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名娼満月(めいしょうまんげつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-10 10:23:07 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 そのうちに両手のよごれを払いながら立上った二人の顔は、もう人間の表情かおつきではなかった。墓の下からこの世を呪いに出て来た屍鬼しにんの形相であった。血の気のない顔に生汗なまあせしたたらせ、白い唇をわななかせつつ互いの顔を睨み合って、肩で呼吸いきをするばかりであった。
「……こ……これが見返さいでいられましょうか」
 千六の両眼から涙がハラハラと溢れ落ちた。
「……こ……これ程の挨拶……か……刀の手前にも……捨てて……おかれぬわい。ええっ……」
 銀之丞の美しい眼尻には涙どころか、血が鈍染にじんでいた。二人は思わず互いの両手を固く握り合っていた。その手を銀之丞は烈しく打振った。
「……千六殿……約束しょう。……イ……今から丸一年目に……イ……今一度、ここで会おう。それまでに二人とも、あの金丸長者を見返すほどの金子かねをこしらえよう。二人の力を合わせても、あの売女奴ばいため身請みうけしよう」
 千六は感激に溢るる涙を拭いもあえず首肯うなずいた。一層固く銀之丞の手を握り締めた。銀之丞は遥かに遠ざかった満月の傘を振りかえった。ギリギリと歯噛みをした。
「……やおれ……身請けした暁には、思い知らさいでおこうものか。ズタズタに切りさいなんで、青痰あおたんを吐きかけて、道傍みちばたに蹴り棄てても見せようものを……」
「シッ……お声が……」
 二人はそのまま人ごみに紛れて左右に別れた。大空の満月が花の上にさしかかる頃であった。

 銀之丞は東海道を江戸へ志した。
 思い迫って約束した一年の短かい間に、どうしたら望み通りの金が稼げるかと……思案に暮るる一人旅。京外れで買うた尺八の歌口を嘗め嘗め破れ扇を差出しながら、宿場宿場の揚雲雀あげひばりを道連れに、江戸へ出るには出たものの、男振りよりほかに取柄のない柔弱武士とて、切取り強盗はもちろんかなわず。押借おしが騙取かたりの度胸も持合わせず。賭博、相場の器用さなど、夢にも思い及ばぬまま、三日すれば止められぬ乞食根性をそのまま。京都とは似ても似付かぬ町人の気強さを恐れて、屋敷町や町外れの農家や小商人こあきんどの軒先をうろ付きまわり、一文二文の合力に、生命いのちをつなぐ心細さ。金儲けどころか立身どころか。派手な大小印籠いんろうまでも塩鰯とげ印籠に取りかえる落ちぶれよう。たまには場末の色町らしい処で笠の中を覗き込んで馬糞まぐそ女郎や安芸妓げいしゃたちにムゴがられて、思わず収入みいりに有付いたり、そんな女どもの取なしで田舎大尽いなかだいじんに酒肴を御馳走され、一二番の戯れ小唄の御褒美に小袖、穿物、手拭なぞ貰うて帰る事もあり。そのほか役者衆に拾われかけたり、絵草子屋に売子を頼まれたりなぞ、色々な眼に出会うたものであったが、それでも女色にだけは決して近付かなかった。去る金持後家に見込まれて昼日中、引手茶屋に引上げられ、小謡いがまだ二三番と済まぬうちに脂切あぶらぎった腕を首にさし廻わされた時なぞ、血相をかえて塩鰯をひねくりまわし、後退あとしざりして逃げて来るという、世にも身固い、涙ぐましい月日が、いつのにか夢のように流れて、早や笑うてくれる鬼もない来年の正月。約束の三月も程近い銀之丞が二十五の春となった。

 こうなれば最早もはや、致し方もない。僅か一年の間に大金を作ろうなぞと約束したのがこっちの愚昧おろかであった。浮世の風に吹きさらされてみればわかる。やはり他人ひとの云う通りに世の中は、思うたほど甘いものではないらしい。
 しかし約束は約束なれば是非に及ばぬ。満月の道中に間に合うように故郷へ帰らずばなるまい。播磨屋千六の顔を見ずばなるまい。千六は町人の事なれば、一年の間に一万両ぐらい儲けまいものでもない。もっとも町人の事なれば、そうなってみると、おのが身代が惜しゅうなって、気がくじけていまいとは限らぬが、もしも、さような事になれば一文無しのこっちの方が、かえって確かなもの。否応いやおうなしに千六の尻をいて金輪際、満月を身請させいでおこうものか。もし又、万が一にも、そのに及んで満月が二人の切ないこころまず、売女ばいたらしい空文句を一言でもかしおって、吾儕われらを手玉に取りそうな気ぶりでも見せたなら最後の助。こっちは元より棄てた一生。一刀の下に切伏せて、この年月としつき怨恨うらみらいてくれるまでの事。所詮、それ位の役廻りにしか値打せぬ吾身の運命であったかも知れぬが……と、とつおいつ思案のうちに、旅支度という程の用意も要らぬ着のみ着のままの浪人姿。ブラリと立出づる吹晒ふきさらしの東海道。間道伝いに雪の箱根を越えて、下れば春近い駿河の海。富士の姿に満月の襟元を思い浮かめ、三保の松原に天女を抱き止めた伯竜はくりゅうの昔を羨み、駿府から岡部、藤枝を背後うしろに、大井川の渡し賃にけなしの懐中ふところをはたいて、山道づたいの東海道。菊川の宿場に程近く、後になり先になって行く馬士まごどものワヤク話を聞くともなく聞いて行くうちに、銀之丞はフト耳を引っ立てて、並んで曳かれて行く馬の片陰に近付いた。声高く話す馬士まごどもの言葉を一句も聞き洩らすまいと腕を組み直し、笠を傾けて行った。
 菊川の家並やなみ外れから右に入って小夜さよの中山を見ず。真直に一里半ばかり北へ上ると、俗に云う無間山むげんざんこと倶利くりだけの中腹に、無間山むげんざん井遷寺せいせんじという梵刹おてらがある。この寺は昔、今川義元公が戦死者の菩提ぼだいのために、わざと風景のよい山の中腹に建てられたもので、寺領も沢山に附いておったが、その後、信長公、秀吉公、東照宮様と代が変って来るうちに、その寺領もなくなり、久しく無住の荒れ寺となって、妖怪ばけものが出るというような噂まで立っていた。
 ところがツイ二三年前のこと、甲州生れの大工上りとかいう全身にいれずみをした大入道で、三多羅和尚さんたらおしょうという豪傑坊主が、人々の噂を聞いて、一番俺がその妖怪ばけもの退治たいじてくれようというのでその寺にすまい込み、自分でそこ、ここを修繕して納まり返り、近郷近在の無頼漢を集めて御本堂で賭博ばくちを打たせ、寺銭てらせんを集めて威張っている。自分も相当の好きらしく時々寺銭をっているそうなが、不思議な事にこの坊主を負かすと間もなく、御本堂がユサユサと家鳴やなり震動して天井から砂が降ったり、軒の瓦がすべったりする。その物すごさに一同が居たたまれずに逃げ出すと、又、間もなく静まり返るので、打連れて本堂に引返してみると、こは如何に。今まで山のように積んであった寺銭も場銭ばせんも盆茣蓙ござも、賽目さいのめまでも虚空に消え失せて、あとには夥しい砂ほこりが分厚く積っているばかり。それが恐ろしさと馬鹿らしさに皆、忘れても和尚を負かさぬように気を付けているが、それでも時々大地震のような家鳴やなり、震動が起るので、事によるとやはり狐狸こり仕業しわざかも知れない。とはいえ場所はよし、和尚の取持とりもちはよし、麓の一本道に見張りさえ付けておけば、手入れの心配は毛頭ないので、入れ代り立代り寄り集まって手遊びするものの絶えぬところが面白い。もちろんそのような家鳴、震動の度毎たびごとに、麓の百姓に聞いてみても、そんな地震は一向知らぬという話。ナント面妖な話ではないかえ。その狐か狸かがさらって行った金高を集めたなら、大したものづら……といったような話を、頭に刻み込み刻み込み行くうちに銀之丞は、いつのにか菊川の町外れを右に曲って、松の間の草だらけの道を、無我夢中で急いでいた。……大工上りの袁許坊主おげぼうず……井遷寺せいせんじのカラクリ本堂……思いもかけぬ大金儲けのいとぐち……生命いのちがけの大冒険……といったような問題を、心の中でくり返しくり返し考えながら……。

 無間山井遷寺は聞きしにまさる雄大な荒廃寺あれでらであった。星明りに透かしてみると墓原はかはららしい処は一面の竹籔となって、数百年の大銀杏いちょうが真黒い巨人のように切れ切れの天の河を押し上げ、本堂の屋根に生えたペンペン草、紫苑のたぐいが、下から這い上ったつたや、葛蔓くずかずらとからみ合って、夜目にもアリアリと森のように茂り重なっていた。
 見張りの眼を巧みに潜ってきた銀之丞が、閉め切った本堂の雨戸の隙間からチラチラ洩れる火影をのぞいてみると、正しく天下晴れての袁彦道ばくちの真盛り。月代さかやきの伸びた荒くれ男どもは本職の渡世人らしく、頬冠りや向う鉢巻で群がっている穢苦むさくるしい老若は、近郷近在の百姓や地主らしい。正面に雲竜うんりゅう刺青ほりものの片肌を脱いで、大胡坐おおあぐらを掻いた和尚の前に積み上げてある寺銭が山のよう。盆茣蓙ぼんござを取巻いて円陣を作った人々の背後うしろに並んだ酒肴さけさかな芳香においが、雨戸の隙間からプンプンと洩れて来て、銀之丞の空腹すきばらを、たまらなくえぐるのであった。
 そのうちに盆茣蓙の真中に伏せてあった骰子さいころ壺が引っくり返ると、和尚の負けになったらしく、積上げられた寺銭が、大勢の笑い声のうちにザラザラと崩れて行く。それを見ると和尚が不機嫌そうにトロンとした眼を据えて、
「……これはいかん。ああ。酔うた酔うた。ドレちょっと一パイ水でも呑んで来ようか」
 と云ううちに立上った和尚の物すごい眼尻に引かえて、唇元くちもとの微かな薄笑いが、裸体はだか蝋燭の光りにチラリと映ったのを銀之丞は見逃がさなかった。
 銀之丞はコッソリと雨戸から離れて、ドシンドシンという和尚の足音が、どこへ行くかを聞き送っていた。
 和尚の足音は渡殿わたどのを渡って庫裡くりの方へ消えて行った。そこのくらがりで水を飲む柄杓ひしゃくの音がカラカラと聞こえたが、やがて又今度は音も立てずにヒッソリと渡殿を引返して、何やドッと笑い合う賭博ばくち連中のどよめきを他所よそに、本堂の外廊下のやみに消え込んで行ったと思うと、不思議なるかな。さしもの本堂の大伽藍だいがらん鴨井かもいのあたりからギイギイと音を立てて揺れはじめ、だんだん烈しくなって来て本堂一面に砂の雨がザアザアと降り出し、軒の瓦がゾロゾロガラガラと辷り落ちて、バチンバチンと庭のを打つ騒ぎに、並居なみいる渡世人や百姓の面々は、すはこそ出たぞ、地震地震と取るものも取りあえず、燭台を蹴倒し、雨戸を蹴放けはなして家の外へ飛び出せば、本堂の中は真暗闇となって、聞こゆるものは砂ほこりの畳に頽雪なだるる音ばかりとなった。
 なれども銀之丞はちっとも驚かなかった。こっそりと渡殿の欄干をい上り、本堂の外縁にまわり込んでみると、本堂の真背後まうしろに在る内陣と向い合った親柱を、最前の三多羅和尚が双肌脱ぎとなり、声こそ立てねエイヤエイヤと、調子を計って押しつ緩めつしているけはいである。さては前以て察した通りにこの和尚奴、自身大工の心得があるのを幸い、本堂のアタリアタリの締りを弛め、普通なみの者の力でも拍子を揃えてゆすぶれば、次第次第に揺れ出すように仕掛け、天井裏には砂でも積んでおいて、客人達が勝負に夢中になっている油断を見澄まして、コッソリとカラクリを動かし、この辺の無智な奴どもを脅やかし、悪銭を奪いおったに相違ない。これこそ天の与うる福運。取逃がしてなるものかと思ううち、ぬき足さし足和尚の背後うしろに忍び寄り、腰の錆脇差さびわきざしをソロソロと音のせぬように抜き放ち、和尚の背中のマン中あたりにシッカリと切先きっさきを狙い付け、矢声もろとも諸手もろて突きに、つかとおれと突込めば、何かはもってたまるべき、悪獣のような叫び声をギャアッと立てたがこの世の別れ、あおのけ様に引っくり返って、そのまま息が絶えてしまった。その声に驚いて、外に逃出していた百姓連中がワイワイと駈集かけあつまって来るのを、銀之丞は和尚の屍体に片足かけたまま見下した。引抜いた血刀を構えながら凜々りんりんたる声を張上げて叫んだ。
「……騒ぐな騒ぐな。百姓共。よく聞けよ。身共は京都におわします一品薬王寺宮いっぽんやくおうじのみや様の御申付おもうしつけによってこれまで参いった宮侍、吉岡鉄之進と申す者じゃ。そもそもこの寺は今川義元公の没落後、東照宮様の御心入れによって、薬王寺宮様の御支配寺になっていたものをこれなる悪僧が横領致して、不思議なる働きをなし、その方共が持寄る不浄の金を掻集めおる噂が、勿体なくも宮様の御耳に入り、一日も早くくだんの悪僧を誅戮ちゅうりくなし、下々しもじもの難儀を救い取らせよとの有難い思召おぼしめしによって、はるばる身共を差遣さしつかわされた次第じゃ。只今首尾よくこの悪僧を仕止めた以上、この寺に在る不浄の金銭は残らず宮家に於て召上げられる故に左様さよう心得よ。なおその方共は身共の下知に従って、隠れたる金銀を探し出し、身共の差図通りに取形付けを致すならば、今日持っていった賭博ばくち資金もとで各自めいめいに相違なく返し遣わすのみならず、賃銀は望みに任するであろう。もし又、否やを申す者があるならば、一品宮様の御罰までもない。身共がこの和尚と同様に一刀の下に斬棄きりすてる役柄故、左様さよう心得よ」

 それから数日ののち、銀之丞は一品薬王寺宮御門跡の御賽銭宰領に変装し、井遷寺の床下に積んであった不浄の金を二十二の銭叺ぜにがますに入れ、十一頭の馬に負わせ、百姓共に口を取らせて名古屋まで運び、諸国為替問屋、茶中ちゃちゅうの手で九千余両の為替に組直させ、百姓共に手厚い賃銀を取らせて追返すと、さっぱりと身姿みなりを改めて押しも押されもせぬ公家侍の旅姿となり、を日に次いで京都へと急いだ。

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