ためし)は無い。こちらから結婚を申込んで刎(は)ねられるなんて、そんな事――河野家の不名誉よ、恥辱ッたらありませんものね。 兄さんも、どんなにか妙子さんを好いていると見えて、一体が遊蕩(あそび)過ぎる処へ、今度の事じゃ失望して、自棄(やけ)気味らしいのよ、遣り方が。自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」 と一際低声(こごえ)で、 「ちょいと、いかな事(こッ)ても小待合へなんぞ倒込むんですって。監督(おめつけ)の叔父さんから内々注意があるもんだから、もう疾(とっ)くに兄さんへは家(うち)でお金子(かね)を送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。 この頃じゃ北町(桐楊塾)へも寄り着かないんですって。 だってどこに転がっていたって、皆(みんな)お金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百と纏(まとま)ったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。 妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。…… もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、遊蕩(あそび)も駄々で可(よ)かったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さが堪(たま)らないんだもの。 病院の義兄(にいさん)は養子だし、大勢の兄弟中(なか)に、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それは家(うち)でもほんとうに困るのよ。 早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思って肯(き)いて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」 「ですから、ですから。」 と圧(おさ)えるように口を入れて、 「決(け)して厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」 事もなげに打笑って、 「それじゃ反対(あべこべ)だった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」 「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家(となり)の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地(いこじ)に、さもしいお米の価(ね)を気にするようなことを言うんだろう。 ほんとうに串戯(じょうだん)ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい[#「御覧なさい」は底本では「御覧さない」と誤記]、痩(や)せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体(からだ)が萎(すく)むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。 跪(ひざまず)いて、夫の足に接吻(キッス)をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。 ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」 机に凭(もた)れて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、屹(きっ)と居直って、 「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に欲(ほし)いと言うんですか。」 「まあ……そうよ。」 「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」
三十七
「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」 「貴女が水臭い事を言うからさ。」 「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜(よる)内を出るわけには行(ゆ)かず、お稽古に来たって、大勢入込(いれご)みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。 過日(いつか)何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙(かわず)の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯(しごき)か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇(やみ)か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯(じょうだん)云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵(こしら)えさせたんだわ。 頭痛がしてならないから、十畳の真中(まんなか)へ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」 「演劇(しばい)のようだ。」 と低声(こごえ)で笑うと、 「理想実行よ。」と笑顔で言う。 「どうして渡るんです。」 「まさか橋をかける言種(いいぐさ)は、貴下、無いもの。」 「だから、渡られますまい。」 「合歓の樹の枝は低くってよ。掴(つかま)って、お渡んなさいなね。」 「河童(かっぱ)じゃあるまいし、」 「ほほほほ、」 と今度は夫人の方が笑い出したが。 「なにしろ、貴下は不実よ。」 「何が不実です。」 「どうかして下さいな。」 ――更(あらたま)って―― 「妙子さんを。」 「ですから色仕掛けか、と云うんです。」 「あんな恐い顔をして、(と莞爾(にっこり)して。)ほんとうはね、私……自ら欺(あざ)むいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲(ぎせい)にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来(ゆきき)をしているの。 でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母(ばあや)にだって面(おもて)を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然(ぞっと)してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠(や)せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他(ほか)の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多(かるた)会時分から、有りもしない事でもありそうに疑(うたぐ)っているようなの。もしかしたら、貴下私の身体(からだ)はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」 言い言い、縋(すが)るように言う。 「詰らん言(こと)を。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」 「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」 「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わず拳(こぶし)を握ったのを、我を引緊(ひきし)められたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、 「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」 「訳は無い、島山から離縁されて、」 「そんな事が、出来るもんですか。」 「出来ないもんですか。当前(あたりまえ)だ、」 と自若として言うと、呆れたように、また……莞爾(にっこり)、 「貴下はどうしてそうだろう。」
三十八
「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟を食(くら)わずとさえ云うんだ。貴女、」 と主税は澄まして言い懸けたが、常(ただ)ならぬ夫人の目の色に口を噤(つぐ)んだ。菅子は息急(いきぜわ)しい胸を圧(おさ)えるのか、乳(ち)の上へ手を置いて、 「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」 と、ツンとする。 「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。 それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分の許(とこ)へ令夫人(おくがた)をお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。 だから貴女もそうなさい。懊悩(おうのう)も煩悶(はんもん)も有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、大不埒(だいふらち)を働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」 夫人はこれを戯(たわむれ)のように聞いて、早瀬の言(ことば)を露も真(まこと)とは思わぬ様子で、 「戯談(じょうだん)おっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」 と皆まで言わせず、事も無げに答えた。 「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」 「暢気(のんき)で怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」 「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負(しょ)い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ堪(こた)えまさ。」 余(あまり)の事と、夫人は凝(じっ)と瞻(みまも)って、 「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」 「いざと云う時、貴女を棄てて逐電(ちくてん)でもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を極(き)めて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二(まっぷた)ツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人(おくさん)が御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」 「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」 「また、一も二も無いんですから、」 「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」 「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。盗賊(どろぼう)は自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、放火(つけび)、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた当前(あたりまえ)じゃありませんか。愚図々々(ぐずぐず)塗秘(ぬりかく)そうとするから、卑怯未練な、吝(けち)な、了見が起って、他(ひと)と不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ疾(と)くに――先生……には面(おもて)は合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。 それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の亀鑑(きかん)ともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。 浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」 「じゃ……私を、」 と擦寄って、 「不埒と言わないばッかりね。」 さすがに顔の色をかえて屹(きっ)と睨(にら)むと、頷(うなず)いて、 「同時に私だって、」 と笑って言う。 その肩を突いて、 「まあ、仕ようの無い我儘(わがまま)だよ。」
三十九
「貴下は始めからそうなんだわ。…… 道学者の坂田(アバ大人)さんが、兄さんの媒口(なこうどぐち)を利くのが癪(しゃく)に障るからって、(攫徒(すり)の手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間に袂(たもと)へ入れて置いて逆捩(さかねじ)を食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それで宜(よろ)しくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の食詰者(くいつめもの)です。)とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」 早瀬の胸のあたりに、背向(うしろむ)きになって、投げ出した褄(つま)を、熟(じっ)と見ながら、 「私、どうしたら、そんな乱暴な人を友だちにしたんだか。」 と自から怪むがごとく独言(ひとりご)つと、 「不都合な方と知りながら、貴女と附合ってる私と同一(おんなじ)でしょう。」 「だって私は、貴下のために悪いようにとした事は一つも無いのに、貴下の方じゃ、私の身の立たないように、立たないようにと言うじゃありませんか。早瀬さんへ行くのが悪いんなら、(どうでもして下さい、御心まかせ。)何のって、そんな事が、譬(たと)えにも島山に言われるもんですか。 島山の方は、それで離縁になるとして、そうしたら、貴下、第一河野の家名はどうなると思うのよ。末代まで、汚点(しみ)がついて、系図が汚(けが)れるじゃありませんか。」 「すでに云々(うんぬん)が有るんじゃありませんか。それを秘(かく)そうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。」 「そんな事を云って、なぜ、貴下は、」 少し起返って、なお背向(うしろむ)きに、 「貴下にちっとも悪意を持っていない、こうして名誉も何も一所に捧げているような、」 と口惜(くや)しそうに、 「私を苦しめようとなさるんだろうねえ。」 「ちっとも苦しめやしませんよ。」 「それだって、乱暴な事を言ってさ、」 「貴女が困っているものを、何も好き好んで表向(おもてむき)にしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の身体(からだ)はどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。」 と言う顔を斜めに視て、 「ですから、そんな打破(ぶちこわ)しをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気が易(やす)まって、良心の呵責(かしゃく)を免れることが出来ますッて云うのにね。肯(き)きますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げている婦(おんな)の願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。」 「(名誉も何も)とおっしゃるんだ。」 「ああ、そうよ。」と捩向(ねじむ)いて清(すずし)く目を※(みひら)く。 「なぜその上、家も河野もと言わんのです。名誉を別にした家がありますか。家を別にした河野がありますか。貴女はじめ家門の名誉と云う気障(きざ)な考えが有る内は、情合は分りません。そういうのが、夫より、実家(さと)の両親(ふたおや)が大事だったり、他(ひと)の娘の体格検査をしたりするのだ。お妙さんに指もささせるもんですか。 お妙さんの相談をしようと云うんなら、先ず貴女から、名誉も家も打棄(うっちゃ)って、誰なりとも好いた男と一所になるという実証をお挙げなさい。」 と意気込んで激しく云うと、今度は夫人が、気の無い、疲れたような、倦(うん)じた調子で、 「そしてまた(結婚式は、安東村の、あの、乞食小屋見たような茅屋(あばらや)で挙げろ)でしょう。貴下はまるッきり私たちと考えが反対(あべこべ)だわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に仇(あだ)する敵(かたき)だわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市(バザア)へ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」 夫人と……別れたあとで、主税はカッと障子を開けて、しばらく天を仰いでいたが、 「ああ、今日はお妙さんの日だ。」と、呟(つぶや)いて仰向けに寝た――妙子の日とは――日曜を意味したのである。
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