![]() ![]() |
註釈与謝野寛全集(ちゅうしゃくよさのひろしぜんしゅう)
|
作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/11/22 10:27:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
|
全集は上下二巻になつて居る。下巻の方に初期の作が収められて居るのであるから、歴史的に云へば註釈も下巻から初めねばならぬものかも知れぬが、故人の意を尊重して私はやはり初めに編まれたものを前にする。 炉上の雪二百八十六首は割書にもある如く大正元年から昭和五年に到る間の雑詠から成つて居る。 炉の上の雪と題せりこの集のはかなきことは作者先づ知る 人も時時大宇宙の精神になつて物を見る時があつて、不滅の火であることを信じて居る自身の芸術なども太陽よおなじ 去り行く青春をひんがしの国には住めど 住して居る所は確かに極東の日本であるが、自分の心には安住の国がない。他の人人を見ると誰れも自分のやうな焦慮はして居ないが自分には是れが苦しいと云ふのである。やうやくに自らを知るかく云へば人あやまりて 此頃はやつと自分と云ふものが解つたやうな心境を得て居る。是れを自分は歌つて居るのであるがまま驕慢であるかのやうな誤解を受けると云ふのであつて、其事が並並の自覚と云ふものとは変つたものであることをも云はうとしたのである。白がちの桃色をして蓼の花涙ののちの 細かに見れば蝶を見て恋を思ひぬその蝶を捉へつるにも逃がしつるにも 目前に現れた蝶に人の身の寂しき時は空を見て 是れは少し言葉が省略されてあるからよく読まねばならない。人間の寂しさ[#「寂しさ」は底本では「寂し」]を深く覚える日には、目の前の木立の梢なども自分の如く、寂しさに堪へ切れない、奇蹟でも現れて来るのを待つ外はないと天を遥かに眺めて居るものとより見えないと云ふのである。たそがれの青き光に半面を空に向けつつ泣ける 青味のある夕明りの不思議なりわが新しく切りて読む本のなかにも笑める君が目 海を越えて仏蘭西の本の届いた場合であらう。紙切りで一方も二方も切りつつあるのは詩集か何かの本であるが、その中に遠い国で別れて来た恋人の目が笑みを含んで自分を見て居るやうに思はれるとはをかしいものであると云ふ歌。不思議と云ふやうな大袈裟な言葉を最初に使つて置いて、淡い戯れのやうで狂ほしき恋の最後に カアネイションであるが、是れは現在の花ではない。前の歌の成つたのと同時に囘想した往事の一場面ではなかつたであらうか。心の上でだけ愛し合つて居たこの男女を到る処にまで到らしめないではおかないやうなべにがらと 大唐の楊太真も簡単な顔料を泥に塗つたもので現し得たやうに思つて居る隣人の稚気を云つたものであるが、形だけは歌に似たものも歌として通つて行く世の中を諷した作ではなからうか。わが前の河のなかばを白くして帆をうつしたる 作者は岸の家の階上に立つて居た。河は大江でもないが相当な水幅のあるものである。その河を半分まで白くして居ると云ふ所に誇張があるやうで実は河をより狭いものとして、この時の目に美くしく映る一点だけを説いて居るのである。初春初夏と別な音楽である初秋と云ふ言葉がよく利いて居る。磯の波うへに 踊り子の真珠の飾りを沢山附けた白絹の光る魚かの太陽は難くとも空に向ひて網は打たまし 日と云ふ光の魚は捉へかねるかも知れぬが我等の網は他を考へずに彼れへ向けられねばならない、人間の理想は高きに置かなければならぬ、目標とするものは脣に銀の匙など触るる時冷たきもよし智慧の如くに 作者は銀のためらはず宇宙を測る 何にギリシヤの海に見るべき白鳥が 不運なこの白鳥は所を得て居ない。ギリシヤの海を遊び場所とせずに音も無く黒きころもの尼達が過ぎたるあとに残る夕焼 仏蘭西か伊太利亜の大寺院の庭を、何等の音響も立てずに、黒い喪衣を著た尼達が一列を作つて通つて行つた。その後に赤い夕焼が西の方に望まれると云ふので、息も出来ぬまでに鬼気が身に迫るやうな歌である。寺院の壁も屋根も木立も黒ずんで居るが其れは尼達の衣ほどの黒ではないから云はないのである。夕焼も余りに広く拡がつて居ないと見る方がよい。誰れよりも 其れはかうである。自分と同じ流星なのであると作者は云ふ。あの星は他の追随するのを厭つて真先きに駈け出さうとして失敗しただけである。安全に以前からの位置を失はずに居る星に比べて彼れに欠陥はなかつた痛きまで心を刺しぬ桃色の 心のうづく程の深い恋の印として残る人だから、その人を花と云ふならば薊であると云はう。自らの花を惜めるこの 何時までも花を見せようとせぬ此の蔓草の志す所は天にあるらしく、其処へ達して初めて花を開かうと思つて居ることを、際限なく上へ上へと蔓を伸して行く風なので気が附いたと園の主人は歎息してゐる。その主人は詩人で、宜しい環境に置かれて居ない為めに、創作の興を失つて居ながらも理想だけはずんずん高くなつて行く自分と、この蔓草に共通なもののあるのを感じてゐるのである。大いなる救ひ主には逢はねども一人寂しく泣けばなぐさむ 宗教家の云ふやうな救世主とか、大慈大悲の仏菩薩とかには出逢はないでも、自分は一切を 一切の現実を否定しよう、蔑視しようとした人生に対する憎悪は、一念恋人に及んだ時に破れてしまつたと云ふのである。この憎悪を自殺の形式で現はさうとしたとまでは解釈せぬ方がよい。ある瞬間の気持ちなのである。世界をばひかりの網に入れて引く今朝の 我我の棲息する陸地をば大詰のあとに序幕の来ることただ恋にのみ許さるるかな 最後の破綻と見なすべき事があつて、更らにまた初めの甘い相思が帰つて来る。他の事には見難いこの形式を人も見て疑はないのは恋愛にのみ限られた事であると云ふ歌。我が涙はかなく土に消ゆべきや否否人と云ふ海に入る 寂しく土に沁み込んで行くのを見る外もない自分の涙であらうか、さうは見えるであらうが事実は違つて居る。この涙を受けて呉れるのは海ほど広大な恋人の心であると云つてある。此処で人と使つてある言葉は、恋とか君とか云ふ方が解り易くはあるが、其れでは作者のねらつた重さが現れない。温い人間と云ふものの中の代表者である彼の人と云ふ事はこの一語で云ひ尽くされてゐるやうに私は思ふ。巴里にて夜遊びしつつ覚えたるよからぬ癖の 作者の居たモンマルトルの宿は下宿人にマダムと云はれてゐる一人身の女が幾人か居て、其の人達も宿の主婦も嗅煙草の銀の小箱を持つて居たことは私も見たが、作者は私よりも長くその家に残つて居た間に、女達が嗅煙草をそれぞれ鼻の内側に塗りながら無駄話に夜を更かす客室にも居て、自身も嗅ぎ試みたことがあつたかも知れぬが、これは異邦で一時的の遊蕩子になつて居た人の、日本に帰つた当座の気持ちと云ふやうなものを創作して見たものと思はれる。作者の生活ではない。時として異邦に似たる寂しさをわれに与へて重き東京 時時は万里の孤客であるやうな寂しさを自分に持たせる重苦しい帝都であると悲んだ歌。外套の襟を俄かにかき合せさし俯向けば旅ごこちする これは前の歌とは違つた。ある日の途上で感じた淡い哀愁が歌はれてある。その時までは何とも思はなかつたが、衣服の端で寒い外気を青ざめて物思ふこと人よりも多きに過ぐるたそがれの薔薇 自分等などよりも物思ひを多くする風に青ざめた顔の白薔薇の花であると、夕明りももう暗くなりかかつた空の下で見たと云ふのであるが、物思ひを多くするらしいと見られてもなほ美を浮びたる 都の中の川らしい、川一面と云ふのでないが、作者の目の行つた所には相当に広く芥がひろがつて水をねがはくは若き 或る音楽者が短歌の作曲をして見たいと申込まれた時に、作者は幾首かの歌を呈供したが、是れもその中の一首であつた。半切などにもよく故人はこの歌を書いた。春の神を呼びかけて云ふのにふさはしい快い調子の歌の出来たのを故人は嬉しく思つて居た。木の花を統べ給ふ情知りのさくや姫よ、自分の心にも花を咲き満たせ給へとかう歌つた作者は青春期になほ籍を置くもののやうに恍惚としてゐる。派手な恋の勇者にもならうと望んでゐる。手のひらを力士の如くひろげたるシヤボテンの樹に積るしら雪 その人に我れ代らんと叫べども同じ重荷を負へばかひなし これは恋の歌ではなく、友情から発した悲憤の声であらうと思はれる。ある気の毒な境遇に居る人を自分の力で救ひ出さうと思つたが、顧れば自分もその人と同じだけの重荷を負つてゐて、身じろぎも出来ないのであつた。上げた叫びも空なものになつたと悲んで居る。美くしき太陽七つ出づと云ふ予言はなきやわが明日のため 自分だけが見る世界には美くしい太陽が七つまで出るであらうと云ふやうな予言を聞く事が出来ないのであらうか。不運な自分にせめて未来をさう云つて力づけるものがあればいいのであるがと云ふ歌で、作者は空想をただ文字に並べて七つの太陽などとしたのではなく、望む所の美も富も恋も詩も輝やかしく明らかに想像してゐる。その幸福をもう一歩で手に取り得る自信を十分に持つて云つてゐるのが佳いのである。わかくして思ひ合ひたる楽しみを
青春時代に相思ひ合つた恋愛の囘想を根拠にして建てた、宗教の外の是れは人間の塔である。自分の礼拝するものはこの以外にないと云つてある。
|
![]() ![]() |