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私は平生他人の議論を読むことの好きな代りに自ら議論することを好まない。議論にはかなり固定した習性がある。即ち議論には論理を一般人の目に見えるように操縦せねばならぬ。また議論の質を表現するのが目的であるにかかわらず、量的にくどくどと細箇条を説明せねばならぬ。それが私に不得手な事であるのみならず、私自身の表現としては煩と迂とに堪えない。それからまた網を作るに忙しくて肝腎の魚を忘れるような場合さえある。むしろ世間の議論の大部分はこの最後の物に属している。私はそれが厭わしい。私はロダン先生の議論――先生においては家常の談話――が常に簡素化され結晶化された無韻詩の体であるのを、私の性癖から敬慕している。私の茲に書く物も私の端的な直観を順序に頓着しないで記述する外はない。
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私の過去十二、三年間の生活は、じっとしていられずに内から外へ踊って出るような生活であった。私は久しく眩しい叙情詩的の気分に浮き立っていた。しかし今は反対に外から内へ還って自分の堅実な立場を踏みしめながら、周囲を自分の上に引き附けて制御したいと思うような生活が開けて来た。以前は内から蒸発する熱情と甘味とを持て余し、自分一人ではいたたまらずに誰にでも凭れ掛りたいような気持でいたのに、今は静かな独自の冥想に無限の愛と哀愁と力とを覚えて、外界の酷薄な圧迫を細々ながらこの全身の支柱に堪えて行こう、更にまた出来ることなら外界を少しでも自分の手の下で鍛え直して見たいというような気持になっている。
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上の空でなくて、真剣に、実際に、そして溌剌として生活しようとする時、人は皆倫理的になる。倫理は人生の律である。実際の行進曲である。人生の楽譜や図解であってはならない。学問や教育を職業とする人々の口にする倫理が我々の実際生活に何の用をもなさないのは当然である。命と肉と熱とを備えた倫理は我々の生活その物であるから。
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生活は季節を択ばずに発芽と開花と結実とを続けて行く。新しいことは真の生活の相である。既に生活が不断に移って行く以上、私たちの倫理観もまた不断に移らねばならない。永久の真理というものを求めることの愚は琴柱に膠するにひとしい。永久の真理というような幽霊に信頼して一方のみを凝視している人が、刻々に推移する人生に対して理解もなく判断も出来ず、自分が人生の本流に乗ることを忘れ時代の競走に落伍していながら、かえって反感と否定とを以て世の澆季を罵ったりもするのである。
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永久の真理のないと共に万人に共通する真理もないと私は想う。時間と空間を通じて固定した真理を求めることが実際の人生と相容れぬという不都合のあることに気が附かなかったために、過去の世界が煩悶と懐疑と沮喪とに満たされ、在来の哲学と宗教と道徳とが現代に権威を失うに到ったのではないか。例えば「二夫に見ゆべからず」という客観的の倫理を建ててこれを婦人の生命――生活の中枢――とすることを強いたのが従来の貞操倫理である。何故に二夫に見えてならないかという説明を附せず、無条件にこの倫理に従わしめようとした点において、先ずこの倫理は人間の意志を無視することの残虐を敢てしている。
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貞操倫理は愛情と性欲とにわたる問題である。詳しくいえば個人の体質と、天分と、教育と、境遇と、霊性と、性欲と、好悪と、年齢とに関係する問題である。そしてそれらの者が人に由って異っている以上、億兆の人の生活を一片の既定した貞操倫理で律することの出来ないのは明白である。或女は一夫に見えることすら自己の清浄を破るものとして全く結婚を嫌っているかも知れぬ。或女は愛情と性欲の自発がないために全く結婚を望んでいないかも知れぬ。或女は既に結婚していてもその結婚に種々の理由から満足していないかも知れぬ。或女は一人の異性を愛するだけでそれ以外の要求を持っていないかも知れぬ。或女は一人の男性を愛し合うこと以外の性交は自己の生活の中枢である愛情を濁す行為とし、貞操を自己の愛情の象徴として厳粛に擁護しようとするかも知れぬ。――私自身の貞操観が現にそれである――また或女は多数の男子に性欲観があって貞操観がないように、貞操ということを自己の生活の上にそれほど重大な問題であるとは考えず、極めて冷淡に取扱っているかも知れぬ。また或女は無情と酷薄とを極めた旧道徳に対する反感から殊更に貞操を眼中に置かないという風な矯激の思想を持っているかも知れぬ。 外から一律に万人へ覆っ被せる無理な倫理に愛想をつかして、個人が内から思い思いに実際生活の要求に迫られて随時随処に建てる自然の倫理を推重する私は、貞操についても先ず何より個人のその時時の自由な併せて聡明な実行に任せることを望む者である。
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私は特に「自由に併せて聡明な実行」という。真の生活は実行より外にない。そして実行は自由であると共に聡明でなくては失敗する。ここに「失敗する」というのは社会上の成功不成功をいうのでなくて、個人の生活意志の破滅することを言うのである。内省した自我の上に不充実と不満足との悔を招くに到ることを言うのである。
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既に貞操が婦人の生活の中枢生命であるとせられた時代は過ぎた。そして如何に質朴な民衆の上に神権主義の道徳が圧力を持っていた時代でも、実際に全婦人をその貞操倫理の金科玉条で司配することは出来なかった。二夫に見えた女は地上到る処の帝王の家にもあった。女の再婚は大抵やむをえない事として現に寛仮せられ、もしくは正当の事としてその父兄が強いるほどである。殊に貞操道徳の制定者である男子が好んで多数の女子の貞操を破ることが普通の現象でさえある。今の男子の多数はそういう不倫な祖先から生れ、もしくはそういう不倫な女の父兄であり、配偶者であり、縁者であり、友である。如何に死を嫌っても世に死者を出さなかった一族のない如く、真に人間を愛する人なら、最早貞操一点張りを以て女を責めるに忍びないはずである。
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私はピカデリイやグラン・ブルヴァルの繁華な大通で、倫敦人や巴里人の車馬と群衆とが少しの喧囂も少しの衝突もせずに軽快な行進を続けて行くのを見て驚かずにいられなかった。そして自由に歩む者は聡明な律を各自に案出して歩んで行くものであるということを知った。
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私は貞操倫理のみならず、一般に従来の他律的倫理は現代の生活に害こそあれ用をなさないものであると思う。こういえばとて私は女子の不貞不倫を肯定するのでは更々ない。私などは現に自分一個の貞操について保守主義者中の保守主義者であると評せられても笑って甘諾する位に厳粛な実行の日送りをしている。私は自分の肉を二、三にすることを非常に不純不潔なことだと思って、そういうことを想像するさえ甚しい悪感と全身の戦慄とを覚える。私の生活はこれを世の強者――天才の生活に比ぶれば勿論弱者の生活である。私は世の戦いに自分の牙城を奪われることがあっても、是非あくまでも死守しようと思っている本城がある。そして私の貞操はその本城の一部であると思っている。しかしそれは私個人の倫理である私自身のために建てた私の律である。私は自分の建てた自分のための倫理を尊重すると同時に、他の個人の建てた倫理を尊重したい。そしてそれがお互に自由と聡明とを備えた実行の律でありたい。そのような実行の律を自ら建てて行く人こそ官学の教育を受けなくても、美衣を着けていなくても尊敬すべき時代の優良階級である。
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新しい生活の律は各自の実際生活の直感と、経験と、反省と、研究と、精錬とから産み出される。貞操の如きも婦人が各自に聡明である以上、それが実際問題として自分に迫って来た時、何とか自分から積極的にその問題との交渉を片附け得られるはずである。愛情や性欲の先駆と見るべき異性に対する好奇心すら自発していない少女に早くも貞操を注入するような教育が何の益になろう。私は教育者に向っては、貞操というような実際生活の細目を一律に説くことの無駄な骨折を避けて、その代りに貞操ばかりでなく、どの実際問題に出会っても惑わず、沮喪せず、妥協せずに、自分自身に最善を尽した生活律を建て得る「自由」と「聡明」の精神を養わせる教育に力めて欲しいと思う。また私は学者に向っては、婦人が貞操のような実際問題に出会った時の参考資料として、実際生活に対する研究の過程と結論とを常に提供して欲しいと思う。そして私たち婦人はまた自分の実際問題として研究の要求を生じた場合に初めて研究して差支のないことである。世の中のあらゆる問題は直接自分の実際生活に必要の切迫した時にのみ重大問題なのである。飢えている時は花より団子が我身に切実な重大問題であるのに、如何なる場合にも団子より花が大切だ、上品だというような融通の利かない迷信があるので、どれだけ人生の健かな発達を阻害しているか知れない。
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私は学者の議論が直ぐに人類全体の実際生活を改造することに役立つものであるような誤解を近頃までしていた。そして実際に役立つものでなくては最早現代の学問ではないように誤解していた。しかし学者は人生または自然の一方を常に凝視して未知の新事業を発見することに努力し、永遠の時を少しでも早く手繰り寄せて現代の生活に貢献しようとしているものである。学者は永遠の中に住んでいる。現代に住んで現代を超越しているのが学者の境地である。芸術家もまた同様の境地にいる永遠の子である。学者や芸術家の事業には勿論そのまま現代の幸福となる種類のものもないではないが、常に永遠の上に一方を凝視して得た思想である以上、それが局限せられた当面の時と、智識の度の千差万別である現代の全人類とに皆が皆適用しがたいのは当然である。私は学者や芸術家を尊敬する。しかし学者や芸術家の思想からその現代に実行し得るものだけを選択して自己の生活の改造に資するのは我々自身の自由であり、喜びであると思っている。
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学者や芸術家はその純粋を保とうとするほど、恐らく局限せられた実際社会の改造に指を染めてはなるまい。かの人たちも一面には我々と同じ現代の一人である以上現代を最も多く眼中に置くことは勿論であるが、現代のために永遠を犠牲にしてはならない。現代の改造に熱中すれば恐らく失敗するであろう。学者や芸術家がその純粋の自我を毀損しないで現代の紛々たる俗争の間に立ち得るとはどうしても想われない。私はオイッケンのような学者やハウプトマンのような芸術家が今度の戦争の牽強の弁疏を独逸のためになさねばならなかったのを気の毒に思っている。そしてまた私はベルグソンがその哲学を仏蘭西の政治問題や社会問題に直ちに適用しようとする様子のないということを聞いて大哲学者の聡明を奥ゆかしく想っている。
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学者や芸術家と異って、政治家、教育家、社会改良家、新聞雑誌記者などの生活は、天才の新思想に刺戟せられて常に驚異に全身を若返らせながら、自己の動もすれば一本調子に固定しようとする生活を改造する資料として、その天才の新思想の中から或選択を試みることを断えず心掛けねばならぬ。それは我々普通人も同じことである。唯だ前者にあっては自己の生活を改造した上に、更にそれを公人として当面の政治問題、教育問題、社会問題の改造に適用しようとする対他的実行が伴わねばならぬ。私は大隈党の実際政治にも政友会の政治意見にも、ベルグソンやロダンの現代思想と更に一点の共鳴する所さえ認めることの出来ないのを口惜しく思う。そして我々現代の若い婦人が芸術を透した欧洲現代の新思想に感激しながら一切の問題を個性の権威に即して判断しようとする大勢を作り出したことに対して、なお空疎な旧日本の他律的倫理を以て威圧しようとしている教育家、社会改良家の大多数を気の毒に思う。
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