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遺書に就いて(かきおきについて)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-26 8:36:17 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


『あの痕はどうしたのですか?』
『知りませんね。僕はそんな些細な莫迦げたことを気にかけたためしはないのです。』
 と葛飾は腹立し気に答えた。
 刑事はそれを黙って聞き流しながら、しきりにその壁の欠け目の位置を目で計った。
 刑事はピストルを手巾(ハンカチ)で注意深く取り上げて鞄に入れて帰って行った。
 刑事は路すがら考えた。――どうも、あの女の話は当になったものでない。支那の小説を読んでそれに倣ったところが男が本当に死んでしまったなぞと云うのは、如何にもあんな娘の好きそうな空想ではないか。三角関係が主因になっている点はおそらく事実であろう。その方が事件の筋みちが立つ――他殺に相違ない。あのピストルの持ち方は何と云う子供だましの錯誤だ! 顳※に一発射ち込んで、それから倒れたのではないか。しかも卓子の角に強か顎を打ちつけている。ふっ、失恋自殺も素晴しい!……犯人は葛飾か美代子の何れかに決っている。共犯かも知れない、だが、共謀して計画的に殺すと云うことは甚だ合点が行かぬ。やはり一人の仕事だ。その犯跡を後から他の一人が共謀して眩ます位のことは考えられる。たとえば、小野が女に駈落ちを強いる。女が諾かない。小野はそれでは目の前で死ぬとか何とか云ってピストルを出して顳※に当てて見せる。女が周章ててそれを奪い取ろうとして争うはずみに引金がひけてしまう。女は相手が倒れたのを見て恐ろしさのあまりピストルを投げ棄てて葛飾の部屋へ走り込む。葛飾は自分故に愛しい女が殺人の罪を犯したものと信じて、犯跡を紛らすために床に落ちていたピストルを死人の手に持たせる。……これとあべこべに葛飾が犯人である場合も同様だ。わけて、葛飾が一晩中家を明けていたことや、取乱した服装や、そんなことは何れも夫婦喧嘩のせいだとは云うものの、同時にもっと悪い事実を裏書きしていないとも限らない。……併し、この想像は少しばかり甘すぎるかな。自分で罪を犯しておきながら、かまえて訝しまれるような態度をとり繕わずにいると云うことは洵(まこと)に道理に合わない。やはり女に対する疑を――若しも運悪く他殺と知れた時に、女に懸かる疑惑を出来るだけ外らそうとするための工夫なのであろうか?……うっかりしてはいられないぞ。――と。
 若いこの刑事は上役や同僚を出し抜き度い功名心で胸をふくらませた。
 刑事は警察へ帰ると早速ピストルに就いて検べた。
 柄の底の部分に僅ばかり白い粉がついている。刑事は会心の笑を洩らした。
(――犯人が最初に投げ棄てた拍子にあの壁へぶつかったのだ)
 それから指紋である。最近二人の人間がそれを掴んだらしかった。
(もちろん被害者自身と――鮮明な方が犯人だ)
 ところが翌日になって、果してそれ等の指紋は小野と、美代子とに付合することが判明したのである。

 4

『――まことに恐れ入りました。ピストルを小野さんの手に持たせましたのは如何にもわたくしでございます。けれども何と仰せられましても、自分で射ち殺した覚えなぞは毛頭ございません。今度こそ本当のことを悉皆(すっかり)申し上げてしまいます。――致し方もございません。
『一昨日の晩、葛飾は、泣いて詫び[#底本では「詑び」と誤植]るわたくしをまるで突き倒すようにして外へ飛び出して行きました。わたくしはあんな淋しい家の中にたった一人取り残されて、いよいよ心細くなったので、それから間もなく寝床へ這入ってしまいました。それで小野さんが戻りました時にも、未だ漸く十時をちょっと廻ったばかりだったのですが、どうせひどく酔っているのに違いないと思いましたし、わたくしは声をかけなかったのでございます。そして恰度十一時が――葛飾の居間に掛っている寺院の鐘のような工合に響く時計が十一時を鳴り終って直ぐ、画室の方でゴトンと何か重い物の倒れた音がしました。わたくしは小野さんが画架でも顛覆(ひっくりがえ)したのだろうと考えて、別に気にも留めませんでした。屋根裏にある小野さんの寝室は画室から出入りするのでございます。――朝になったら、兎に角あの人にも自分の身の振り方に就いて相談しなければなるまい、などと思案しながら、その中にわたくしは眠ってしまいました。
『ところが、昨日の朝、わたくしが画室へ入って参りますと恐しいことにもあの人はそこの床の上に冷たくなって死んでいたのでございます。少し離れた壁際にピストルが落ちて居りました。わたくしはありったけの勇気を奮い起こして、出来るだけ落ち着こうと力めました。わたくしは注意深く小野さんの体の周囲を探がしました。その結果、小野さんの胴衣(チョッキ)の襟とシャツとの間から三尺ばかりの細い黒いリボンを発見することが出来たのでございます。――葛飾はネクタイの代りに何時でもそんなリボンを結んで居るのでございます。……小野さんに死なれて、葛飾が犯人として捕えられてしまえば、わたくしの身の上は一体まあどうなることでございましょう。しかも、そんな怖しい過ちのもとは、みんなわたくし自身なのでございますから。……わたくしは、リボンの始末をすると同時に、ピストルを小野さんの手に握らせました。……実を申しますとあのピストルだって、葛飾の箪笥の中に何時も蔵ってあるので、小野さんのものではないのだそうでございます。それに、葛飾はインヴァネスを破って帰って参りましたが、わたくしはそれ程乱暴をした覚えはないのでございます。……ああ、けれども、わたくしはみんなすっかり喋ってしまいました。……わたくしは、葛飾を身に覚えもない罪に陥してしまったのではございませんでしょうか。ああ! 御慈悲でございます。……』
 美代子は、刑事の厳重な吟味に対して、到頭そう云う自白をした。

 5

 これは刑事にとっても意外である。
 刑事は直に葛飾を訊問した。
『あなたが、家を出たのは何時頃ですか?』
『八時頃でしょう?』
『それから真直ぐ八木恭助氏の宅へ行かれたのですな?』
『いいえ、××座へ活動写真を観に行きました。』
『ほう――自動車でですか?』
『電車。』
『そんなに遅くから活動写真を観たのですか?』
『そうです。何でも気のまぎれるものならばよかったのです。併し、入ると直ぐに、二三日前に小野と妻とが二人連れで矢張りそこの小屋へ同じ映画を観に来たことを思い出したので、三十分と経たない中に出てしまいました。』
『その晩の切符の切れ端しでも残ってはいないでしょうか。』
『ありません、そんなもの。』
『二三日前に二人が行ったか否かは調べれば直ぐ判ることです。――それから?』
『街を一時間近く散歩して、裏通りのヨロピン酒場(バア)へ寄りました。そこで夜中の一時近くまで酒を飲んで、それからタクシイを呼んで貰って八木の家へ泊りに行ったのです。』
 小野が殺されたのは十一時頃だから、葛飾の答弁は現場不在証明(アリバイ)を申し立てているのである。刑事は反証を上げなければならない。
 活動写真を観て散歩したと云うのは全く出鱈目であろう。――尤も美代子は実際その二三日前に小野と一緒に××座へ見物に行って当日の番組も持っていた。だが、そんなことは甚だ薄弱な口実として利用されたのに過ぎないのだ。
 ヨロピン酒場に照会してみると葛飾が来たのは、それから三十分位経って軒灯を消したのだから多分十一時半頃だろうと云う答えであった。ところで、葛飾の住居からヨロピン酒場迄の道程は電車に乗って約一時間半、だから自動車ならば三十分で充分来られるわけである。刑事は、併し、彼の自動車に乗っているところを見かけた者があると云う報告を得ることが出来なかったのだ。
 刑事は已を得ず、別の方法に依った。即ち葛飾に美代子が自白した旨を告げて、彼もまた潔く自白することをすすめたのである。
『あなたがネクタイ代りに結んでいる黒いリボンが死体から発見されたのはどう云うわけでしょうか?』と真向からせめた。
『そんな莫迦な!――』と葛飾は慍った。『あの女が勝手に仕組んだことにきまっているじゃありませんか。美代子は僕にむしゃぶりついた時に偶然――まさか計画的にではないでしょう――僕のネクタイを※りとったので、いい加減な出鱈目を思いついたのです。』
『奥さんは、それに、あなたのインヴァネスが破れていたのも自分の知らぬことだと云って居られます。』
『あいつは不良少女上りです。亭主を売る位は平気なのです。』
『しかし、それでは尚更、奥さんが小野氏を殺す理由が考えられんではないですか?』
『僕の愛を取り戻したかったからでしょう。――そして、万一の時には僕に罪をしょわせるのです。』
『ピストルは平常あなたの居間の箪笥に入っていたのだそうですね。』
『併し、その箪笥には鍵をかけてありません。……一体ピストルにのこっていた指紋が美代子のものだと云うのは嘘なのですか?』
 刑事は当惑した。葛飾を犯人と断ずべき物的証拠は何一つとしてない。
 刑事は葛飾を警察に留めて置いて、葛飾の住居のある郊外迄出かけてゆくと、その界隈の自動車屋と云う自動車屋を一軒々々残らず聞いて廻った。けれども彼等の中に当夜、葛飾らしい客を乗せたと明確に答えうる者も一人もなかった。
 刑事はそこで念のためにもう一度ヨロピン酒場を調べた。すると前に来た時には休んで居合せなかったと云う女給の一人が、思いがけなくも次のような事実を教えてくれたのである。『――あの晩、わたくしはお夜食のお蕎麦(そば)を注文するので公衆電話をかけに裏口から戸外へ出ましたところが、恰度その時お店の前に自動車が止まって葛飾さんがお降りになるのをお見かけ致しました。』
 ××座とヨロピン酒場とは目と鼻の間にある。自動車に乗って街を廻ったとは云わなかった。葛飾が嘘を吐いていることは最早や明らかである――刑事は飛んで帰った。
 そして葛飾はあらためて訊問された。
『あなたは、自動車でヨロピン酒場へ行ったのだそうですね。――何故あなたは偽を述べなければならなかったのです?』
『……』葛飾は狼狽した。
『××座で活動写真を見物したことも、街を散歩したことも悉く嘘だらけなのですね。』
『そうです、併し……』
 その時、刑事はふと葛飾が膝の上で両手を揉み合しているのを眺めた。
『おや、あなたは右手に指輪を嵌めていられますか?――紫水晶のようですね。始終そうして嵌めていられますか?』
『ええ――』
『ちょっと検べさせて下さい。』
 刑事は葛飾の指輪を持って扉の外へ出て行った。十五分経って帰って来た。そして峻烈な口調でこう云ったのである。
『いい加減に白状してしまったらどうです。この指輪の石には血がついている。被害者の顎にのこっていた傷は、卓子に打ちつけたためではなくて、実はあなたに一撃された痕なのだ……』
 葛飾は遂に絶望の叫びをあげた。
 勿論、指輪に血がついていたなどと云うのは刑事のトリックなのだ。だが、葛飾は容易くそれに乗せられたわけである。

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