「それから先は頗る簡単です。あのS岳峠の一本榎という平地の一角に在る二丈ばかりの崖から、谷川に墜ちて死んでいる実松氏の屍体を、夜が明けてから通りかかった兎追いの学生連中が発見して、村の駐在所に報告したので、大騒ぎになったものだそうで……死因は谷川に墜ちた際に、岩角で後頭部を砕いたためで、外には些しも異状を認められなかったそうです。これはその屍体を診察した養父の話ですがね……」 「成る程……しかし屍体以外には……」 「屍体以外には、ポケットの中に油紙に包んだ巻煙草の袋と、マッチと、焼いた鯣が一枚這入っていたそうで、弁当箱の中味や、水筒の酒も減っていなかったそうです。……それからもう一つ胴巻の中から、二円何十銭入りの蟇口が一個出て来たそうですが、それが天にも地にも実松家の最後の財産だったそうで、源次郎氏がどこにか隠していた筈の現金は、あとかたもなく消え失せていたそうです。……尤もこれは事件後に村外れに在った源次郎氏の自宅を土台石まで引っくり返して調べた結果、判明した事実だそうですが……」 「成る程……それで殺人の動機が成立した訳ですね」 「そうなんです。尤もお金の多寡はハッキリわかりませんがね……それから、もう一つ重要なのは、屍体の左手にシッカリと握っていたレミントンの二連銃の中に、発射したままの散弾の薬莢が二発とも残っていた事だそうです」 「ハハア……詰め換えないままにですな」 「そうです。ほかの弾丸は、弾丸帯にキチンと並んでいて、一発も撃った形跡が無いし、弁当や水筒にも手がつけてないところを見ると、源次郎氏は、あの一本榎の平地へ登り着くと間もなく、何かに向って二発の散弾を発射した。そうして後を詰めかえる間もなく谷川に転げ落ちて死んだものらしいと云うのです」 「ヘー……その辺がどうも可笑しいようですな」 「おかしいんです……源次郎氏は、今もお話した通りあの辺の案内ならトテモ詳しい筈ですからね。おまけに月夜の雪の中ですから、足場は明るいにきまっているし、余程の強敵に出会って狼狽でもしなければ、そんな目に会う筈は無いと云うのです」 「いかにも……その考えは間違い無さそうですな」 「僕にもそう思えるのです。しかし何しろ、その屍体の上には、岩と一と続きに、雪がまん丸く積っていた位で、附近には何の足跡も無いために、犯人の手がかりが発見出来なくて困ったそうです」 「そうですねえ。あとから雪が降らなかったら何かしら面白いことが発見出来たかも知れませんが……」 「そうです。尤も雪というものは人間の足跡から先に消え初めるものだと村の猟師が云ったとかいうので、雪解けを待って今一度、現場附近を調べたそうですが、源次郎氏が通る前にS岳峠を越えた者は一人や二人じゃなかったらしいので……おまけに現場附近は、屍体を発見した学生連に踏み荒されているので、沢山の足跡が出るには出たそうですが、いよいよ見当が附かなくなるばかりだったそうです」 「……すると……つまりその捜索の結果は無効だったのですね」 「ええ……全然得るところ無しで、K町の新聞が盛んに警察の無能をタタイたものだそうです。……しかしそのうちに乳飲児の品夫が、お磯婆さんと一緒に此家に引き取られて来るし、仮埋葬になっていた実松源次郎氏の遺骸も、正式に葬儀が行われるしで、事件は一先ず落着の形になったらしいのです。そうして色んな噂が立ったり消えたりしているうちに二十年の歳月が流れて今日に到った訳で……いわば品夫は、そうした二十年前の惨劇がこの村に生み残した、唯一の記念と云ってもいい身の上なんです」 こう云って唾を嚥み込んだ健策の眉の間には、流石に一抹の悲痛の色が流れた。 「なるほど……それでは村の人が色んな噂を立てる筈ですね」 と黒木も憂鬱にうなずいた。けれどもそのうちに健策は、又も昂奮して来たらしく、心持顔を赤めながら語気を強めて云った。 「しかし誰が何と云っても、僕等二人の事は養父が決定て行った事ですから、絶対に動かす事は出来ない訳です……今更村の者の噂だの、親類の蔭口だのを問題にしちゃ、養父の位牌に対して相済みませんし、第一品夫自身がトテモ可哀想なものになるのです。彼女の味方になっていた養父もお磯婆さんも死んでしまって、今では全くの一人ぽっちになっているんですからね」 「御尤もです」 と黒木は又も深い溜息をしながらうなずいた。そうして気を換えるように云った。 「……ところで……これはお尋ねする迄も無い事ですが、品夫さんは実のお父様が亡くなられた時の事をスッカリ聞いておいでになるでしょうね」 「それは無論です。うちの養父母や、お磯婆さんから飽きる程繰り返して聞かされているでしょうし、又、村の者の噂や何かも直接間接に耳にしている筈ですから、恐らく誰よりも詳しく知っているでしょう。……とにもかくにも復讐をするという位ですからね……ハハハハ……」 「いかにも……しかしその復讐をされるというのは……どんな手段を取られるおつもりなのでしょう……」 「さあ……そこ迄は聞いていませんがね。アンマリ馬鹿馬鹿しい話ですから……それよりも、そんな事を云い出す品夫の気もちが、第一わからなくて困っているんです……ですから、こんな内輪話をお打ち明けした訳なんですが……」 「……成る程……」 と黒木は火鉢の灰を凝視めたままうなずいた。そうして暫く何か考えているようであったが、やがて静かに顔をあげると、依然として遠慮勝ちに問うた。 「それから……これも余計な差し出口ですが、品夫さんの戸籍謄本は取って御覧になりましたか?」 「ハア。養父が取っておいたのが一枚ありますが、実松源次郎の長女品夫と在るだけで、全く身よりたよりの無い孤児です。……三四年前にわざわざC県まで人を遣って調べた事もあるそうですが、ずっと前から故郷に親戚が一人も居なくなっていたのは事実で、当九郎の両親の名前も知っている者が居ない位だったそうです……しかし、それがこの事件と何か関係があるのですか?」 「……イヤ……関係がある……という訳でもないのですが……」 黒木は何故か言葉尻を濁すと、前よりも一層憂鬱な態度で、腕を深く組みながら考え込んだ。その黒眼鏡の下の無表情な顔色を、健策はさり気なく眺めていたが、やがて片膝を抱え上げながら、所在なさそうにゆすぶり初めた。 「黒木さん。遠慮なさらなくともいいんですよ。……貴方とは、もう久しい間御懇意に願っていますし、ちょうど品夫の父親の二十一回忌に当る年に、こんな大雪が降るのも、何かの因縁だろうと思ってコンなお話をするんですからね……御腹蔵の無いところを打ち明けて下すった方が、却って功徳になるんですよ……ハハハハハ」 こう云ううちに健策は全く昂奮が静まったらしくノンビリした顔色になった。同時にいくらか話に飽きが来たらしく、あおむいて小さな欠伸を出しかけた。しかし黒木は依然として表情を動かさなかった。なおも腕を深く組んで何事か考えまわしているらしかったが、そのうちに両手で眼鏡をかけ直しながら、軽い溜息と一緒につぶやいた。 「サア……それをお話していいか……わるいか……」 「ハハハハハ。お話出来なければ無理に伺わなくともいいんですがね。……元来これは僕等二人の間に、秘密にしておくべき問題なんですから……しかし、くどいようですが、たとい品夫がドンナ身の上の女であろうとも、二人を結びつけている死人の意志は、絶対に動かす事が出来ない訳ですからね。よしんば品夫のためにこの家が滅亡するような事があっても、それが故人の希望なんですから、その辺の御心配は御無用ですよ……ただ参考のために承っておくに過ぎないのですからね。ハハハハハ、こう云っちゃ失礼かも知れませんが……」 健策は相手を皮肉るでもなくこう云って笑うと、思い切って大きな欠伸を一つした。硝子窓越しにチラチラ光る綿雪を見遣りながら……。 「……成る程……それでは……私の意見を……申してみますが……」 黒木はやっと決心したらしく、窮屈そうにこう云いながら、火鉢の横に転がっている大きな湯呑を取り上げて白湯を注いだ。すると健策もそれに倣って、長椅子の下から硝子コップを取り上げた。 二人の間には又も新らしい談話気分が漲った。健策はフウフウと湯気を吹きながら、剽軽な調子で云った。 「……どうか願います。品夫の一生の浮沈にかかわる事ですから……」 しかし黒木はどこまでも真面目な、無表情のうちにうなずいた。湯呑を片わきへ置きながら……。 「イヤ……重々御尤もです。それじゃ、お話できるだけ、してみましょうが、その前にもう一つお尋ねしたい事がありますので……」 健策もコップを畳の上に置きつつ、気軽にうなずいた。 「ハア。何なりと……」 「……イヤ。ほかでもありません。つまり品夫さんのお父様に関する今のお話ですがね……そのお父様が変死された事について、品夫さんは矢張り御自分一個の観察を下してお在でになるでしょうね」 「……観察というのは……」 「……そのお父さまの変死が、何故に他殺に相違ないか……というような事です」 「それは相当考えているでしょう。探偵小説好きですからね……しかしそんな事を面と向って尋ねた事は一度もありませんよ。もう過ぎ去ってしまった事ですし、そんな事を訊いて又泣き出されでもすると面倒ですから……」 「ハハア。成る程……それじゃ貴方は、貴方御自身だけで別の解釈を下しておられる訳ですナ」 「イヤ。解釈を下すという程でもありませんが、僕だけの常識で説明をつけておるので、手ッ取り早く云うと養父と同じ意見なのです。……要するに最小限度のところ、実松源次郎氏の変死を自殺、もしくは過失と認むべき点はどこにも無い……他殺に相違無いという事に就いては、疑う余地が無いと信じているのですが……」 「……では玄洋先生も初めから、実松氏の甥の所業と睨んでおられた訳ですな」 「まあそうなんです。しかし、これは要するに、今お話したような事実を土台にして、色々と推量をした結果、最後に生まれた結論に過ぎないので、元来が迷宮式の事件なのですから、あなたの方からモット有力な、根拠のある御意見が出たら、その方に頭を下げようと思っているのですが」 「イヤ。根拠と云われると困るのですが……有体に白状しますと、私の意見というのはタッタ今、あなたのお話を聞いているうちに、私の第六感が感じた判断に過ぎないのですからね」 「ホウ……タッタ今……第六感……」 と健策は眼を丸くして腮を撫でた。黒木は心持得意らしくうなずいた。 「そうです。私は永年、生命がけの海上生活をやって来たものですから、事件と直面した一刹那に受ける第六感、もしくは直感とでも申しますか……そんなものばかりで物事を解決して行く習慣が付いておりますので……この事件なぞも、そんなに長い事未解決になっている以上、その手で判断するよりほかに方法が無いと思うのですが」 「……成る程……素敵ですナ……」 「ええ。あまり素敵でもないかも知れませんが……しかし、それでも、そうした私一流の判断でこの事件を解釈して行きますと、只今の品夫さんの復讐論なぞは、全然無意義なものになってしまうのです。あなたの御註文通りにね……」 「エッ。全然無意味……僕の註文通りに……」 健策は一寸の間唖然となった。そうして眼をパチパチさせて面喰っていたが、まもなく落ち付きを取り返すと、テレ隠しらしく、両膝を無造作に抱え直してゆすぶり始めた。又も思い切って赤面しながら……。 「ハハア。イヨイヨ素敵ですな。是非聴かして下さい……その第六感というのを……」 黒木は赤ん坊をあやすように、鷹揚にうなずいた。 「無論お話します。……しかしその前に、先ず今のような第六感を受けなかった前の、私の平凡な常識判断から申しますと、元来かような迷宮式の事件というものは、色々な考え方があるものなので、それを或る一方からばかり見ているために、判断が中心を外れて来て、自然に迷宮を作るような事になるのだと思います……殊に人の噂とか、当局の眼とかいうものは、物事に疑いをかける癖が付いているので、色々な出来事の一ツ一ツが、何となくその疑いの方向に誇張して考えられたり無理に結び付けられたりし易い。そのためにいよいよ迷宮を深くして行き勝ちなものだと思いますがね」 「賛成ですね。成る程……」 「ところで、こう申上げては失礼かも知れませんが、あなたの御養父様のこの事件に対する判断や、御記憶なぞいうものは、どこまでも人情的……もしくは常識的になっておりますので……あなたも主としてその御養父様からお聞きになったお話を骨子として判断をなすった結果、同じ結論に到着されたものと思いますが……」 「その通りです……それで……」 「それでそのお話を、あなたから間接に承わったところによって考えまわしてみますと、この事件の内容はあらかた三ツの出来事に分解する事が出来ると思うのです」 「成る程……そこまでは僕等の考えと一致しているようです」 「……そうですか。それでは説明する迄も無いかも知れませんが、第一は単純な実松源次郎氏の墜死そのものです」 「いかにも……」 「その次は源次郎氏の貯金の紛失事件で、今一つはその甥の行方不明事件と、この三つが固まり合ったのが一ツの事件として判断されているのでしょう」 「敬服です。いよいよ敬服です」 「……ところで、この三ツの事件を組み合わせて、一ツの事件として観察してみますと、かなり恐ろしい事件に見えますね。……つまりその悪人の何とかいう青年が、大恩ある品夫さんのお父さんを、山の上で惨殺して、財産を奪って逃げた事になるので、この事件は、そうした残忍非道な性格によって行われた、計画的な犯行という事になるでしょう」 「全くその通りです。実松源次郎氏を殺さずとも、その恩義を忘れただけでも当九郎は大罪人だ……と養父は云っておりました」 「ところがです……ここで今一つお尋ねしますが貴方は……貴方のお養父様でもおなじ事ですが、この三ツの事件を別々に引き離してお考えになった事は、ありませんか」
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