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侏儒の言葉(しゅじゅのことば)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 9:07:38 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



   小児

 軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮さつりくを何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭らっぱや軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然きんぜんと敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅ひおどしよろい鍬形くわがたかぶとは成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

   武器

 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理窟をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。
 日本人の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加アメリカは新聞紙の伝える通り、「正義の敵」と云わなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住せんじゅから退去を命ぜられた。これも正義に反している。日本は新聞紙の伝える通り、――いや、日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかったらしい。
 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆ぎりょうである。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家せんどうかの雄弁である。武后ぶこうは人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙じゅうりんした。しかし李敬業りけいぎょうの乱に当り、駱賓王らくひんのうげきを読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。
 わたしは歴史を翻えす度に、遊就館をおもうことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。青竜刀に似ているのは儒教じゅきょうの教える正義であろう。騎士のやりに似ているのは基督教キリストきょうの教える正義であろう。此処に太い棍棒こんぼうがある。これは社会主義者の正義であろう。彼処に房のついた長剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。わたしはそう云う武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのずから心悸しんきの高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つをりたいと思った記憶はない。

   尊王

 十七世紀の仏蘭西フランスの話である。或日 Duc de Bourgogne が Abb※(アキュートアクセント付きE小文字) Choisy にこんなことを尋ねた。シャルル六世は気違いだった。その意味を婉曲えんきょくに伝える為には、何と云えば好いのであろう? アベは言下に返答した。「わたしならばただこう申します。シャルル六世は気違いだったと。」アベ・ショアズイはこの答を一生の冒険の中に数え、後のちまでも自慢にしていたそうである。
 十七世紀の仏蘭西はこう云う逸話の残っている程、尊王の精神に富んでいたと云う。しかし二十世紀の日本も尊王の精神に富んでいることは当時の仏蘭西に劣らなそうである。まことに、――欣幸きんこうの至りに堪えない。

   創作

 芸術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? 或は大半と云っても好い。
 我我は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのずから作品にあらわるることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖いふを語ってはいないであろうか?
 創作は常に冒険である。所詮しょせんは人力を尽した後、天命にかせるより仕方はない。

少時学語苦難円 唯道工夫半未全
到老始知非力取 三分人事七分天

 趙甌北ちょうおうほくの「論詩」の七絶はこの間の消息を伝えたものであろう。芸術は妙に底の知れないすごみを帯びているものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後にほとんど病的な創作熱に苦しまなければ、この無気味な芸術などと格闘する勇気は起らなかったかも知れない。

   鑑賞

 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色をそなえている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧あいまいに出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。むし廬山ろざん峯々みねみねのように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。

   古典

 古典の作者の幸福なる所以ゆえんかく彼等の死んでいることである。

   又

 我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。

   幻滅した芸術家

 或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼しんきろうは砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢はたちまち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬわけではない。

   告白

 完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
 ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔録ざんげろくの中にも発見出来ない。メリメは告白を嫌った人である。しかし「コロンバ」は隠約いんやくの間に彼自身を語ってはいないであろうか? 所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはっきりはしていないのである。

   人生
    ――石黒定一君に――

 もし游泳ゆうえいを学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものにけろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦ばかげた命令を負わされているのも同じことである。
 我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論もちろん游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創痍そういを負わずに人生の競技場を出られるはずはない。
 成程世人は云うかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者ゆうえいしゃや千のランナアを眺めたにしろ、たちまち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者はことごとく水を飲んでおり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか?
 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦ばかばかしさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外らちがいに歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

   又

 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。

   又

 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしかく一部を成している。

   或自警団員の言葉

 さあ、自警の部署にこう。今夜は星も木木のこずえに涼しい光を放っている。微風もそろそろ通い出したらしい。さあ、このとう長椅子ながいすに寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら気楽に警戒しよう。もしのどの渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸いまだポケットにはチョコレエトの棒も残っている。
 聴き給え、高い木木の梢に何か寝鳥の騒いでいるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云うことを知らないであろう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失った為にあらゆる苦痛を味わっている。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飲めぬ為にも少からぬ不自由を忍んでいる。人間と云う二足の獣は何と云う情けない動物であろう。我我は文明を失ったが最後、それこそ風前の灯火のように覚束おぼつかない命を守らなければならぬ。見給え。鳥はもう静かに寐入ねいっている。羽根蒲団ぶとんまくらを知らぬ鳥は!
 鳥はもう静かに寝入っている。夢も我我より安らかであろう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。と云う意味は悔恨や憂慮の苦痛をもめなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我我は今日のうえに苦しみながら、明日の餓にも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限ったことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。
 小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云ったそうである。蝶――と云えばあの蟻を見給え。もし幸福と云うことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であろう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快楽をも心得ている。蟻は破産や失恋の為に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じように楽しい希望を持ち得るであろうか? 僕は未だに覚えている。月明りのほのめいた洛陽らくようの廃都に、李太白りたいはくの詩の一行さえ知らぬ無数の蟻の群をあわれんだことを!
 しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然はただ冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐まなければならぬ。いわん殺戮さつりくを喜ぶなどは、――もっとも相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
 我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観えんせいかんの我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?
 夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不変あいかわらず頭の上に涼しい光を放っている。さあ、君はウイスキイを傾け給え。僕は長椅子に寐ころんだままチョコレエトの棒でもかじることにしよう。

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