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侏儒の言葉(しゅじゅのことば)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 9:07:38 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语




侏儒の言葉(遺稿)


   弁護

 他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。

   女人

 健全なる理性は命令している。――「なんじ、女人を近づくるなかれ。」
 しかし健全なる本能は全然反対に命令している。――「爾、女人を避くる勿れ。」

   又

 女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。

   理性

 わたしはヴォルテェルを軽蔑けいべつしている。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に満腔まんこう呪咀じゅそを加えなければならぬ。しかし世界の賞讃しょうさんに酔った Candide の作者の幸福さは!

   自然

 我我の自然を愛する所以ゆえんは、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のようにねたんだり欺いたりしないからである。

   処世術

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

   女人崇拝

「永遠に女性なるもの」を崇拝したゲエテは確かに仕合せものの一人だった。が、Yahoo のめすを軽蔑したスウィフトは狂死せずにはいなかったのである。これは女性ののろいであろうか? 或は又理性の呪いであろうか?

   理性

 理性のわたしに教えたものは畢竟ひっきょう理性の無力だった。

   運命

 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云う言葉は決して等閑に生まれたものではない。

   教授

 若し医家の用語を借りれば、いやしくも文芸を講ずるには臨床的でなければならぬはずである。しかも彼等はいまかつて人生の脈搏みゃくはくに触れたことはない。殊に彼等の或るものは英仏の文芸には通じても彼等を生んだ祖国の文芸には通じていないと称している。

   知徳合一

 我我は我我自身さえ知らない。いわんや我我の知ったことを行に移すのは困難[#「困難」は底本では「因難」]である。「知慧ちえと運命」を書いたメエテルリンクも知慧や運命を知らなかった。

   芸術

 最も困難[#「困難」は底本では「因難」]な芸術は自由に人生を送ることである。もっとも「自由に」と云う意味は必ずしも厚顔にと云う意味ではない。

   自由思想家

 自由思想家の弱点は自由思想家であることである。彼は到底狂信者のように獰猛どうもうに戦うことは出来ない。

   宿命

 宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。

   彼の幸福

 彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!

   小説家

 最も善い小説家は「世故せこに通じた詩人」である。

   言葉

 あらゆる言葉は銭のように必ず両面をそなえている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟ひっきょう臆病おくびょうな」と云うことに過ぎない。

   或物質主義者の信条

「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」

   阿呆

 阿呆はいつも彼以外の人人をことごとく阿呆と考えている。

   処世的才能

 何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。

   懺悔

 古人は神の前に懺悔ざんげした。今人は社会の前に懺悔している。すると阿呆や悪党を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦しゃばくに堪えることは出来ないのかも知れない。

   又

 しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出来るかと云うことはおのずから又別問題である。

   「新生」読後

 果して「新生」はあったであろうか?

   トルストイ

 ビュルコフのトルストイ伝を読めば、トルストイの「わが懺悔」や「わが宗教」の※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだったことは明らかである。しかしこの※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)を話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはない。彼の※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)は余人の真実よりもはるかに紅血を滴らしている。

   二つの悲劇

 ストリントベリイの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「観覧随意」ではなかった。従って後者は前者よりも一層悲劇的に終ったのである。

   ストリントベリイ

 彼は何でも知っていた。しかも彼の知っていたことを何でも無遠慮にさらけ出した。何でも無遠慮に、――いや、彼も亦我我のように多少の打算はしていたであろう。

   又

 ストリントベリイは「伝説」の中に死は苦痛か否かと云う実験をしたことを語っている。しかしこう云う実験は遊戯的に出来るものではない。彼も亦「死にたいと思いながら、しかも死ねなかった」一人である。

   或理想主義者

 彼は彼自身の現実主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかった。しかしこう云う彼自身は畢竟理想化した彼自身だった。

   恐怖

 我我に武器をらしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。

   我我

 我我は皆我我自身を恥じ、同時に又彼等を恐れている。が、誰も卒直にこう云う事実を語るものはない。

   恋愛

 恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

   或老練家

 彼はさすがに老練家だった。醜聞を起さぬ時でなければ、恋愛さえ滅多にしたことはない。

   自殺

 万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

   又

 自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである。

   又

 死にたければいつでも死ねるからね。
 ではためしにやって見給え。

   革命

 革命の上に革命を加えよ。しからば我等は今日よりも合理的に娑婆苦をむることを得べし。

   死

 マインレンデルはすこぶる正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。

   「いろは」短歌

 我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない。

   運命

 遺伝、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟ひっきょうこの三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僣越せんえつである。

   嘲けるもの

 他をあざけるものは同時に又他に嘲られることを恐れるものである。

   或日本人の言葉

 我にスウィツルを与えよ。しからずんば言論の自由を与えよ。

   人間的な、余りに人間的な

 人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。

   或才子

 彼は悪党になることは出来ても、阿呆になることは出来ないと信じていた。が、何年かたって見ると、少しも悪党になれなかったばかりか、いつもただ阿呆に終始していた。

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