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罌粟の中(けしのなか)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-13 9:19:21 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「あの子」
 おいおい、と云う風にすぐまたヨハンは、眼の大きなその踊子を手招きした。この踊子も小趨(こばし)りに彼らの箱へ来ると、これはイレーネとは違い、いきなり真近く梶の傍へぴたりと擦(す)りよって来て、じっと彼の顔を正面から瞶(みつ)めた。傍で見ると、その眼はあまり大きく却って表情が分らなかった。爛爛(らんらん)と光り輝く眼で、今にも飛びかかって来そうな底知れぬ黒さだった。
 梶は場中の華形ばかりをよせ集めた絢爛(けんらん)さに取り囲まれ、いつの間にか、各席の視線を吸いとっている自分が不思議だった。
「これはアンナと云う名ですが、ホテルはブリストルかと訊(き)いていますよ」
 とヨハンは暫くして彼に云った。そうだと彼が答えると、アンナは何事かまたヨハンに云った。
「この子はあなたに、今夜これからホテルヘ連れて行けって云いますよ」
 これには梶も即答に窮した。どうしたことか、日ごろの不粋がはたと途惑いしたようだったが、またそんなことでもない、傍にいるイレーネへの義理が、それだけは今夜は駄目だと抑えかかり彼を苦しく笑わせるのみだった。すると、アンナはヨハンを介せず、もどかしそうに梶の耳もとへ直接口をよせて来て、
「You are beautiful.」
 とひと言囁いた。彼には、まことに思いもうけぬ囁きであった。このような言葉を、彼は今まで半生まだ聞いたことがかつてなかった。おそらく、アンナの知っている英語のうち、彼に与えて通じそうなただ一言の華(はな)むけであったろうが、しかし、この遠い異国の果てで、まだ誰からも貰(もら)ったことのない言葉をひと言不意に貰おうとは――、梶は、貴い滴りのようにアンナの囁きを素直に胸で受けとめて悔いなかった。イレーネは喇叭にしつこく迫りよられていながらも、ひそかに、ときどき恨みを蒼(あお)く放つ眼で梶の方を睨(にら)んだ。こちらの方はこれで良いと諦(あきら)めていた矢さきの折だっただけに、梶はまだ断ち切れぬ糸も感じて、ふと躓(つまづ)くよろめきに似た思いもするのだった。
 アンナには喇叭の囁く意味も聞きとれるものであろうか、さらにイレーネには頓着(とんちゃく)せず梶を揺すぶり流す視線をつづけた。何か擦れかわり入りかわる暖寒の気苦労で、ちょうどホールも最後の湧(わ)き立ちに近づき、崩れようとしているときだった。
「それでは帰りましょう」
 とヨハンは巧みな見切りのころ合いを失わず立ち上った。時計を見ると三時を少し過ぎていた。アンナは梶の手を握りながら出口まで二人を送って来たが、ついにイレーネの姿は見えなかった。街には人通りは少なかったが、夜中の三時過ぎだというときに、ここではもう太陽が赤赤と照っていた。
 ホテルの前まで来たとき、ヨハンは明日は最後の日だから朝の十一時に来ると云って、二人は別れた。梶は部屋に戻り寝台に横になっても、夜か昼か分らぬ部屋の広さがうるさく眼について眠れなかった。しかし、日本を発(た)つとき、医者の友人が云ったように、日本人が誰もここではあのような眼にいつも逢って来たのであろうかと思うと、この日の自分の事実も自分個人のものとは思えぬ色どりに見えて来た。そして、ここはまだ自分の考え及ばぬ罌粟(けし)の花の中だと思う心も次第につよまって来るのだった。


 次ぎの日、梶は眼を醒(さま)すともう十時を過ぎていた。ヨハンは眠むそうな顔で約束の時間に這入(はい)って来た。彼はいつもより笑顔を一層大きく拡げながら、正しいハンガリヤの礼をすませて、そして云った。
「昨夜は面白うございましたね」
「昨夜は、僕も面白かったですよ」
 と梶も快活にヨハンに相槌(あいづち)を打つことが出来た。事実、昨夜のことを思うと、あれ以上に愉快なことはまたとあろうかと彼も思った。
「あのイレーネと喇叭ですね。喇叭はイレーネと小学校のときから同級で、そのときから彼女を思っていたのだが、今度初めてそれを云うことが出来て、こんな嬉しいことはないと云っておりました、どうもあの二人は結婚をするかもしれません」
 梶はヨハンのそういうことにある真実を感じて嬉しかった。これで一組の縁を結び落してここを去ることは、舞い込んだ蝶(ちょう)のいとなみに自分が見えて愉快だった。
「そうでしたか。それはそれは」と梶は慶(よろこ)びを顕(あらわ)して云った。
 二人はホテルを出てから昼食のためある料亭へ立ちよった。ここは梶の滞在中出入した料亭の中では、もっとも大きな料亭だった。おそらくヨーロッパの中でも屈指のものかと思える広広とした壮麗さで、朱色の大天蓋(だいてんがい)を拡げた庭園では薔薇(ばら)の周囲を巻き包み、朝から人人の踊る姿がもう見られた。ヨハンの云うには、この街の官庁はどこも一斉に夜の九時で終ってしまい、それから後はこうして皆は遊ぶのだとの事だった。二人は食事をすますと、温泉場、古跡、発掘場などと、この日の予定は急がしく一日中自動車を走らせつづけた。それに明朝早くヴェニスまで梶の飛ぶ飛行機の約束もしなければならなかったが、郊外のある景勝地帯の茶店では、二人は一番時間を長く費した。そこは眼下に拡がる平原の起伏を一望の中に見渡せる丘上の位置で、梶は軽井沢のグリーンホテルを思い出し、自然に腰もここでは落ちつくのだった。さすがのヨハンも連日の疲労を覚えたと見え、容易に動かぬ梶に応じて彼もまたステッキに身をよせかけ、ともに動こうとしなかった。
 どちらもときどき黙りがちになった。緑樹の中を流れるダニューブ河や、杜(もり)や牧場の姿は、照りかげる光の中で麗しく静だった。すると、そのとき、黙っていたヨハンはステッキの曲った把手(とって)から顔を上げて、
「しらゆきはどうしていますか」
 と小声で訊ねた。
「しらゆき」梶は何ごとか意味が分らず訊ね返した。
「陛下のお馬」
「ああ」と梶は思わず発して身を伸ばした。純白な姿が何か身を浄(きよ)めるように一瞬彼を撃って来た。しかし、ここでもまた、この罌粟の花に取り包まれた遠いはるかな異国の果ての、ヨハンの口から、突然そのような姿の浮ぶ言葉が出ようとは――ただもう今は不思議な感じだった。梶は大きなヨハンの顔を瞶(みつ)めながら、
「あなたはどうして御存じです」と訊ねた。
「あのお馬は、わたくしがここの牧場でお買いしてさし上げました」
「あなたが」
 梶は再びおどろいた。敬語の調子で、「お買いしてさし上げた」ことが、通訳の労をお取り申したという意であることはすぐ察せられたが、しかし、白雪がハンガリヤの産だということは今まで彼も気附かなかったことだった。彼はまたもや自分の顕した手落ちを不意に感じ、今はひそかにヨハンの舌を両手で封じたくもなる複雑な気持ちに襲われた。
「白雪はここでしたか。それは非常な失礼をしました」
 すっきりと白く立った馬の鬣(たてがみ)は、しかし、梶のこうして心中詫(わ)びる気持ちを、いつともなく吸いとり拭(ふ)き浄めて疲れも彼は忘れて来た。も早や疑うことの出来ぬこの目前の事実だった。彼は暫く遠方の空を仰ぎ見る粛然とした思いのまま、この下の牧場で産れ、ここに自分と対っているこのヨハンに通訳の労をとられた白雪だと思うと、一層その姿が親わしく尊とくも思われて来るのだった。またそれがいつか慶(よろこ)ばしい気持ちにも転じて来て、暫くは眼下に静まった牧場を見降ろしながら、さらに思いもうけぬ意味ふかまったこの眺めだと彼は思った。

 その夜、梶とヨハンは前夜のように急がしく所所を見て廻った。しかし、自分の前後に絶えずいるヨハンの姿は、ともにまた絶えず白雪の姿をも泛(うか)べて離れなかった。梶はもう一度最後の別れに、アンナとイレーネに逢いたいと思ったが、それさえヨハンにはついに云い出しがたく黙っていた。そうして、二人の自動車がある大通の前まで来かかったとき、ヨハンは右側に連った石造の建物を指差して、
「これはジャパンというカフェーです。ここでは一番のカフェーです」
 と梶に告げた。しかし、それをよく見る間もなく車は辷(すべ)っていったとき「これは?」と梶が右側のを訊ねると「これはまだジャパンの続きです」とヨハンは答えた。梶は車の迅(はや)さでその外観の大きさを想像することが出来なかったが、それはもう原語の日本にさえ一つもない立派なことだけは確かだった。彼はひそかに驚くというよりももう黙った。
「あそこはこの国の芸術家が一番行くところです」とまたヨハンは附け加えた。

 翌朝の彼の出発は早かった。通りに朝霧のような薄靄(うすもや)がこもっていた。滞在中梶はヨハンに支払うべき案内料を一度も質(ただ)さずにしまったが、五日間の料金は意外に少額ですんだ。彼は他に謝礼を出したいと思うのに、もう残りのハンガリヤ金は少く、財布をは叩(た)いてそれを出そうとすると、ヨハンは記念に日本へこの国の金銭を所持して帰って貰いたいと梶に頼んだ。
 飛行場まで送って来てくれたヨハンと別れるときは、梶はその別れが辛(つら)かった。廻り始めたプロペラの音を聞きながら、
「それでは――」
 と、差し出す梶の手をしっかり握って振り振り、ヨハンも「さようなら、さようなら」と繰り返した。
 ああ、何んと沢山な御馳走が出たものだろう。と梶は思った。空へ舞いのぼって行く機体の窓から下を見降ろしたとき、彼は忘れずイレーネと喇叭の一組の夫婦のことも考えて、
「仲良くしてくれ、仲良く――」
 と、そう下に向って帽子を振るのも、またいつかそれはアンナにも振っている帽子に変っていった。



底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2001年2月10日公開
青空文庫作成ファイル:
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