「……………」 健策は膝を抱えたまま頭を強く左右に振った。思いもかけぬ……という風に……。黒木は白い歯を露わして微笑した。 「……ハハア。おありにならない。多分そうだろうと思いました。それならば試しに、この事件の三ツの要素を、一ツ一ツに分解して考えて御覧なさい。そんな有り触れた殺人事件なぞより数層倍恐ろしい……戦慄すべき出来事となって、貴方がたの眼に映じて来はしまいかと思われるのですが」 「……数層倍恐ろしい……」 「そうです……おわかりになりませんか」 「わかりません」 「ハハア。おわかりにならない……イヤ御尤もです。私の判断の根拠というのは、今も申します通り、極めて非常識なものですからね……しかし或る程度までは常識で説明出来るのです。否……却って私の考えの方が常識的ではないかと思われるのですが……」 「ハハア……それはどういう……」 「……まず……この事件の犯人と目されている今の……エエ。何とかいいましたね。ソウソウ当九郎……その甥の行方不明と、この事件とが結びつけられているのは一応もっとも千万な事と考えられます……というのは、源次郎氏の妻君と、忠義な乳母のお磯とを除いた村の人間の中で、源次郎氏が金を隠している場所を発見する可能性が一番強いのは、誰でもない……その甥の当九郎という事になるのですからね」 「いかにも……」 「……一方に叔父御の源次郎氏は、変人の常として、存外、用心深いところもあるので、支那人のように全財産を胴巻か何かに入れて、夜も昼も身に着けておく習慣があったかも知れない。それを又当九郎が推察したものとすると、その金を奪うためには是非とも源次郎氏を殺さなければならぬ事になるでしょう……」 「無論ですね……それは……」 「……そこで先ずその第一着手として、自分に嫌疑がかからぬように、亜米利加に行くと称して家出をした。それから相当の時日が経った後に姿をかえながら、兇器を携えて源次郎氏を附け狙っていると、そのうちに源次郎氏が、大雪に誘われて狩りに出かけるところを発見したので、好機到れりという訳で、村から遠く離れた、あの山の上の……何とかいう処でしたね……そうそう一本榎に待ち伏せて狙撃をした。……ところが雪の中の事ですから、思ったより早く相手に発見されて、第一弾が命中しなかった……というような事も考えられますが、とにも角にもその雪の山上で、物凄い撃ち合いが始まった事は、誰にも想像され得るでしょう。……しかし源次郎氏の武器が二連発の散弾銃で、当九郎の獲物がピストルの五連発か何かであったとすると、到底相手にはなり切れないので、源次郎氏は思わず後へ退って行くうちに、足場を誤って谷川に墜落した。そこで当九郎はその死骸から貯金だけを奪い取って、二円なにがし入りの蟇口を故意に残して立ち去ったもの……と想像する事が出来るでしょう」 「……驚いた……全くその通りです。養父の考えと一分一厘違いありません」 「そうでしょう……これが一番常識的な考え方で、前後を一貫した事実のすべてとピッタリ符合するのですからね」 「そうです。それ以外に考えようは無いと思われるのですが」 「そうでしょう……しかしここで、今一歩退いて別の方面から観察したら、どんなものでしょうか……つまりこの事件には、そのような犯人が全然居なかったとしたら、どんな事になるでしょうか」 「……エッ……犯人が居ない……」 「そうです。つまりその当九郎という甥が、この事件に結び付けられているのは、人々の想像に過ぎないとしたらどうでしょうか……実際と一致する想像は、よく正確な推理と混同され易いものですからね……甥の当九郎はホントウに青雲の志を懐いていたので、そのまま一直線に外国へ行ってしまって、この方面には全然寄り附かなかったとしたら……どうでしょうか……そんな事はあり得ないと云えましょうか」 「サア……それは……」 「……又……実松氏の貯金を無くしたのは誰でもない実松氏自身で、その金は遊興費か何かに費消されてしまったものとしたら、どうでしょうか。そんな風には考えられぬでしょうか」 「……………」 「……そういう風に三ツの出来事をバラバラにして、一ツ一ツに平凡な出来事として考えて行く方が、この事件を計画的な殺人と考えるよりも却って常識的で、非小説的ではないでしょうか……すなわち事実に近いと思われはしないでしょうか」 「……そ……そうすると……」 と健策は眼を光らせながら、すこし狼狽したように身を乗り出した。 「そうすると何ですか……実松氏が発射した二発の散弾は、やはり本当の獣か何かを狙ったものなんですね」 「イヤ……そこなのです」 と黒木は反対に反り身になった。さも得意そうに白湯を一口飲むと、悠々と舌なめずりをした。 「……私もそう考えたいのです。……が……そうばかりは考えられない別の理由があるのです。実を云うとこれから先が私の本当の直感ですがね」 「……その直感というのは……」 と健策は益々身を乗り出した。同時に黒木はいよいよ反りかえって行った。 「……手早く申しますと実松源次郎氏は、その払暁前の雪の中で、或る恐怖に襲われたのではないかと思われるのです」 「……或る恐怖……」 「さよう……つまり実際には居ない、或る怖るべき敵を、雪の中に認めて、その敵と闘うべく、二発の散弾を発射されたものではないかと考えられるのです。そうすれば一切の事実が何等の不自然も無しに……」 「……チョット待って下さい」 と健策は片手をあげた。次第に不安げな表情にかわりながら……。 「その怖るべき敵と云われるものの正体は何ですか……たとえば一種の精神病的な幻覚みたようなものですか」 黒木はキッパリとうなずいた。 「さよう……その幻影は要するに、実松氏固有の脅迫観念が生んだ、ある恐ろしいものの姿だったに違いありません。鳥だか、獣だか、何だかわかりませんが……」 健策は愕然となった。何事か思い当ったらしく唾液を嚥み込み嚥み込みした。しかし黒木は構わずに話を続けた。 「実松氏はその幻影と闘うべくレミントンの火蓋を切られたのです。しかし、もとより実際に居ない敵なのですから、いくら散弾でも命中する気づかいはありません。敵は益々眼の前に肉迫して来ましたので、実松氏は恐怖の余り夢中になって逃げ出した……そうしてお話しのような奇禍に遭われたのではなかったかと考えられるのです」 「ハハア……」 と健策はいよいよ不安らしくグッと唾液を嚥み込んだ。 「……しかしその証拠は……」 「……イヤ。証拠と云われると実に当惑するのですが……要するにこれは私の直感なのですから……しかし実松氏が、この甥の当九郎を愛しておられた程度が、普通の人情を超越していたらしい事実や、全財産を現金にして絶対秘密の場所に隠していたところなどを見ると、実松氏はどうしても、或る一種の超自然的な頭脳の持主としか思われないのです。従ってそうした脅迫観念に囚われ易い……」 「……イヤ……解りました……」 こう云いながら相手の話を遮り止めた健策は、急に長椅子の上に居住居を正した。踏みはだけた膝の上に両肱を突張って、二三度大きく唾を嚥み込むうちに、みるみる蒼白な顔になりながら、物凄い眼で相手を睨み付けた。唇をわななかせつつ肺腑を絞るような声を出した。 「……イヤ。よくわかりました。今まで全く気が付かずにいましたが、貴方の御意見を聞いているうちに何もかも解ってしまいました。……貴方は実松氏の超常識的な性格から割り出して、当九郎の無罪を主張していられるようです。つまり実松氏は……品夫の父は元来、深刻な精神病的の素質を遺伝している、変態的な性格の所有者であった。だから月の光りの強い、雪の真白い山の上で、一種の幻覚錯覚に陥って、自分でも予期しない自殺同様の、非業の最期を遂げたもの……と主張しておられるのでしょう」 「イヤ。ちょっとお待ち下さい」 と黒木が片手を揚げて制しかけた。健策の語気が、だんだん高まって来るのを怖れるかのように……。しかし健策はひるまなかった。黒木と同時に片手を揚げながら、なおも身体を乗り出した。 「イヤ。お待ち下さい。待って下さい。貴方は御存じないのです。そうした主張で、当九郎の無罪が証明出来るものと思っていられるようですが、そうした説明ならば、僕の方が専門なのです。いいですか。……今お話のような事実を、有名なデビーヌ式の素質遺伝の原則と照し合わせると、却って正反対の結論が生まれて来るのですよ。……美青年当九郎は表面上柔和な人間に見えながら、その底には、やはり実松氏と同様の超自然的な性格を隠し持っていた……しかも大恩ある叔父を執念深く附け狙って殺すというような残忍冷酷を極めた、非良心的な先天性の所有者であり得た事が、科学的に証明されて来るのですよ。……いいですか……又、実松氏が極端な変人であると同時に、血腥い殺生を唯一の趣味としていた因縁も、その血腥い殺生行為のアトで、異常な性的の昂奮を見せるという、変態的な性格も、その故郷の血族の絶滅している理由も……そうして現在の品夫が、二十年前の殺人犯人に凝視されているという脅迫観念や、復讐をしなければ止まぬというような偏執狂式の空想に囚われている原因も……何もかもがこの事件の核心となっているタッタ一ツの事実によって説明され得る……つまりT塚村の実松家は、ヒドイ精神病の系統であったと……」 相手の悽愴たる語気に呑まれて、急に赤くなり、又、青くなりつつ眼を瞠っていた黒木は、この時ヤッとの事でヘドモド坐り直した。両手をあげて迸り出る健策の言葉を押し止めた。 「……イヤ……お待ち……お待ち下さい。ソ……それは貴方の誤解です。私はただ品夫さんのお父さんの事だけを申しましたので……」 「……否……チットも構いません。公然と僕達の結婚に反対されても構いません」 健策は断乎とした態度でこう云い切った。云い知れぬ昂奮に全身を震わせながら……。 「……たといドンナ事があろうとも、僕は品夫を殺さない決心ですから……品夫を見棄てる気は毛頭無いのですから、何でもハッキリ云って下さい。……実松一家は、そんな恐ろしい精神病の遺伝系統のために、その故郷で絶滅してしまっている。そうして僅かに残った一滴の血が、めぐりめぐって現在藤沢家を亡ぼすべく流れ込もうとしている。その一滴の血が……品夫だと云われるのですね」 「……………」 「藤沢家のためには、品夫を見殺しにした方が利益だと云われるのですね……貴方は……」 「……………」 「……………」 二人は青い顔を見合わせたまま、石のように凝固してしまった。……ちょうどその時に、扉の外で何か倒れたような音がしたので……。 二人はハッとしながら同時に立ち上った。扉に近い健策が大急ぎで把手を引くと扉の外の暗いリノリウムの床に、白い服を着た品夫が横たわっていた。 健策は無言のまま跪いて脈を取った。そうして強いて落ちついた態度で、傍に突立っている黒木の顔を見上げると、如何にも苦々しげに頭を一つ下げた。 「……すみませんが……診察室の扉を開けてくれませんか……」
その夜の三時をすこし廻った頃であった。 品夫は作りつけの人形のように伏せていた長い睫を、静かに二三度上下に動かすと、パッチリと眼を見開いた。そうして黒い瞳を空虚のように瞠りながら、仄暗い座敷の天井板を永い事見つめていた。 それから瞬一つせずに、頭をソロソロと左右に傾けて、白いずくめの寝具と、解かし流されたまま、枕の左右に乱れかかっている自分の髪毛を見た。それから、黒い風呂敷を冠せられている枕元の電気スタンド……床の間に自分が生けた水仙の花……その横の床柱に、白い診察着のまま倚りかかって腕を組んで睡っている健策の顔……その前の桐の丸火鉢の上で、仄かに湯気を吐いている鉄瓶……その蔭に掻巻を冠ったまま突伏している看護婦……そんなものの薄暗い姿を一ツ一ツに見まわした彼女は、その表情をすこしも動かさないまま、又、もとの通りにあおのけになって、しずかに眼を閉じて行った。 室の中は又も、雪の夜の静寂に帰った。シンシンと鳴る鉄瓶の音と、スヤスヤという看護婦の寝息と、雨戸の外でチョロチョロと樋を伝い落ちる雪水の音ばかりになった。 しかし品夫は、ほんとうに眠ったのではなかった。やがて眼を閉じたまま、唇の左右に何ともいえない冷たい微笑を浮かべたと思うと、瞼をウッスリと開きながら、ソロソロと起き上った。両手を前にさし伸べて……手探りをするように身体をうねうねと蜒らして……中心を取りかねているようであったが、そのうちに両手で夜具を押えつけると、スックリと寝床の上に立ち上った。
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