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侏儒の言葉(しゅじゅのことば)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 9:07:38 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



   服装

 少くとも女人の服装は女人自身の一部である。啓吉の誘惑に陥らなかったのは勿論もちろん道念にもったのであろう。が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借着をしている。もし借着をしていなかったとすれば、啓吉もさほど楽々とは誘惑の外に出られなかったかも知れない。
 註 菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。

   処女崇拝

 我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽こっけいなる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けても好い時分である。

   又

 処女崇拝は処女たる事実を知った後に始まるものである。即ち卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。この故に処女崇拝者は恋愛上の衒学者げんがくしゃと云わなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構えているのも或は偶然ではないかも知れない。

   又

 勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見ているものであろう。

   礼法

 或女学生はわたしの友人にこう云う事を尋ねたそうである。
「一体接吻せっぷんをする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」
 あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思っている。

   貝原益軒

 わたしはやはり小学時代に貝原益軒かいばらえきけんの逸事を学んだ。益軒はかつて乗合船の中に一人の書生と一しょになった。書生は才力に誇っていたと見え、滔々とうとうと古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩じくじとして先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。
 当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫すんごうの教訓さえ発見出来ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるはわずかに下のように考えるからである。――
 一 無言に終始した益軒の侮蔑ぶべつは如何に辛辣しんらつを極めていたか!
 二 書生の恥じるのをよろこんだ同船の客の喝采かっさいは如何に俗悪を極めていたか!
 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に溌溂はつらつと鼓動していたか!

   或弁護

 或新時代の評論家は「蝟集いしゅうする」と云う意味に「門前雀羅じゃくらを張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑ほほえみは門前雀羅を張るようだった」と形容しても好いはずである。
 もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか? Ich-Roman と云う意味は一人称を用いた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まってはいない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歴談と見られたが最後、三人称を用いた小説さえ「わたくし」小説と呼ばれているらしい。これは勿論独逸人ドイツじんの――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与えた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じように意外の新例を生ずるかも知れない。
 すると或評論家は特に学識に乏しかったのではない。ただいささか時流の外に新例を求むるのに急だったのである。その評論家の揶揄やゆを受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

   制限

 天才もそれぞれ乗り越え難い或制限に拘束されている。その制限を発見することは多少の寂しさを与えぬこともない。が、それはいつの間にかかえって親しみを与えるものである。丁度竹は竹であり、つたは蔦である事を知ったように。

   火星

 火星の住民の有無を問うことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出来る条件をそなえるとは限っていない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸すずかけを黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかも知れないのである。

   Blanqui の夢

 宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等これらの元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟ひっきょう有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息せいそくする地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在しているはずである。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々ぼうぼうたる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗をこうむっているかも知れない。……
 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。ただブランキは牢獄ろうごくの中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我我の心の底へみ渡る寂しさを蓄えている。夢は既に地上から去った。我我も慰めを求める為には何万億マイルの天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。

   庸才

 庸才ようさいの作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。

   機智

 機智とは三段論法を欠いた思想であり、彼等の所謂いわゆる「思想」とは思想を欠いた三段論法である。

   又

 機智に対する嫌悪の念は人類の疲労に根ざしている。

   政治家

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。

   又

 所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。かつ又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。

   事実

 しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。

   武者修業

 わたしは従来武者修業とは四方の剣客と手合せをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実は己ほど強いものの余り天下にいないことを発見する為にするものだった。――宮本武蔵伝読後。

   ユウゴオ

 全フランスをおおう一片のパン。しかもバタはどう考えても、余りたっぷりはついていない。

   ドストエフスキイ

 ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画にちている。もっともその又戯画の大半は悪魔をも憂鬱ゆううつにするに違いない。

   フロオベル

 フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあると言うことである。

   モオパスサン

 モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。

   ポオ

 ポオはスフィンクスを作る前に解剖学を研究した。ポオの後代を震駭しんがいした秘密はこの研究に潜んでいる。

   森鴎外

 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人ギリシアじんである。

   或資本家の論理

「芸術家の芸術を売るのも、わたしのかに鑵詰かんづめを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思っている。ああ言う芸術家のひそみにならえば、わたしも亦一鑵六十銭の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のように莫迦莫迦ばかばかしい己惚うぬぼれを起したことはない。」

   批評学
    ――佐佐木茂索君に――

 或天気の好い午前である。博士に化けた Mephistopheles は或大学の講壇に批評学の講義をしていた。尤もこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。ただ如何に小説や戯曲の批評をするかと言う学問である。
「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になったかと思いますから、今日は更に一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは読んで字の通り、或作品の芸術的価値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することはすこぶるこの論法には危険であります。
「たとえば日本の桜の花の上にこの論法を用いて御覧なさい。桜の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用うるためには『より善い半ば』よりも『より悪い半ば』――即ち桜の花のにおいを肯定しなければなりません。つまり『匂いは正にある。が、畢竟それだけだ』と断案を下してしまうのであります。若し又万一『より悪い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言う破綻はたんを生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟ひっきょうそれだけだ』――これでは少しも桜の花をけなしたことにはなりません。
勿論もちろん批評学の問題は如何に或小説や戯曲を貶すかと言うことに関しています。しかしこれは今更のように申し上げる必要はありますまい。
「ではこの『より善い半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? こう言う問題を解決する為には、これも度たび申し上げた価値論へさかのぼらなければなりません。価値は古来信ぜられたように作品そのものの中にある訳ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より悪い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に区別しなければなりません。
「たとえば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は悪いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません。或作品の芸術的価値の『より善い半ば』や『より悪い半ば』も当然こう言う例のように区別しなければなりません。
「この標準を用いずに、美とか真とか善とか言う他の標準を求めるのは最も滑稽こっけいな時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麦藁帽むぎわらぼうのように旧時代を捨てなければなりません。善悪は好悪を超越しない、好悪は即ち善悪である、愛憎は即ち善悪である、――これは『半肯定論法』に限らず、いやしくも批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。
さて『半肯定論法』とは大体上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言う言葉であります。この『それだけだ』と言う言葉は是非使わなければなりません。第一『それだけだ』と言う以上、『それ』即ち『より悪い半ば』を肯定していることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定していることも確かであります。即ち『それだけだ』と言う言葉はすこぶる一揚一抑の趣に富んでいると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の芸術的価値さえ、隠約の間に否定しています。勿論否定していると言っても、なぜ否定するかと言うことは説明も何もしていません。ただ言外に否定している、――これはこの『それだけだ』と言う言葉の最も著しい特色であります。けんにしてかい、肯定にして否定とは正に『それだけだ』のいいでありましょう。
「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木にって魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思います。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝ゆううつ等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いているとののしってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗へんぱの疑いを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』はかく或作品の芸術的価値を半ばは認めているのでありますから、容易に公平の看を与え得るのであります。
いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套がいとう』を出しますから、来週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加えて来て下さい。(この時若い聴講生が一人、「先生、『全否定論法』を加えてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加えることは少くとも当分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角声名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加えるのに限ると思います。……」
    * * * * *
 一週間たった後、最高点を採った答案は下に掲げる通りである。
「正に器用には書いている。が、畢竟それだけだ。」

   親子

 親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘わがままである。し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪りゃくだつ結婚を弁護しなければならぬ。

   又

 子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

   又

 人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。

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