「それもスタハノフ運動という貨物の能率増進運動を妨害しようとしたトロツキイ派の一味だからというのだが、しかし、日本の左翼はスターリン派かトロツキイ派か、どっちが有力なんだ。君聞かないか」 「それゃ聞かないね。しかし、無茶をしよるな」とまだ友人は考えている風だった。 「しかし、左翼の一番の強敵は右翼じゃなくて同じ左翼だというのが、今じゃ現実そのものになって来たんだから、思想もどこまでこ奴、悪戯(ふざ)けるか底が知れないよ。現実を全くひやかしてるようなもんだからね。そこをユダヤ人がまた食いさがってにやにやするという寸法だ。良い加減に腹を立てる奴も出て来るさ。とにかく、もう世界の知識階級は云うこともすることも無くなったよ。知性が知性を滅ぼしておけさ踊りをしてるんだ」 「しかし、日本も累進率の税法で、これから文化がどしどし上る一方だよ。左翼のやれなかったものを、妙なところがやりよったのだ。面白いね。長い間金持ちが金を儲けすぎた罰がとうとう来たんだね」 重役でありながらこのようなことを云う友人の顔を見ながら、梶は日本の変化の凄(すさま)じさを今さら見事だとまたここでも感服するのだった。 彼は事ごとにこのごろの日本に感服する自分をこれはどうしたことであろうかと思った。寝足りた朝のように平凡な雑草まで眼をとめて眺めたいのは、これは自分も一人前に成長して来たからだと思われた。 梶が友人と別れて帰って来たときはもう夜になっていた。家の掃除も引き越しも無事に出来上っていたので一同夕食をとろうとして茶の間へ集った。すると、それまで外で遊んでいた長男は帰って来たが、次男の四つになるのがいつまで待っても姿を見せなかった。どこへ行ったのかと梶が訊ねても誰も知らなかった。彼はすぐ人を四方へ走らせてみた。しかし、いずれも帰って来たものはみな要領を得なかった。初めのうちはそれぞれあまり気にもせずそのうちひょっこり帰るであろうと思っていたが、附近に遊んでいる子供たちに訊ねても誰も知らぬという返事に、一同だんだん顔色が変って来た。 「初めて帰って来たんだから、きっと道を迷って遠いところへ行ったんだわ。どうしましょう」 芳江は真っ青になったまま外の方へ馳けていった。彼女の後から出入の米屋や酒屋、手伝いの人三人に長男らが四方へまた探しに散った。梶も別動隊となって裏から一人で出ていったが外は全く暗かった。それに新しく前後左右にずっと建て込んだ家の小路の複雑した屈曲には、梶もしばしば迷って出口が分らず立ち停って考えたほどだった。家の尽きたあたりは一万坪あまりの野原で人一人通らなかった。梶は永らく田舎(いなか)の祖父のもとで留守中いた四つの子供の頭を思うと、迷ったが最後帰路の困難が察せられた。道というものは小さくともどこまでも続いているのだから、迷いの末はどのあたりを遊び歩いているか知れたものではない上に、梶の家の周囲の道がまた八方についているのだった。 梶は真暗(まっくら)な夜道を子供を尋ねて歩きながら、ふと自分も今自分の子供と同じような眼にあっているのではないかと思った。知らぬ間に全く考えもしなかった複雑な夜道が自分の八方についていて、どこを自分がうろついているのか分らぬのではないかと思われた。彼は子供を探しあぐねて戻ってみてもまだ子供の姿は見えなかった。附近の交番へ頼んでおいた返事も無益であった。芳江は門口で泣きながら探しに行った人人の戻って来るのを待っていた。けれども誰もぼんやり黙って帰って来た。いずれ戻って来るだろうと梶はまだ思っていたが、そのうちに気が気でなくなり、再び子供を探しに出かけた。しかし、馳けても目的が分らぬのであるからどちらを向いて馳けて良いか見当がつかなかった。 彼は空(むな)しい思いであてどなくうろつきながら、 「これゃ、知識階級の苦しみという奴だ」 とこう思った。しかし、それは梶には笑い事ではなかった。日本へ帰って来るとこんな苦しみがあったのかと、彼は暗澹(あんたん)となりまさる胸の中に顔を埋めるようにして幾つも坂道を上ったり降りたりした。ときどき立ち停って子供の名を呼んでみたが、子供も同様にどこかで立ち停っている筈(はず)はないのだから返事はもとより聞えなかった。ただ遠くの方で子供の名を呼ぶ他の探し手の声が聞えて来ると、まだそれでは見つからぬのかと一層不安が増して来た。彼は歩きながらも、これから将来において幾度こんなことがあるかしれないのだと思うと、悲しみついでに今一度にどっと悲しみに襲われてしまいたいと思った。 梶が探し疲れて家へ戻って来ると、迷い子になった子供はゴム風船を持って一人ぼんやりと勝手元に立っていた。一同のものは何ぜだか誰も黙っていた。梶も子供の姿を見ると何も云わずにその傍を通りぬけて奥の間へ這入ろうとした。 「交番の椅子にぼんやりひとり腰かけていたんですって。早くお礼を云ってきてちょうだい」 こうしばらくして梶は芳江に注意された。しかし、梶は容易に身体が動かなかった。 「早く行ってらっしゃる方が良いですね」 と手伝いの人がまた云った。そんな事は梶とて百も承知であったが、全く空虚になっている現在の自分の楽しさを思うと、ヨーロッパ旅行の楽しさなど比較にならぬと思って恍惚(こうこつ)としているときであったから、芳江や手伝いの人の言葉が梶には鞭(むち)のように腹立たしく感じられた。 「しかし、これがわがままというのだろう」 梶は腰を重くあげて夜道を交番の方へ歩いていった。もうここの警官にだけは一生頭が上らないと彼は思いながら、夜気に湿った草原の中を勢い良く歩くのだが、世界の思想や状勢に頭を使い、日本のあれこれを思い悩んだ自分の考察も、根元から吹き上げられてはこのように無力なものになるのかと、今さらおかしく淋しくなって来た。 その夜梶は海外へ行く前に日日寝つけた自分の部屋で、以前のままに敷いてある寝床の中へ初めて身体を横たえた。彼は天井を仰いでみた。背中は蒲団(ふとん)にぴたりとついて呼吸をする度にゆるやかに襟(えり)もとの動くのが眼についた。すると、弛(ゆる)んだ障子の根に添って見覚えの鼠(ねずみ)がちょろちょろと這い出て来ると梶を見詰めたままじっと様子を伺っていた。 「あーあ、もとの黙阿弥(もくあみ)か」 と梶は思わず口に出た。次ぎの部屋で床に這入ったらしい芳江は面白そうに声を立てて笑い出した。
底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社 1969(昭和44)年8月20日初版発行 1995(平成7)年4月10日34刷 入力:MAMI 校正:平野彩子 ファイル作成:野口英司 2001年3月5日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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