「来ていても今晩は何も云わないのが不文律みたいになっているから大丈夫だよ。その代り明日(あす)になるとキット差止めるとか何とか威かして来るにきまっているんだ。もっとも呉羽さんは、それを覚悟の前で演(や)ってるのかも知れないがね」 「……でも轟さんと呉羽さんの前身だけは今の幕で想像が付くワケね」 「ナアニ。みんな芝居だと思って見ているんだから、そんな余計な想像なんかしないだろう」 「そうかしら……でもポオの原作なんて誰も思やしないわよ。あれじゃ……」 「フフフ。黙ってろ。幕が開(あ)くから……オヤア……これあ西洋室(ま)だ……おれア日本室(ま)にしといた筈だが……」 「……シッシッ……」 第二幕の第一場は大森の天川呉羽嬢邸内、轟九蔵氏自室の場面であった。部屋の構造から品物の配置、主人轟九蔵氏の扮装に到るまで、すべて実物の通りで、窓の外に咲き誇っている満開の桜までも、寸分違わない枝ぶりにあしらってある。 その東の窓際の寝椅子に、着流しの轟九蔵氏が長くなっている足先の処に、美術学校の制服を着た、イガ栗頭の江馬兆策に扮した俳優が腰をかけている。その前に音楽学校のバンドを締めた美鳥ソックリの少女が姿勢正しく立って、美鳥のレコードを蔭歌にして独唱をしている体(てい)。それを轟氏が、如何にも幸福そうに眼を細くして聞いている。 「うらわかき吾が望み 青々と晴れ渡り かがやかに雲流る 大空よああ大空よ」 「うらわかき吾が思い はてしなく澄み渡り すずろかに風流る 大空よああ大空よ」 「ウム。なかなか立派な声になった。学校というものは有難いものだ」 兄妹(きょうだい)同時に頭を下げる。 「ありがとう御座います」 「ああ。御苦労だった、お蔭でいい心持になった……ウム。それからなあ。きょうは久し振りに娘の三枝と一所に夕食を喰べるのじゃから、お前たちも来て一所に喰べてくれ」 二人顔を見合わせて喜ぶ。 「ハハハ。嬉しいか」 「ありがとう御座います」 「おじさま。ありがと」 「うむ。なかなか言葉が上手になったな。もう日本人と変らんわい。ハハハ。どうだい。お前たちは日本と朝鮮とドッチが好きかね」 「僕日本の方が好きです」 「何故日本が好きかね」 「朝鮮には先生みたいに外国人を可愛がる人が居りません」 「ハハハ。外国人はよかったな。美鳥はどうだい」 「あたし豆満江(とまんこう)がもう一ペン見とう御座いますわ」 「うむうむ。その気持はわかるよ。あの時分はお前達と雪の中で、ずいぶん苦労したからなあ」 「おじ様が毎日鮭(さけ)を捕えて来て、あたし達に喰べさして下さいましたわね」 「アハハハ。ところでお前たちは、あれから毎日毎日三枝と兄妹(きょうだい)みたようにして暮して来ているが、これから後(のち)も、このおじさんに万一の事があった時に、今までの通りに仲よくして暮して行けるかね。参考のために聞いておきたいが……」 「出来ます。僕、呉羽さん大好きです」 「美鳥はどうだい」 「わたくし……好きです……トテモ。ですけど……何だか怖(こ)おう御座いますわ」 「ナニ怖い。どうして……」 美鳥、恥かし気にしなだれる。轟氏もキマリ悪るそうに顔を撫でて笑う。 「怖いことなんかチットモないんだよ。アレは負けん気が強いし、小さい時から世の中のウラばかり見て来とるから、あんな風になったんだよ。ホントは実に涙もろい、純情の強い人間なんだよ」 「呉羽さんはエライ女(ひと)ですよ。何でも御存じですからね。悪魔派の新体詩だの、未来派の絵の批評が出来るんだから僕、驚いちゃった」 「ウム。わしの感化を受けとるかも知れん。わしも元来は平凡な、涙もろい人間と思うが、あんまり早くエライ人間になろうと思うて、自分の性格を裏切った人生の逆コースを取って来たために、物の見え方や聞こえ方が、普通の人間と丸で違ってしもうた。悪魔のする事が好きで好きで叶(かな)わん性格になってしもうた。ハハハ。怖がらんでもええぞ美鳥……お前たち兄妹(きょうだい)に対しては俺はチットモ悪魔じゃない。平凡な平凡な涙もろい人間だ……その平凡な平凡な人間に時々立帰ってホッと一息したいために、お前達を養っているのだ……イヤ詰まらん事を云うた。それじゃ又、晩に来なさい。夕飯の準備が出来たら女中を迎えに遣るから……」 「おじさま……さようなら……」 「先生……さようなら……」 「ああ。さようなら……」 二人が退場すると轟氏呼鈴(よびりん)を押し、這入って来た女中に三枝を呼んで来るように命じ、そのまま寝椅子に長くなる。 大きな桃割(ももわれ)。真赤な振袖。金糸ずくめの帯を立矢(たてや)の字に結んだ呉羽がイソイソと登場する。 「あら……お父様。お呼びになったの」 「……うむ。こっちへお出で……」 「……嬉しい。又、どこかのお芝居へ連れてって下さるの」 と呉羽嬢が甘たれかかるのを抱きあげて身を起した轟氏は立上って、入口の扉(ドア)に鍵を卸(おろ)し、窓のカアテンを閉(とざ)して異様に笑いながら寝椅子に帰り、呉羽の身体(からだ)を抱き上げる。 「きょうは、私の方からお前にお願いがあるんだよ」 と少し真面目に帰りながら、二人の身の上話を初め、前の幕の通りの事を簡略に物語り、二人が真実の親子でない事を明らかにする。 その一言一句に肩をすぼめ、眼を閉じて魘(おび)えながらも、不思議なほど冷然と聞いていた呉羽は、やがて冷やかな黒い瞳をあげて微笑する。 「それで妾にお願いって仰言るのはドンナ事なの……」 轟氏は忽ちハラハラと涙を流し、熱誠を籠めた態度で、呉羽の両手を握る。 「……オ……俺は、お前を一人前に育て上げてから、両親の讐仇(かたき)を討たせようと思って、そればっかりを楽しみの一本槍にして、今日まで生きて来たんだ」 「……まあ……そんな事……どうでもよくってよ。今までの通りに可愛がって下されば、あたしはそれでいいのよ」 「……ウウ……そ……それは……その通りだ。……と……ところがこの頃になって……俺は……俺に魔がさして来たんだ。もちろん最初の目的は決して……決して忘れやしない。必ず……必ず貫徹させて見せる。生蕃小僧は、お前の一生涯の讐敵(かたき)だから、この間お前が頼んだように、誰にもわからない処で、一番恐ろしい……一番気持のいい方法で讐敵(かたき)を取らしてやる決心をして、現在、極秘密の中(うち)に、この家の地下室でグングン準備を進めているところだが………」 「……アラッ……ホント……」 「ホントウだとも。もっとも二……二三年ぐらいはかかる見込だがね。骨が折れるから……」 「嬉しい。楽しみにして待っていますわ」 「……と……ところがだ。この頃になったら、その上に……も……もう一つの別の目的が……オ……俺の心に巣喰い初めたのだ。そそ……その目的を押付けようとすればする程……その思いが募って……弥増(いやま)して来て……もうもう一日も我慢が……で……出来なくなって来たんだ」 「まあ。そのモウ一つの目的ってドンナ事?」 「オ……俺は……お前をホントウに俺のものにしたくなったのだ。ああ……」 轟氏は涙を滝のように流し、両手を顔に当てる。呉羽は本能的に飛退(とびの)いて、傍(そば)の椅子を小楯に取り冷やかに笑う。 「まあ。あなた馬鹿ね。あたし今でも貴方のものじゃないの。この上に妾にどうしろって仰言るの……」 「ウ……嘘でもいいから……オ……俺の妻になったつもりで……俺に仕えてくれ」 「あら。厭な人。あなた妾を恋して、いらっしゃるのね」 轟氏は寝椅子からズルズルと辷(すべ)り落ちてペッタリと両手を床に支える。乞食のようにペコペコと頭を下げる。 「そ……そうなんだ。タ……助けると思ってこの俺の思いを……」 呉羽、椅子の背中に掴まったまま、仕方なさそうに身を反(そ)らして高笑いする。 「ホホホホホホホホホホホ可笑(おか)しな方ね。ホホホホホホホホ……」 その笑い声の中に電燈が消えて、場内が真暗になっても、笑い声は依然として或は妖艶に、或は奇怪に、又は神秘的にそうして忽ちクスグッタそうに満場を蠱惑(こわく)しいしい引き続いている。 そのうちにソノ笑い声が次第に淋しそうに、悲しそうに遠退(とおの)いて行って、やがてフッツリと切れるトタンに舞台がパッと明るくなり、第二幕の第二場となる。 呉羽の姿は見えず。黒っぽいモーニングコートに縞(しま)ズボン白胴衣(チョッキ)の轟氏がタダ独りで、事務机の前の廻転椅子に腰をかけて、金口(きんぐち)煙草を吹かしながら一時二十五分を示している正面の大時計を見ている。左側のカアテンを引いた窓硝子(ガラス)の外に電光がしきりに閃めくと、窓の前の桜がスッカリ青葉になっているのが見える。その電光の前に覆面の生蕃小僧が現われコツコツと窓硝子(ガラス)をたたく。 轟氏が立って行って開けてやると両足を棒のように巻いた生蕃小僧が、手袋を穿めた片手にピストルを持って這入って来る。 「ハハハ。よく約束を守ったな」 轟氏は用意の小切手を生蕃小僧に与える。 「この次は真昼間、玄関から堂々と這入って来い。夜は却(かえ)って迷惑だ」 「卑怯な事をするんじゃあんめえな」 「俺も轟九蔵だ。貴様はモウ暫く放し飼いにしとく必要があるんだ。今日は特別だが、これから毎月五百円宛(ずつ)呉れてやる。些くとも二三年は大丈夫と思え」 「そうしていつになったら俺を片付けようというんだな」 「それはまだわからん。貴様の頭から石油をブッ掛けて、火を放(つ)けて、狂い死(じに)させる設備がチャントこの家の地下室に出来かけているんだ。俺の新発明の見世物だがね……グラン・ギニョールの上手を行く興行だ。その第一回の開業式に貴様を使ってやるつもりだが……」 「そいつは有り難い思い付きだね。しかし断っておくが、俺はいつでも真打(しんうち)だよ。前座は貴様か、貴様の娘でなくちゃ御免蒙るよ」 「それもよかろう。しかしまだ見物人が居らん。一人頭千円以上取れる会員が、少くとも二三十人は集まらなくちゃ、今まで貴様にかけた経費の算盤(そろばん)が取れんからな。とにかく油断するなよ」 「ハハハ。それはこっちから云う文句だ。貴様が金を持っている限り、俺は貴様を生かしておく必要があるんだ。俺はまだ自分の弗箱(ドルばこ)に手を挟まれる程、耄碌(もうろく)しちゃいねえんだからな……ハハンだ」 「文句を云わずにサッサと帰れ。俺は睡いんだ」 轟氏、生蕃小僧が出て行った窓をピッタリと閉め、床の上の足跡を見まわし、葉巻に火を付けながら何か考え考え歩きまわっている中(うち)に、微かな電鈴の音を聞き付け、 「ハテナ。電話かな」 とつぶやきながら廊下へ出て行く。入れ代って大きな白い手柄の丸髷に翡翠(ひすい)の簪(かんざし)、赤い長襦袢、黒っぽい薄物の振袖、銀糸ずくめの丸帯、白足袋(しろたび)、フェルト草履(ぞうり)という異妖な姿の呉羽が、左手の扉(ドア)から登場し、奇怪な足跡に眼を附け、一つ一つに窓際まで見送って引返し、机の上の小切手帳を覗き込んで何やら首肯(うなず)き、唇をキッと噛んで部屋の中をジロジロ見まわしながら考えている中(うち)に突然、ポンと手を打合わせてニッコリ笑い、残忍な眼付で入口の扉(ドア)を振返りつつ、机の上の短剣型ナイフを取上げて素早く帯の間に隠すところへ、電話をすました轟氏が帰って来て悠々と扉(ドア)を閉め、立っている呉羽と向い合ってギョッとする。 「ナ……何だ……何だ今頃……何か用か……」 「ハイ。きょう……昼間にお願い致しました事の、御返事を聞かして頂きに参りましたの」 「美鳥と結婚したいという話か」 「ええ……貴方の眼から御覧になったら、飼って在る小鳥が、籠の中から飛出したがっている位の、詰まらないお話かも知れませんけども……妾……あたしこの頃、急にそうして、今までの妾の間違った生活を清算したくてたまらなくなりましたの」 「ならん……そんな馬鹿な事は……俺の気持ちも知らないで……」 「ホホ。お憤(いきどお)りになったのね。ホホ。それあ今日までの永い間の貴方のお志は何度も申します通り、よくわかっておりますわ。……ですけど……あたしだって血の通っている人間で御座いますからね。最初から貴方のお人形さんに生れ付いている犬猫とは違いますからね。もうもう今までのような間違った、不自然な可愛がられ方には飽き飽きしてしまいましたわ」 「……カカ……勝手にしろ。馬鹿。俺のお蔭で生きているのが解らんか」 「どうしても、いけないって仰言るの……」 「ナランと云うたらナラン……」 と云い捨てて廻転椅子に腰をかけ、事務机の上を片付け初める。 「オヤ。紙小刀(かみきり)が無い。鞘(さや)はここに在るんだが……お前知らんか……」 「存じませんわ。ソンナもの……」 「彼品(あれ)はトレード製の極上品なんだ。解剖刀(メス)よりも切れるんだから無くなると危険(あぶな)いんだ。鞘に納めとかなくちゃ……」 「よござんすわ。あたし、どうしても美鳥さんと結婚してみせるわ。キットこの家(うち)で美鳥さんに子守唄(ララバイ)を唄わせて見せるわ」 「……………………」 「何と仰言ったって美鳥さんを逐出(おいだ)させるような残酷な事は、断じて、断じてさせないわ」 「……勝手にしろッ。コノ出来損ないの……カカ片輪者(かたわもの)の……ババ馬鹿野郎ッ……」 「ネエ。いいでしょう……ねえ。ねえエ……あたしだってモウ……年頃なんですものオ……」 と云ううちに轟氏の背後から廻転椅子ごしに甘えかかるようにして頬をスリ寄せながら、帯の間から短剣を取出し、白い腕の蔭に隠して轟氏の胸に近付け、不意に両手で握って力任せにグッと刺す。 「ガッ……ナ何を……するッ……ガアッ……ムムムムム……」 その時に硝子(ガラス)窓の外から、最前の生蕃小僧が覆面の顔を覗かせる。電光イヨイヨ烈しくなる。 呉羽は虚空を掴んだままの轟氏の両手を避けながら、刺さっている刃物の十字形の※(つか)を、鼻紙で用心深く拭い上げ、事務机の一番下の曳出(ひきだし)から生蕃小僧の脅迫状を探し出して、その中(うち)の一枚を元に返しながら懐中し、曳出(ひきだし)の表面に残っている指紋に呼吸(いき)を吐きかけ吐きかけ念入りに鼻紙で拭き取っている中(うち)に、窓硝子(ガラス)をコツコツとたたく音を聞付け、ハッとして振返る。 窓の外の生蕃小僧、覆面を除き、白い歯を露(あら)わしつつ眼を細くして笑い、ここを開けよという風に手真似をする。呉羽はわななく手で曳出(ひきだ)しからピストルを取出し、襦袢の袖に包み、引金に指をかけながら近付き、やはり襦袢の袖でネジを捻じって窓を開ける。生蕃小僧は外に立ったまま依然として笑いながら声をひそめる。 「呉羽さん。相変らず綺麗ですなあ」 「……………………」 「私(あっし)ゃこれで貴女(あなた)の生命(いのち)がけのファンなんだよ。ドンナに危(ヤバ)い思いをしても、貴女(あなた)の芝居ばっかりは一度も欠かした事はないし、ブロマイドだって千枚以上蓄(た)めているんだぜ。ハハ」 「……………………」 「しかし、心配しなくともいいんだよ。どうもしやせんから……あっしはねえ……」 「……………………」 「あっしはね。モウ御存じかも知れんが、貴女(あなた)や、その轟さんとは相当、古いおなじみなんだ。あっしを手先に使って、貴女の御両親を殺させた、その轟九蔵って悪党に古い怨恨(うらみ)があるんでね。タッタ今二千円をイタブッて出て行ったばっかりのところなんだが……どうも彼奴(あいつ)の呉れっぷりが美事なんでね。万一、警察(さつ)へ密告(さし)やしめえかと思って、途中の自働電話から彼奴(あいつ)を呼出して、もう一度用事が出来たからと云っておいて、引返してみたら、約束しておいた玄関の扉(と)が開かない。おかしいなと思って、ここへ来て様子を見ているうちに、何もかも見てしまったんだがね……ヘヘヘ……何も心配しなくたっていいんだよ。呉羽さん。ちょうど、あっしが思っていた通りの事をアナタが遣ってくんなすったんだから、お礼を云いてえくれえのもんだ。お蔭であっしも奇麗サッパリと思い残すことがなくなりましたよ。ヘヘヘ……どうも、ありがとうがんす」 「……………………」 「ヘヘヘ。だから万一あっしが検挙(あげ)られたって、決して今夜の事あ口を割りやしません。アンタのしなすった事は、何もかもアッシが背負(しょ)って上げます。ドウセ首が百在(あ)ったって足りねえ身体(からだ)なんだからね。ハハハ」 「……………………」 呉羽はピストルを取落しヨロヨロと後退(あとじさ)りして踏止まり、両袖を胸に抱き締めて一心に生蕃小僧の顔を見詰める。 「ハハハ。その代りにねお嬢さん。万が一にも、あっしが無事に逃走了(ふけおお)せたら、どこかで、タッタ一度でもいいから、あっしの心を聞いて下さいよ……ね……」 「……………………」 生蕃小僧はうなだれたまま神に祈るようにつぶやく。遠雷の音……。 「しかし、それあ、あっしみてえな人間にとっちゃ、及びもねえ事かも知れねえ。だから万一御用を喰っちまえあ、貴女(あなた)の罪を背負って行くのがタッタ一つの楽しみでさ。ヘヘヘ。あっしみてえな人間の心あ貴女(あなた)みてえな女(ひと)でなくちゃあ理解(わか)ってもれえねえからな」 「……………………」 生蕃小僧はチョット涙を拭いてニヤニヤと笑った。 「ヘヘヘ。それからね。チット未練がましい長文句になって済まねえが、明日(あす)の朝は、せめてアッシにお線香でも上げるつもりで、出来るだけ朝寝しておくんなさいね。その轟九蔵の死骸がアンマリ早く見付かっちゃ困るんだ。銀行へ行ってお金を受取らなくちゃなりませんからね。いいかね。お頼ん申しますよ」 と云う中(うち)に姿は闇の中に消えて、声だけが朗らかに残った。 「……オットット……その窓は、そのまんま開け放しといた方がいいね。閉め切っとくと、オマハンの首に縄がかかるんだ。ハハハハハハ……」 やがてバラバラと雨の音……烈しい電光……。 あとを見送った呉羽はホッとため息した。そうしてニッコリとあざみ笑いをしいしい入口の扉(ドア)の把手(ハンドル)を、袖口でシッカリと拭い上げてから、舞台正面、中央の青ずんだフットライトの前まで来ると、大きな眼をパチパチさせてビックリしたように場内一面の観衆を見まわした。……すると……その背後の天井裏から新調らしい、真白い緞子(どんす)の幕がスルスルと降りて来て、一切の舞台面を霧のように蔽い隠した。 「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒホホホホホホホホホハハハハハ……」 底の抜けるほど朗らかな、明るい呉羽の笑い声が、満場におののき渡った。 トタンに場内の片隅から、低いけれどもケタタマシイ、慌てた声が起った。 「芝居だよ芝居だよ。タカが芝居じゃないか。ビクビクするな。シッカリしろ……シッカリして舞台を……アッ。いけねえいけねえ。脳貧血脳貧血。チョット誰か……来て……」 そうした若い男の声が、一層モノスゴク場内を引締めた。 しかしその声の方向を振り向いて見る者すら居なかった。場内はさながらに数千の人間を詰めた巨大な花氷のように冷たく凝固してしまっていた。その中(うち)に呉羽の笑い声が今一度華やかに、誇りかに閃めき透り初めた。 「ホホホホホホハハハハハハ……。いかがで御座います皆様……おわかりになりまして? 轟九蔵を殺したのは私だったので御座いますよ。皆様からこれほどの身に余る御引立を受けまして、轟九蔵からあれほどまで可愛がられておりました私だったので御座いますよ。ホホホハハハハハ……。 ……その殺しましたホントの理由と申しますのは……どうぞ恐れ入りますが今晩のお芝居を、第一幕から今一度繰り返して御考え下さいまし。当劇場の探偵劇を御ひいき下さいます皆様は、すぐに御察し下さることと存じます。 ……私は、父の甘木柳仙が老年になってから生まれました長男だったので御座います。そうして只今も取って十九歳に相成ります甘木三枝と申す男の子なので御座います。ハハハハホホホホホ……私の実父の柳仙は旧弊な人間で御座いましたので、老人の一人子は、その子供の性を反対に取扱って育てますと……女の児(こ)は男の児(こ)の通りに……又男の児(こ)は女の児(こ)の通りにして育てますと、無事に成長させる事が出来る……とよくソンナ事を申します迷信から、わざわざ私を女の児(こ)という事にして三枝という名前を附けて役場に届けまして、それから何もかも女の児(こ)として育てられながら、だんだんと大きくなってまいりますうちに、私自身でも、自分が男だか、女だかわからない位、声から姿までも……心までも女らしくなってしまったので御座います。只今、こう申しております中(うち)にも皆様はまだ私を一人前の女と信じ切っておいでになる方が、かなり大勢おいでになる事で御座いましょう。ホホホホホホハハハハハハハハハ……。 ……ところがツイこの頃になりまして、そうした女性的な習慣に埋もれておりました私の心が、いつの間にか男性として眼醒(めざ)め初めたので御座います。そうして今晩のお芝居で、お眼にかけました通りに、あの轟九蔵の執拗(しつこ)い変態的な[#底本では「変態的の」と誤記]愛がたまらなく厭(いや)になりまして、あの純真なソプラノ歌手の美鳥さんと一所になりたいばっかりに、止むに止まれない切ない気持から、あのような無鉄砲な事を仕出かしまして、満都の皆様方に、お詫の致しようもないお心づかいを、おさせ申したので御座います。そうしてその上にも因果な事には、女としての私に恋焦(こが)れておりましたあの兇悪無残の殺人鬼、生蕃小僧が、女性としての私を恋する余りに、それこそ生命(いのち)がけで私の罪悪をカバーしてくれましたお蔭で、やっと今日まで娑婆(しゃば)に生き永らえまして、おなつかしい皆様に今一度、斯様(かよう)な舞台姿で、お目にかかる事が出来たので御座います」 「芝居だ芝居だ」 「スゴイスゴイ……」 「ああ……たまらねえ」 満場の人々のタメ息が一瞬間笹原を渡る風のように渦巻きドヨめいて直ぐに又ピッタリと静まった。 「……けれども皆様お聞き下さいまし。私は、こうして大罪を犯してしまいますと、今一度、夢から醒めたような気持になってしまいました。静かに自分自身を振り返る事が出来るようになりました。男性として眼醒めました私は、今度は男性としての良心に眼醒め初めたので御座います。私のような鬼とも獣(けだもの)とも、又は蛇だか鳥だかわかりませぬような性格の人間が、あの女神のように清らかな美鳥さんに恋をするのは間違っている。私のこの血腥い呼吸が、ミジンも曇りのないアノ美鳥さんのお顔にかかってはいけない。私のこの爛(ただ)れ腐った指が、あの美鳥さんの清浄無垢の肉体(おからだ)にチョットでも触れるような事があってはならぬということを深く深く思い知りましたので、そうした私の心持を、ホンノ少しばかりでもいい、美鳥さんに理解(わか)って頂きたいばっかりに、このお芝居を思い付いたので御座います。……で御座いますからこのお芝居の終り次第に、私の持っておりますものの全部を、心ばかりの贐(はなむけ)として、私の顧問を通じて美鳥さんに受取って頂く準備がモウちゃんと出来ているので御座います。……美鳥さんは私のこうした気持をキット受け入れて下さる事と信じます。そうしてあの可哀そうな殺人鬼、生蕃小僧の罪名が、すこしでも軽くなるように、心から世話して下さるに違いないと思います」 「シバイダ……シバイダ……」 「ホホホホ……まったくで御座いますわねえ。この世は何もかもお芝居で御座いますわねえ……。ですから私も、こうして最後のお芝居を打たして頂きまして、私の一生涯を貫いておりますこのノンセンスこの上もない怪奇探偵、邪妖劇の幕を閉じさして頂くので御座います。……生蕃小僧と手に手を取って絞首台へ登るような作りごとはモウどうしても出来なくなったからで御座います。私は、私の真実にだけ生きて行きたくなったからで御座います。 ……おなつかしい皆様……お名残り惜しゅう御座いますが天川呉羽は、もうコレッキリ永久に皆様の前から消失(きえう)せなくてはなりませぬ。 ……では皆様……さようなら……御機嫌よう御過し下さいませ」 低く低く頭を下げた天川呉羽の、大きな水々しい前髪の蔭から玉のような涙がハラハラと滴り落ちるのが、フットライトに閃めいて見えた。 「シバイダ……シバイダ……」 「……バ馬鹿ッ……芝居じゃないゾッ……芝居じゃないんだぞッ……ト止めろッ……」 突然に叫び出した浴衣がけの若い男が一人、最前列の左側の見物席から、高い舞台の板張に飛付いて匍い上ろう匍い上ろうと藻掻(もが)き初めた。それを冷然と流し目に見た天川呉羽は、慌てず騒がず、内懐(うちふところ)に手を入れて、キラリと光るニッケルメッキ五連発の旧式ピストルを取出した。自分の白い富士額の中央に押当ててシッカリと眼を閉じた……と思う中(うち)に、 ……轟然一発……。 美しい半面をサット真紅に染めた呉羽は、ニッコリと笑って両手を合わせた。背後の白幕に虹のような血飛沫(ちしぶき)を残しながら、フットライトの前にヒレ伏した。 トタンにヤット見物席から匍い上った浴衣がけの男が、飛び上るように呉羽の身体(からだ)に取付いた。綺麗に分けた髪を振乱したまま正面に向って悲壮な声で叫んだ。 「ダ誰か来てくれッ。芝居じゃないゾッ」 それは大森署の文月巡査であった。その中(うち)に幕の横や下から笠支配人を先に立てた四五人が馳寄(はせよ)って来て、呉羽の身体(からだ)を無造作に、向って左の方へ抱え上げて行った。 冷やかなベルの音に連れて、天井裏から真紅の本幕が静々と降り初めた。その幕の中央には眼も眩ゆい黄金色の巨大な金文字で「天川呉羽嬢へ」「段原万平」と刺繍してあった。 万雷の落ちるような大拍手、大喝采が場内を狂い渦巻いた。ビュービューと熱狂的な指笛を鳴らす者さえ居た。 そうして先を争う蛆虫(うじむし)の大群のようにゾロゾロウジャウジャと入口の方向へ雪頽(なだ)れ初めた。 「シバイダ……シバイダ……」 「ドコマデモ徹底的な写実劇だ」 「スゴイスゴイ深刻劇だ」 「……バカ……そんなのないよ。怪奇心理劇てんだよコレア……」 「ああスゴかった」 「ステキだった」 「あすこまで行こうたあ思わなかった」 そうして又、思い出したように方々から振返って拍手の嵐を送るのであった。 しかし、その大勢の中にタッタ二人だけ、拍手しない者が居た。それは正面、特等席の中央に居る江馬兄妹(きょうだい)であった。 江馬兄妹はそこに作り附けられている人形使節か何ぞのように、無表情な両眼を一パイに見開いて、幕が降りてしまった舞台の中央を凝視していた。満場の人影が残らず消え失せてしまった後までもまだ揃って頬を硬ばらせたまま瞬(まばたき)一つせず、身動き一つしないまま一心に真紅の幕を凝視していた。
底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房 1992(平成4)年10月22日第1刷発行 ※校正に当たって誤字脱字の可能性がある点については、「夢野久作全集5」三一書房、1975(昭和50)年6月15日第1版第4刷発行を参照しました。 入力:柴田卓治 校正:kazuishi ファイル作成:kazuishi 2001年7月24日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
短剣の※(つか) 十字形の※(つか) |
第3水準1-86-28 | 上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] 尾页
|