八
「やあ、これからまたお出かい。」 と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は見知越。一昨日もちょっと顔を合わせた、峰の回向堂の堂守で、耳には数珠をかけていた。仁右衛門といって、いつもおんなじ年の爺である。 その回向堂は、また庚申堂とも呼ぶが、別に庚申を祭ったのではない。さんぬる天保庚申年に、山を開いて、共同墓地にした時に、居まわりに寺がないから、この御堂を建立して、家々の位牌を預ける事にした、そこで回向堂とも称うるので、この堂守ばかり、別に住職の居室もなければ、山法師も宿らぬのである。 「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」 と早、離れてはいたが、謙造は傍なる、手向にあらぬ花の姿に、心置かるる風情で云った。 「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」 「ちょっと休まして頂くかも知れません。爺さんは、」 「私かい。講中にちっと折込みがあって、これから通夜じゃ、南無妙、」 と口をむぐむぐさしたが、 「はははは、私ぐらいの年の婆さまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって嫁入りにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、掛金も何にもない、南無妙、」 と二人を見て、 「ははあ、傘なしじゃの、いや生憎の雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」 とばッさり窄める。 「何、構やしないよ。」 「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの※[#「姉」の正字、「女+ のつくり」、312-5]さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」 「済みませんねえ、」 と顔を赤らめながら、 「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」 「私は濡れても天日で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇じゃ、宿坊で借りて行く……南無妙、」 と押つけるように出してくれる。 捧げるように両手で取って、 「大助りです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」 と見返って、莞爾して、 「どうも、嬰児のように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」 と今の姿を見られたろう、と極の悪さにいいわけする。 お君は俯向いて、紫の半襟の、縫の梅を指でちょいと。 仁右衛門、はッはと笑い、 「おお、名物の梟かい。」 「いいえ、それよりか、そのもみじ狩の額の鬼が、」 「ふむ、」 と振仰いで、 「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、余吾将軍維茂ではない。見さっしゃい。烏帽子素袍大紋じゃ。手には小手、脚にはすねあてをしているわ……大森彦七じゃ。南無妙、」 と豊かに目を瞑って、鼻の下を長くしたが、 「山頬の細道を、直様に通るに、年の程十七八計なる女房の、赤き袴に、柳裏の五衣着て、鬢深く鍛ぎたるが、南無妙。 山の端の月に映じて、ただ独り彳みたり。……これからよ、南無妙。 女ちと打笑うて、嬉しや候。さらば御桟敷へ参り候わんと云いて、跡に付きてぞ歩みける。羅綺にだも不勝姿、誠に物痛しく、まだ一足も土をば不蹈人よと覚えて、南無妙。 彦七不怺、余に露も深く候えば、あれまで負進せ候わんとて、前に跪きたれば、女房すこしも不辞、便のう、いかにかと云いながら、やがて後にぞ靠りける、南無妙。 白玉か何ぞと問いし古えも、かくやと思知れつつ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂なつかしく、蹈足もたどたどしく、心も空に浮れつつ、半町ばかり歩みけるが、南無妙。 月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも厳しかりけるこの女房、南無妙。」 といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて懐へ入れたが、身体は平気で、石段、てく、てく。
九
ニノ眼ハ朱ヲ解テ。鏡ノ面ニ洒ゲルガゴトク。上下歯クイ違テ。口脇耳ノ根マデ広ク割ケ。眉ハ漆ニテ百入塗タルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。振分髪ノ中ヨリ。五寸計ナル犢ノ角。鱗ヲカズイテ生出でた、長八尺の鬼が出ようかと、汗を流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は怯えずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに物寂い顔である。 「さ、出かけよう。」 と謙造はもうここから傘ばッさり。 「はい、あなた飛んだご迷惑でございます。」 「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路はまだそんなでもないから、跣足には及ぶまいが、裾をぐいとお上げ、構わず、」 「それでも、」 「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら引絡まって歩行悪そうだった。 極の悪いことも何にもない。誰も見やしないから、これから先は、人ッ子一人居やしない、よ、そうおし、」 「でも、余り、」 片褄取って、その紅のはしのこぼれたのに、猶予って恥しそう。 「だらしがないから、よ。」 と叱るように云って、 「母様に逢いに行くんだ。一体、私の背に負んぶをして、目を塞いで飛ぶところだ。構うもんか。さ、手を曳こう、辷るぞ。」 と言った。暮れかかった山の色は、その滑かな土に、お君の白脛とかつ、緋の裳を映した。二人は額堂を出たのである。 「ご覧、目の下に遠く樹立が見える、あの中の瓦屋根が、私の居る旅籠だよ。」 崕のふちで危っかしそうに伸上って、 「まあ、直そこでございますね。」 「一飛びだから、梟が迎いに来たんだろう。」 「あれ。」 「おっと……番毎怯えるな、しっかりと掴ったり……」 「あなた、邪慳にお引張りなさいますな。綺麗な草を、もうちっとで蹈もうといたしました。可愛らしい菖蒲ですこと。」 「紫羅傘だよ、この山にはたくさん咲く[#「咲く」は底本では「吹く」]。それ、一面に。」 星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が薄鼠になって濡れたから、しきりなく梟の声につけても、その紫の俤が、燐火のようで凄かった。 辿る姿は、松にかくれ、草にあらわれ、坂に沈み、峰に浮んで、その峰つづきを畝々と、漆のようなのと、真蒼なると、赭のごときと、中にも雪を頂いた、雲いろいろの遠山に添うて、ここに射返されたようなお君の色。やがて傘一つ、山の端に大な蕈のようになった時、二人はその、さす方の、庚申堂へ着いたのである。 と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は後に、御母様がそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の思違いであったろう。 框がすぐに縁で、取附きがその位牌堂。これには天井から大きな白の戸帳が垂れている。その色だけ仄に明くって、板敷は暗かった。 左に六畳ばかりの休息所がある。向うが破襖で、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の居る処。勝手口は裏にあって、台所もついて、井戸もある。 が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。 前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸漏る明を見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。 横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が氷を削ったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また怯えようと、それは閉めたままでおいたのである。
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